『うつほ』から『源氏』へ
『うつほ物語』と『源氏物語』の異質性を一言でいえば、それは男の物語と女の物語の相違であるということができる。
一般に仮名の物語というと、女性の手になるものと思われがちであり、事実『源氏物語』をはじめ女流作家による大作、傑作は少なくないが、一方において、現存最古の『竹取物語』をはじめ、男性の手になる物語の伝流が脈々と流れていることも見落してはならない。むしろ仮名の発達流布の初期にあっては、物語に限らず、男性による仮名の作品のほうが女性のそれより多いことは、文学史の示すところである。これは、仮名の普及や摂関政治による後宮政策の重視、それらに伴う後宮サロンの充実と文化的向上などにより、女性がしだいに文化の表舞台に進出してくるまでの間、仮名の文学が男性によって支えられてきたことを物語るものであろう。もちろん、男性が晴の場において正式に用いる文字は真名で、記録や文学も漢文によるものが主流をなしていたであろうが、公私の和歌の場や、日常の女性との文通などには仮名を用いていたわけであるから、男性とてもかなりの程度、仮名に習熟していたと考えられる。
紀貫之が『古今集』の序文や『土佐日記』を仮名で記したのも、あながち貫之の独自性に帰すべきではないであろう。
物語文学の場合、現存の物語は作者未詳が多いし、
散佚物語もその内容を知るべくもないので、それらが男性の作か女性の手になるものかは判別し難いが、上述のような文学史的環境に照らして見るとき、『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』のようないわゆる歌物語にしても、『竹取物語』『
落窪物語』などの作り物語にしても、そのほか現在その名を知りうる散佚物語を含めて、『源氏物語』以前の仮名物語の大部分は、おそらく男性の手になるものであったと推量される。とすると、『
蜻蛉日記』『枕草子』『源氏物語』というような女流文学の著名作品は、むしろ少数派に属する女性の作品の代表ということになろう。
このように見るとき、従来の文学史が作り物語の展開を、竹取―うつほ―落窪―源氏と一線上に並べて、あたかも同類同質の物語の展開のように説明していることは、いささか粗雑に過ぎるといわざるを得ない。少なくとも『うつほ』から『源氏』への道程には、男の物語から女の物語への懸隔や飛躍があるはずであり、それを無視して物語史の展開を論ずることは
躊躇されるのである。
記録性と細密描写
『うつほ物語』を通読して誰しもが気づくことは、公私の行事描写が多く、しかもそれらがまことに詳細なことであろう。実際この物語には、正月の
賭弓、三月三日の
節会、花の宴、四月の
賀茂祭、五月五日の節会、競馬、七月七日の
七夕、八月の相撲、九月の九日の宴、十一月の残菊の宴、
五節、年末の
御読経、御
仏名等々の歳事や、算賀、
産養、
行幸、歌会、詩宴、
神楽などの諸行事が、飽くことなく繰り返し描かれ、その
度毎に催事の進行から人々の装束、
賜禄に至るまで、余すところなく精写される。このような筆法は、日常的に公的な記録を書き慣れた男性の筆を思わせるもので、その記録性は
具注暦にその日の出来事を備忘的に記しとどめていく漢文日記に通底している。貴族生活を活写している『源氏物語』にも、催事や賜禄の記述は決して少なくないが、それらの叙述は物語の流れに沿って物語世界に融合し、物語に奉仕しつつ必要最小限にとどめられているようであり、絶えず抑制が働いている。それは例えば、
明石女御の出産に際して当然行われたはずの産養などの諸行事を、「この程の儀式などもまねびたてむにいとさらなりや」(若菜
上)と、省略の草子地を用いて省いてしまったり、源氏の住吉詣での随行者の装束のきらびやかなさまを、「目もあやに飾りたる装束ありさまいへばさらなり」(若菜
下)と記して、具体的な描写は避けていることなどからも認められよう。また、『源氏物語』には「昔物語にも人の装束をこそはまづいひためれ」(末摘花)とか、「昔物語にももの得させたるをかしきことには数へ続けためれど」(若菜
