伝統に挑む新興勢力
宮廷の奥深くに出入りを許された当代最高の知識人だけが作歌の現場に立ち、濃密な人間関係に一喜一憂するさまがそのまま素材となり得た遠い昔の時代の和歌とは異なり、近世和歌は、宮廷を中心に古典の享受と新しい表現の模索とが高い水準で行われた初期から、全国津々浦々で、多少の経済的余裕があり、知識欲に燃える人々が、和歌活動を思う存分展開できた末期まで、あまりにも多様な側面を見せつつ展開するので、全体像を概観するのは容易なことではない。そこで一つの点にしぼって、複雑で多岐にわたる種々相の解明の糸口としてみたい。それは〈正統〉と〈異端〉の
相剋において和歌史はどのような様相を呈したか、ということである。
和歌は、いうまでもなく長い伝統の延長上に常に位置づけられる。五七五七七の定型を無視しない以上、和歌は伝統的文学の
範疇を出ることができない。ゆえに和歌は、まずは伝統を守る立場で
詠まれる。これが〈正統〉である。一方、そういうあり方にあきたりなさを感じ、素材と表現において斬新さを求め、その主張を歌論と実作で提示する人物があらわれる。その人物は自分の主張を正しいものと確信しているが、伝統に立脚する人々は〈正統〉からはずれていると見なす。これが〈異端〉である。おもしろいのは、〈正統〉が常に同じ流派の側にあるのではなく、最初は〈異端〉として登場し、〈正統〉側にさかんに反発し、やがては主流に成長するが、そのうちに新しい素材と表現をひっさげた新興の勢力に〈正統〉としての堕落を攻撃されるという経過をたどることが多いように、〈正統〉と〈異端〉はその時々の状況に応じて流動するということである。その〈正統〉と〈異端〉の消長を軸に、近世和歌史を
鳥瞰してみることにする。
宮廷歌壇の正統の基礎
木下長嘯子は、慶長八年(一六〇三)時点で既に三十五歳に達しているから、新しい時代の和歌観を受け入れる余地はあまりなかったと思われるが、近世全般にわたって影響力を強く有したので、近世歌人の範疇に入れて扱う。その長嘯子の意見を
後水尾院が気にしていたという逸話が、当の後水尾院自らの口から語られている(後水尾院述・霊元天皇聞書『聴賀喜』)。
歌合の御製ども長嘯はききつるかと、阿野大納言に御たづねありつれば、いかにもうけ給はりつると申し上げしほどに、何と申したるぞと御尋ね有れば、いつもうけ給はり候ふに、ことの外出来しておもしろきも候ふが、是はいづれも御不出来なるよし申し候ひしとなり。
阿野大納言
実顕の嫡子公業は長嘯子の女婿だったから、実顕は長嘯子と歌道に関する雑談に時を過ごすことも多かったのであろう。その事情を知って、後水尾院は自ら主催した歌合(寛永十六年の仙洞三十六番歌合か)について長嘯子がどう言っているかを実顕に問うたのだった。院はまず「ききつるか」と聞く。歌合の院の御製に対して長嘯子が関心を持っているかがまず気になる。実顕は当然のごとく「確かに承っております」と答える。すると「何と言っているか」を重ねて問う。実顕を介して伝えられる長嘯子の返答は、にべもないものだった。いつも承り、特に成功しておもしろいのもあるが、これはどれも不出来だ、と。院に対してこれほど率直な批判が可能な人物は当時長嘯子をおいて他にはいなかったのではなかろうか。そして、ある意味では
傲岸不遜の
謗りを免れない長嘯子の言を、院もまた甘受する気持があったからこそ、霊元天皇に逸話を語ったのだろう。三十歳近くも年長の長嘯子は、院にとって特別の存在であり、自らが宮廷和歌の確固たる基盤を築きつつある自覚と自信をさらに強固にするために必要な相対化の視点を、晩年の長嘯子に求めていたのではないか。『難挙白集』の批判とは全く別次元で後水尾院は長嘯子を受けとめている。もっとも烏丸光雄述・
岡西惟中記『光雄卿口授』には、
長嘯の歌、法皇勅云、いづれも用ゐがたし。おのれが物とみゆる歌すくなし。あれの言葉、これの詞などによりてそれをしたててよみしものなりとぞ。
