古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

異種混在の効能

第88巻 連歌論集/能楽論集/俳論集より
 日本文芸史を彩る数多い成果の中に、文芸評論とでも言うべき範疇はんちゆうがあり、本冊に収めた連歌論・能楽論・俳論はそれに属する。同じく文芸評論である歌論がそれだけで独立した一冊になっているのに比較すると、三分野の評論で一冊なのは軽い扱いのようにも見えようが、日本古典文学の主流であり続けた和歌について論じた歌論は、古代から近世にわたって執筆され続け、他を圧倒する量と質を誇っている。歌論だけで一冊、他の三分野の論で一冊なのが、程よいバランスと言ってよいであろう。
 とは言え、中世の詩歌についての評論である連歌論、中世の演劇についての論である能楽論に、近世の詩歌に関する評論たる俳論とが同居している本冊の、内容全体と関係づけて古典への招待状を書くことは、だれが書くにしても至難のわざである。三種の同居が、少々の共通色よりは互いの特色を際立たせている点に着目した小文をしたためることで、年長者ゆえに回ってきた責めを果たすことにしたい。
 能楽論を担当した筆者は、連歌論・俳論にも大学時代から親しんでいた。能楽論の講義が含まれるに違いないと思いこんでいた能勢朝次のせあさじ先生の講義や演習の対象が、案に相違して心敬の連歌論や蕉風俳諧しようふうはいかいだったためである。身辺に連歌や俳諧を研究対象とする先輩や友人が多く、輪読会などの形で連歌論書や俳論書を読む機会が多かったのもさいわいだった。能楽の研究に没頭するようになって他分野の書を読む機会は漸次減少したが、世阿弥の能楽論書との言葉の面の共通色確認のため、二条良基の連歌論書は繰り返し読んでいた。
 その頃に強く感じたのは、世阿弥の能楽論が粗削りながら強い迫力を持つのと比較すると、良基の連歌論は穏やか過ぎて物足りないとの印象だった。そのことを何かの折りに和歌研究の大家であった小島吉雄先生に話したところ、「先に世阿弥の能楽論を読んでから歌論や連歌論を読むとそんな印象を持つだろうね。順序が逆だと、歌論・連歌論も興味深いし、能楽論にはまた別の良さがあると思えるはずだよ」という意味のことをおっしゃった。接近の順序を表に出しての御意見だったが、論じる対象の差や論者の姿勢の差を無視した性急な感想を口にしたことをヤンワリとたしなめる口調でのお話で、有り難い忠告と感じたことを覚えている。だが、良基と世阿弥では論の迫力に大差があるとの印象自体は、今もって変わらない。
 世阿弥は、『風姿花伝』の奥義篇の奥書に、「道のため、家のため、これを作する」と、著述の目的を明言している。「道の廃れん事を思ふによりて、……ただ子孫の庭訓を残すのみ」(『風姿花伝』第三奥書)、「道も絶えぬべきかと、芸心の及ぶ所を、大かた申す」(『至花道』結び)など、他書でも同じ主旨の発言を繰り返しており、約二十種を数える彼の能楽論書のすべてがその立場で書かれている。自己の携わる芸を「道」と表現しているのは、父の観阿弥や自身が中心となって推進してきた猿楽能の改革の成果に確固たる自信を抱いていたからであろうし、「家」を重視するのはわが観世の家こそが猿楽能を支える家であるとの専門家意識が強烈だったからであろう。だが、猿楽「道」も「家」も、貴人の御機嫌を損じればたちまち崩壊する弱い立場にあった。その弱い立場の「道」や「家」にしがみつき、どう発展させるか、いかにして継続させるかに命をかけた芸人が世阿弥である。その論に迫力があるのは当然であろう。