下)などのように、昔物語に言及している叙述が見られるが、これらは、『源氏』以前の昔物語に装束や賜禄の詳述が多いという認識を示しており、記録性の濃い男の物語の特性を言ったものと考えられる。
しかしながら、女性が記録的文章を書かなかったと考えることは行き過ぎであろう。つとに『
太后御記』のような仮名の公的記録があるし、『
亭子院歌合』『
京極御息所歌合』『
天徳内裏歌合』などは、女性による仮名日記が付随しているし、『紫式部日記』の記録的部分なども詳細に行事や装束を書きとめており、女性による記録的叙述は珍しいものではない。その必要と目的によっては、女性も十分に記録的叙述をなしうることが認められるが、問題は、仮名の物語の中に、その記録性を抵抗なく取りこむかどうかであろう。その点、必要最小限の記録的叙述を、物語との融合同化を図りながら遠慮がちに取りこんでいる『源氏物語』と、詳細な記録を生のまま物語展開のエネルギーにまでしている『うつほ物語』との間には、同じ仮名の物語ながら、性格的に大きな懸隔を認めざるを得ない。
包括叙法の功罪
『うつほ物語』の文章が散文的、記録的であって、『源氏物語』の詩的、情趣的であるのとよい対照をなしていることは、よくいわれるところである。『うつほ物語』の現実を直截に記録する男性的な漢文日記性は、おのずから外観的で情趣に乏しい文体を作り出していて、文章表現としての評価はあまり高くないのが一般的であるが、しかしこの直截的で詳細な記録性が、読後の余韻として、何やら得体の知れない充実感を残すことも否定できない。
一例として、少し長文だが、源
正頼一族の
春日詣での記述を見てみよう。
……よろづのことを整へ、人のかたちなどを選らせたまふこと限りなし。童陪従四十人を整へ、男陪従四十人、舞人八十人、走り馬十匹。舞人は殿ばらの君だち、殿上人、わが御君だちよりはじめて、世の中に名高き逸物の者どもをなむ。童陪従にも、殿上の童をなむしたりける。かくて女は、大人四十人、うなゐ二十人、下仕へ二十人。装束は、大人は青色の唐衣、童は赤色に綾の上の袴、下仕へは青丹に柳襲着たり。大人、下仕へ、二十歳のうち、童、十五歳のうち。童、下仕へ、丈等しく、姿等しく選びたり。
かくて、二月二十日になむ詣でたまひける。御車、糸毛十、檳榔毛十なり。糸毛十には、宮よりはじめたてまつりて、女御子たち、あまたの北の方、あなたこなた、合はせて九ところ。女御の君は、はらみたまへれば、とまりたまふ。御装束、赤色の唐の御衣に羅の摺裳、萌黄の色の織物の御小袿設けたり。檳榔毛十には、一つに四人づつ乗りて、うなゐは鬢頬ゆひて、馬に乗れり。下仕へは徒歩より歩む。樋洗まし六人、青丹の上の衣着て歩み、御車の御前駆、四位十八人、五位三十人、六位五十人。馬の毛、下襲の色整へたり。…… (春日詣)
これだけの長文に「あはれ」「をかし」「いみじ」「おもしろし」などの感情語や、「うつくし」「めでたし」「きよら」などの形容語句が一つも用いられていない。これを例えば、『源氏物語』「行幸」の
冷泉帝の大原野行幸の場面と比べてみるとよい。そこでは、
供奉の
親王や
上達部たちが馬
鞍を整え、容貌丈立ちを揃えた
随身や
馬副が装束を飾り立てたさまを、「めづらかにをかし」と評し、
鷹狩に参加する人々の装束を「めづらしき狩の御装束」「
気色ことなり」と記している。また雪のちらつく道中の
風情を、「艶なり」と描写する。これに対して『うつほ』の春日詣での場合は、前掲のように、筆者の感懐をいっさい省いて記録の詳述に徹している。その徹底ぶりはまことにみごとというよりほかはないが、いったいこの叙述は、当時の読者にどのような読後感を与えたのであろうか。陪従の童が何人、大人が何人、舞人が何人、
走馬が何匹、車は何両でその前に四位が何人、五位が何人、六位が何人、その人々の装束は……とたて続けに書き立てられて、その数や着衣をいちいち