と、長嘯子の歌に対する厳しい批判の言も伝わっていて、後水尾院が全面的に長嘯子に心服していたのではないことは確かで、批判されるべき欠点もあったに違いないが、さりとて〈異端〉として抹消もしくは無視することもできなかったのであろう。長嘯子の歌を信奉する有力な組織の存在を常に意識しつつ、また歌人としての感性に相応の敬意を払いつつ、後水尾院は宮廷歌壇の指導者としての力量を身につけてゆかねばならなかった。長嘯子を前にして、何の疑問もなく自らを〈正統〉と信じ得る段階にはまだまだ達してはいなかったのである。
打砕かれた契沖の自信
近世の古典研究の水準を飛躍的に高めた人物として
契沖を挙げることに異論はないであろうが、その契沖の作歌についての自信を、霊元院歌壇の実力者
清水谷実業が粉砕したという逸話がある。
瀬下敬忠『長春随筆』や
大田南畝『仮名世説』に見え、既に『国学者伝記集成』にも掲げられているので著名な話ではあるが、〈正統〉と〈異端〉を考えるには適当な内容なので、改めてここで検討を加えてみたい。より詳細な『長春随筆』に主として拠る。
契沖は「堂上に和歌の名達多からぬ事を
諷して」次の和歌を詠む。
位山峰の梢にさく花は我がしきしまの麓にぞ見る
「位山」は位階を一つずつ上って行く堂上公家を指し、上句で堂上公家達が天皇を頂点に築いた宮廷歌壇で詠まれた和歌を暗示する。そして下句で、契沖自らが切り開いた古典和歌研究の成果から見ると、公家達の歌学・和歌ははるか下にあるとの自負を表明している。この歌が実業の耳に入り、実業は契沖を館に召して「いきまき
叱」った。対して契沖は、今の堂上家は「下手のみ多」いのに、
地下の歌人を「只地下と
鄙しめ給」うのは不当だと
反駁する。実業は、地下歌人は「誠の歌の情をしらず、名歌よむ事
叶はざる事あり」と主張、契沖は承服せず、「題を賜はりて即席に歌読みて御目にかけん」と
啖呵を切る。そこで実業は「双峰鹿」(『仮名世説』では「双方聞鹿」)の題を提示、契沖に即詠を求めた。契沖の歌、
ひとかたはもし山彦のこたへかときけば誠のさをしかの声
を目にした実業、「さればこそ地下の理屈いやしみ有りて、幽玄の躰、感情の誠をしらず」といい、どこがだめなのかよく考えて出直せと諭す。四、五日後、契沖が実業を再訪して「何と工夫しても右の外に読むべき言葉なし」と答えたところ、実業は次のごとく添削した。
ひとかたはもし山彦のこたへかときけばをじかの鳴きかはす声 (『仮名世説』は「よびかはす声」)
契沖は「一唱三歎して感涙を流し」、「いままでは我慢をもて、そもそも堂上の風とは何事ぞやと嘲り笑ひたる事、返す返すも誤り入り候」と述べて実業の門弟となった、という。真偽のほどはわからないものの、当時の契沖の位置を見定めるには
恰好の逸話といえる。
「顕昭、契沖も学者にて、歌学は無双の人にて御座候へ共、よみ歌は私体の耳にも不宜様に被存候」(
日野資枝述・石塚寂翁記『和歌問答』)の発言にも見られる通り、契沖の古典学者としての学力は誰しも認めざるを得なかったが、詠歌そのものの評価はあまり芳しいものではなかった。しかし当の契沖には、歌学に裏打ちされた歌才を信じて疑わないところがあったのかもしれない。「我慢をもて」は高慢な態度、思い上がりの心をもって、の意。当代の歌学者で、契沖のような現代の古典研究の基礎を成す業績をあげた者は一人もいないから、契沖に自ら
恃むところがあったとしても不思議はない。その自信を打ち砕いた実業の指摘は、契沖の下句が、山彦の反響かと思われた一方の声の正体を「誠のさをしかの声」とつきとめるという「地下の理屈いやしみ」を有することを述べ、二つの峰、もしくは二つの方向で牡鹿が鳴き合う状況を現出せしめるべく添削することで完結する。本物の鹿の声だと知ることが大切なのではなく、二頭の牡鹿の切実な思いを「鳴きかはす」にこめることが題の本意に叶う作歌法なのだと教える実業の添削は鮮やかというほかはない。ようやく中世以来の伝統歌学に動揺を与え始めた新しい和学の発展期にあって、歌学の知識と学力のみが和歌の出来を左右するのではないとの視点を与えてくれるこの逸話は、〈正統〉の持つあなどりがたい力を前提として近世中期以降の新風を相対的に評価しなければならないという教えともなっているようだ。