 そうした専門家的意識が良基の論からは受け取れない。彼は当時の学芸の中心人物であり、連歌界の第一人者でもあったが、摂政・関白を歴任した北朝公家の代表的存在であり、専門の連歌師ではなかった。歌会での座興から脱皮して盛行しつつあった連歌の文芸性を、和歌的な世界と同等の所まで引き上げようとする意図は顕著であっても、連歌は所詮しよせん彼の余技であった。その論が温和で微温的なものに終始して当然だったのである。「連歌の道」とは言っているが、連歌の道を歌の道と対等視するほどの意識は持っていない。その道に命をかけるような世阿弥的な取り組みは、良基にとってむしろ忌避すべき執着しゆうちやくであった。「一首に命を代へ、難を負ひては思ひ死にしたる」歌道の例について、「連歌はさやうのことにては侍らぬことなり。……さのみ執着・執心はなきこと」と述べている(『筑波問答』)あたりに、そのことが現われていよう。「道」への意識が薄かったのであるから、「家」への関心がより希薄なのは当然視してよかろう。歌道における二条・京極・冷泉れいぜい家の対立といった現象は連歌界には見られず、寄合よりあいの文芸という基本的性格のためか、「家」の意識は、良基に限らず、連歌界全体に弱かったようである。右に微温的と言ったが、良基が地下じげ連歌・堂上どうじよう連歌の統一をはかるためには、それがかえって有効だったのではなかろうか。学芸の中心にいた貴人の良基が急進的で断定的な論を展開したのでは、反発を招いて受け入れられなかったであろうから。
 話が良基に偏したが、格段と深みのある連歌論を展開した心敬は僧侶であり、連歌界の傍観者的立場に終始した人なので、すぐれた連歌作者ではあったが「道の人」(専門家)ではなかった。その論にも、「歌の道」とか「この道」とかの語は多用されているが、連歌道意識といったほどのことは述べられていない。まして「家」についての発言など皆無である。室町末期に活躍した紹巴じようはの家が、江戸幕府に連歌の家として認められて連歌界にも「家」が出現したが、それは同時に連歌の終焉しゆうえんをも意味した。「道」の意識が薄く、「家」の意識は皆無に近いのが、連歌論の特色であるように、世阿弥能楽論との比較からは感じられる。
 俳論はまた連歌論とはかなり趣を異にする。江戸時代は書物出版が急速に普及したのが前時代とは大きく異なる文化状況で、各分野に多数の書物が刊行された。俳諧も、句集などの出版が普及に拍車をかけ、貞門・談林・蕉風などの風体ふうていの変遷に伴う論難も盛んで、江戸時代を通しておびただしい数の俳論書が出版された。だが、その中から文芸的価値の高いものを選ぶとなると、『去来抄』と『三冊子』に落ち着くのが常で、本冊でもその両書が選ばれた。芭蕉自身にまとまった俳論がなく、高弟の手で両書に記録された師芭蕉の言説が、蕉風の主張・考え方を把握する最良の資料だからである。この両書を読むと、「道」とか「家」とかを重視する世阿弥能楽論のような肩肘かたひじ張ったスタイルではなく、句の具体例を通して芭蕉の俳諧観を柔らかく描き出す手法が新しく、文芸評論も時代の変化に沿って変形してきたことを感じざるを得ない。
 室町期の俳諧連歌の系譜を受けたのが江戸期の俳諧であるから、俳論が連歌論の影響を受けるのは当然のことであるが、それは式目などの形式面に限られ、連歌とは異なる面に俳諧の独自性を追及するようになった談林以後の俳論には、連歌論の影響があまり見られない。両書でも、白雙紙しろそうしの冒頭の俳諧史的記事に若干の共通色を見いだせるだけである。分野も時代も異なる能楽論と通い合う点も、俳論には皆無に近かろう。世阿弥の能楽論書が、「道のため」の面は忘れられて「家のため」の面が強く認識されてか、観世家・金春こんぱる家などの特定の家にのみ秘蔵されて、その内容が世間に知られていなかったのであるから、俳論に世阿弥能楽論が影響していないのは当然である。影響ではないが、それぞれの道の新しい発展を目指す人の間にはおのずと通じ合う考え方も浮かぶようで、赤雙紙あかそうしの中に「新しみは俳諧のなり」の文言を見いだしてうれしくなった。ここの「新しみ」は、世阿弥が「と面白きとめづらしきと、これつは同じ心なり」と言う「めづらしき」と同じことであろう。「珍しきが」であることは、能も俳諧も同じなのであった。そうしたことに気づかせてくれるのも、異質の三種が同冊に一緒になっている効能なのではなかろうか。(表 章)
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