古典への招待

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俳句と俳諧

第72巻 近世俳句集・近世俳文集より
伝統の受け止め
俳句という名称は、江戸時代にも見られないことはない。しかしそれが一般化したのは明治時代になってからのことである。以来、昔の俳諧はいかい発句ほつくも俳句と呼ばれるようになった。本書でも〈近世俳句〉としたが、昔の呼び名ではやはり俳諧の発句である。
 俳諧の発句と近代の俳句とは、まったく別のものだという考えがある。現代の俳句は、現代詩の一種だから、俳諧の発句とは明らかに性格を異にしている。同日に語るべきではない。要するに、現代の俳句を論ずるのに、いまさら、芭蕉ばしようがどうだ、蕪村ぶそんがどうだといってもはじまらないというのである。
 たしかに、昭和初年代から十年代にかけての新興俳句や、大戦後の前衛俳句などの句群は、伝統からいかに離れるかを課題にしていて、俳諧の発句とはかかわりのないところに立っていたともいえる。その作者たちにとって、自分たちがとうに乗り越えたはずの俳諧の発句を引き合いに出して評されたりすることは、はなはだ見当違いであり、心外なことであったに違いない。
 現代の新奇を追い求める俳句にとって、近世の俳諧が古臭く、目ざわりなものであるという気持はわからないでもない。しかしどうであろう。それは新しい俳句が古くさい俳諧と、無関係であるということではないのではなかろうか。そこではやはり、目ざわりという形で、俳句は俳諧に深くかかわっている。伝統的な形式を受け継ぐ文芸として、それは宿命ともいうべきことであろう。
 近代の俳句史が、伝統的な特質を守ろうとする〈俳の因子〉と、より高度な文芸を求める〈詩の因子〉の相克によって進んできたとするのは、平井照敏ひらいしようびん説である。俳句が伝統的な〈俳〉に背を向けて〈詩〉に向かおうとしても、背後に〈俳〉があるという意味を無視することはできないだろう。むしろ背後の〈俳〉への反発が、〈詩〉へ押し進んで行く俳句の、一つの力になっている。そして〈詩〉への反発が、〈俳〉へもどるときの力ともなる。平井説が〈相克〉の語で示しているのは、そのことであろう。
 そもそも俳諧の意義は、伝統的な和歌や連歌の内部に発しながら、母胎を踏み台にして別趣の新文芸を創出したところにあった。現代の俳句が、俳諧を踏み台にし、さらには踏み捨て、全く異なった価値を創出しようとすること自体が、俳諧の歴史的な意義にかなっている。現代の俳句が、仮に俳諧を否定すべきものであると考えたとしても、その俳諧を含むことによって俳句の歴史は成り立っている。
 俳諧を否定しようとすることも俳句史の一つの活力であるとすれば、俳諧から何かをくみ取ろうとすることも、もとより俳句史の一つの活力である。明治の新派俳句は、それまで無批判に尊重されてきた芭蕉よりも、蕪村の詩趣を新しい目標とした。芭蕉尊重と蕪村尊重というあい反する力が、俳句史を活性化している。大正期の俳壇では、蕪村の世界にかわるかのように、一茶いつさの生活感が新鮮に受け止められ、さらには、あらためて芭蕉の哲理の深さが顧みられた。それらの背後には、明治の革新俳句によって否定されてきたいわゆる月並つきなみ俳諧の分厚な層があり、そのときどきの裏には、交互に舞台の正面を奪い合う感じの芭蕉・蕪村・一茶が控えていた。俳句の歴史における裏方の存在の意味も忘れるわけにはいかない。それにしても、明治・大正のころの俳句にとっての伝統は、おおむね偉大な個人であり、個人の文芸であり、思想であった。つまりは芭蕉・蕪村・一茶といった個人の名前が、伝統そのものの重さをもつて響いた。伝統は個人の名前を離れない。伝統は個人に帰する。それは近世以来の文人的伝統観でもあるだろう。
 昭和の新興俳句は、そもそも反伝統の運動であったから、伝統としての近世の俳諧にほとんど関心を示さなかった。戦後の前衛俳句も同様である。しかし伝統に関心を示さないことも、示さないという形で伝統を意識することであり、伝統があるからこそ、それに関心を示さないということが、一つの意味を持ち得た。俳句が伝統的な五・七・五の定型に従う限り、その伝統の桎梏しつこくから逃れることはできない。