排斥された万葉調和歌
八代将軍徳川吉宗が堂上歌人の中でも
冷泉家の歴代を厚遇したことから、享保年間以降の江戸の武家歌壇では冷泉派が最大の勢力を誇るに至った。ちょうどその頃、吉宗の次男
田安宗武に仕えることでようやく身分の安定を得た
賀茂真淵は、『万葉集』の詞をちりばめた万葉調和歌を提唱し、宗武の理解も得て徐々に一門を拡げつつあった。江戸冷泉派の中心人物の一人、旗本の石野
広通は、その著『
大沢随筆』に、明和頃(一七六四~七二)の武家歌人六人(その中には広通自身も含まれている)の評判を書き留めているが、真淵の項には、
加茂真淵は、万葉は得たれどもまことすくなし。上つ代にならんとするは、絵にかける昔をみていたづらに心をうつすなるべし。
とあり、さらに自ら「真淵は変風の歌学の者也。歌よみとはいひがたし」と注記している。遠く俊成・定家の代から血脈を保ち、典籍を守り通した冷泉家、その冷泉家を厚遇する将軍家、この二つの権威の
膝下に
侍る広通は、まさに自らの意識では〈正統〉の権化となって真淵を排斥しようとする。真淵は『万葉集』を会得しているが、その和歌は作り物めいて「誠」がない、との評判に乗じて、真淵は学者(それも「変風」の)であって歌人ではないと言い放つ。現代の我々の目から見て、真淵の万葉調和歌は、すべてとはいい難いものの、新鮮な発想と美意識に支えられて相応の感銘を与えてくれるのだが、江戸人には評判が悪かった。『万葉集』を棚上げして『古今集』以来の和歌の伝統は、俊成・定家の時代を経て脈々と今に継承されている。その流れに逆らってことさら『万葉集』に帰るのは不自然だ、との意識が厳然として存在した当時、真淵の新風が受け入れられないのは仕方がなかった。身近に冷泉門の幕臣・町人を友人として多く持った大田南畝の次のような狂歌が、やはり冷泉門の
津村淙庵の随筆『
贏囂余聞』に記されている。
太田南畝万葉に擬する狂歌
烏羽玉の闇雲御先枕香のこがるる舟にむすこのるみゆ
「烏羽玉の」は万葉調和歌に頻出する枕詞で「闇」にかかり、「闇雲」で「御先真暗」に「枕香」を掛け、「焦がるる」「漕がるる」の掛詞を加え、最後は「~見ゆ」の万葉調の定型で結ぶ。真っ暗な闇の中、これから先どうなるかわからない恋に身を焦がし、遊女の枕から移った香りに恋いこがれて、漕がれてゆく
猪牙舟に身をゆだねる息子株―
洒落本の世界を、いかにもそれらしく万葉調で仕立てたのは南畝のうまさだが、これが〈異端〉の万葉調和歌を冷笑する多くの江戸の武家歌人の思いを代弁するものであったのは間違いない。近世の表現意識や価値観に即して考える限り、広通や南畝の見方を無視して真淵を評価することは意味がないのである。
権威の失墜と大衆俗化
ほぼ享和年間(一八〇一~〇四)を大きな境として、近世和歌は後期へ入る。時代の特徴としては、権威の地盤沈下、〈正統〉の流動化である。和歌を
嗜む人口も劇的に増大するなか、もはや群小の歌人入り乱れての悪口雑言の横行のみが目立つようになる。江戸の
村田春海・
橘千蔭に俗情を指弾された
香川景樹の桂園派が大きな勢力を形成してゆく一方で、地方の神官・名主層を中心に
本居派の国学が和歌指導を伴いつつ浸透する。個々の歌人の目には、和歌の世界全体の〈正統〉の何たるかはもう映っていない。ごくごく限られた身近な人を相手とした活動に自足する。今の短歌の総合誌に該当する類題歌集が陸続と刊行され、人々は金を払って一首二首の入集を
希う。まさに編集者と化した
撰者は、彼らのささやかな希望に応えることでよしとする。いってみれば、誰もが〈正統〉と思えるだけの材料が提供されたのが近世後期となろうか。そして明治に入り、これら旧派の和歌は打破すべき〈正統〉の遺物として葬り去られるに至る。