反芻し鑑賞する読者がどれほどいるであろうか。当時といえどもほとんどの読者は、女性ならばなおさらのこと、この克明に過ぎる詳密な叙述にわずらわしさを感じるであろう。しかし、記された人数や装束の一つ一つは記憶にとどまらなくても、読後には、何やら大変な人数で仰々しく春日まで繰り出したという印象だけは、強烈に残るのではなかろうか。一つ一つの丹念な詳密描写が重層的に大きくまとまることによって、強大なエネルギーを読者に伝えていると思われる。
これに続く春日社頭の歌会も同様である。省略しない作者の筆は、春日社頭に参集した親王以下上達部殿上人の三十八首の題詠を、一言の批評もつけず、歌題とともに片端から並記していく。これを読む読者は、誰がどの歌題をどのように詠じたかを記憶する余裕はないし、ましてやそれらを論評したり鑑賞したりしている暇はない。そしてともかくも読後に残る印象は、春日社頭において大規模な歌会が盛大に催されたという実感と、いい知れぬ充足感である。相対的に大貴族源正頼の強大な勢力をも感じ取ることができよう。
物事のすべてを細大漏らさず記録することにより力強い印象や充足感を与えるこのような文章を、包括叙法と呼ぶことができるならば、これは『うつほ』の記録性が期せずして生み出した叙述法として評価してもよいと思われる。そしてこの包括叙法による充実したエネルギーは、おそらく男の物語の特色の一つで、女の物語である『源氏物語』には
承け継がれなかったものと思われる。
異国異郷物語
物語の中には、日本以外の国や地域を舞台とした、いわば異国物語とでも称すべき物語がある。中国の故事に取材した『王昭君』や『長恨歌物語』が、『源氏物語』以前にすでに絵画化されていたことは知られているが、これらは異国を舞台とした物語である。この類の作品としては、散佚物語の『
唐国』や現存の『
唐物語』、後代のものだが室町物語の『二十四孝』『七夕草子』『
李娃物語』『楊貴妃物語』『宝満長者』『法妙童子』など、中国や
天竺を舞台とした物語や説話は少なくない。また『うつほ』の「俊蔭」の巻のように、物語の一部に異国を舞台とした場面をもつ作品もある。『浜松中納言物語』『
松浦宮物語』、散佚物語の『夢語り』『みことかしこき』などがこの類としてあげられよう。この異国物語の類は、もう少し範囲を広げれば、『三宝絵詞』『
入唐求法巡礼行記』『
華厳縁起』などの渡唐物語や高僧伝の類まで含まれるし、『今昔物語集』の天竺
震旦部に見える漢籍や仏典の翻案説話なども視野に入れるべきであろう。
また異国物語の変容として、この世のほかの異郷を物語の舞台とした作品もある。散佚物語の『はこやの
刀自』、漢文体の『
浦島子伝』、室町物語の『
蓬莱物語』『不老不死』などが異郷物語の類に入るが、
波斯国から仏の国の近くまで漂泊する『うつほ』の「俊蔭」も、また異郷物語といいうるであろう。そのほか本地物や地獄極楽めぐりの仏教説話なども広義には異郷物語の類に含まれる。
これらの異国物語は、『浜松中納言物語』が菅原
孝標女の作かと伝えられる以外は、ほとんどが男性の作と考えられる。異国についての広い知識や海外文化への強い憧憬は、やはり漢籍仏典に明るい男性ならではのものであろう。したがって異国異郷を物語の舞台とすることは、男の物語の一つの特性として認めてよいと思われる。
因みに『源氏物語』には異国異郷の物語場面はない。
以上、『源氏物語』が『うつほ物語』から継承しなかったと思われる性質の二、三について言及してみた。それらは
畢竟、男の物語の特性と考えられるもので、男の物語と女の物語の間には、やはり質的にかなりの相違を認めざるを得ない。
平安朝の物語というと、女流文学の印象が強いせいか、男の物語の視点は従来あまり重んぜられていなかったようである。しかし今後の物語史の構築には、とりわけ『源氏物語』以前の物語の展開において、男の物語・女の物語という視点の導入は必要と思われる。