 芭蕉の研究家でもあった加藤楸邨かとうしゆうそんが、新興俳句と一線を画したこともうなずけることだが、新興俳句と一線を画する意識が、いよいよ芭蕉への傾斜を深めたことでもあろう。新興俳句が俳諧の伝統よりも、西洋の詩に傾いていたことが、それに反撥はんぱつする楸邨の、芭蕉に向かう姿勢をより深くしていたものとも思われる。楸邨の芭蕉への思いは、芭蕉個人への思いであるにしても、大正時代の哲学風の芭蕉のとらえ方ではなく、芭蕉を一つの表現主体として考えようとするものであった。哲学風でないことはもちろん、国文学のアカデミズムともやや異なって、要するにみずからの内部の表現主体を意識する創作家風の芭蕉享受であった。楸邨の芭蕉に対する姿勢は、伝統尊重であるには違いないのだが、その態度や方法においては、相当に革新的であったといえる。そのような楸邨の新しさには、新興俳句の伝統軽視の衝撃波の影響がないことはないだろう。
 楸邨と同様に、新興俳句にくみしなかった石田波郷いしだはきようは、蕉門の撰集せんしゆう猿蓑さるみの』に多くを学ぶことによって、古典に競い立とうとした。波郷にとっての古典は、芭蕉という個人ではなく、『猿蓑』の作品群であった。波郷は蕉風の表現には関心を持っても、芭蕉という主体そのものには、それほどの関心を示さなかった。そこにも新興俳句の伝統軽視の衝撃波が、楸邨とはやや違った形で伝わっているように見える。楸邨と波郷のそのようなやりかたは、伝統の受け止め方の専門化、技能化ともいうべきで、そこには一種の革新性があった。姿勢や方法において革新性を持つことによって、俳諧の伝統の厚さは、新たな力を持つことができた。
 戦後俳壇における伝統への回顧は、桑原武夫くわばらたけおのいわゆる第二芸術論の打撃と無関係ではなかった。第二芸術論が、桑原のフランス文学の素養による基準によって、俳句を裁断的に批判する趣があったのに対し、山本健吉やまもとけんきちは古典俳諧の別趣の価値を論じ、俳句の本質がそこに由来することを説きながら、柔軟に俳句の意義を認めようとした。そこで山本は芭蕉個人を取り上げるにしても、それを俳諧全体の代表、もしくは象徴、あるいは一部として語った。伝統はすでに、個人の次元にはなかった。
滑稽への着目
山本健吉が、その著『純粋俳句』(昭和二十七年刊)に、俳句固有の方法として、挨拶あいさつ滑稽こつけい・即興の三つを挙げたことはよく知られている。山本は長く総合俳句雑誌『俳句研究』の編集にたずさわり、仕事として厖大ぼうだいな量の俳句に接し、その経験とともに古典俳句に立ち向かい、そのことから、俳句の固有の方法に関して、おのずから三つの命題を確信した。〈一、俳句は滑稽なり。二、俳句は挨拶なり。三、俳句は即興なり〉である。着実な論証によって得られた結論というようなものではなく、大量の俳句に触れたところから得られた体験的な直観であったのである。それは、それ以後の俳諧・俳句論における指導理念のような役割を果たし、俳諧・俳句の本質論として受け取られ、戦後俳壇に大きな影響を与えた。国文学の素養を生かしながらも、編集者の実感に基づくものであったところに、独特の説得力があった。
 山本の説は、主として同書中の論文「挨拶と滑稽」の章に述べられている。その初出(同人誌『批評』ほか)は昭和二十一、二年であるから、昭和二十一年十一月初出(雑誌『世界』)の桑原武夫の第二芸術論と重なり合っている。しかし山本自身の回想「俳句と私」(昭和五十八年「朝日新聞」初出)によると、第二芸術論の応酬に加わる気にはならず、戦争中に芭蕉や現代俳句について考えたことを基にして書いたものだ、という。戦時下、西欧的な文学観が否定的に扱われ、国粋的な文学論が横行する中で、日本独自の俳句の方法を考えるということは、山本にとって、いわば自己確認の作業であった。それを、戦後アメリカ流民主主義の怒濤どとうの中で書いたのだから、第二芸術論に対するというような小さな話ではなかった。だが、結果的には、第二芸術論に対する俳句の側からの反論の役割を果たしている。
 山本としては、広く現代にも通じる俳句の方法として考えたのであろうが、それが主として中世連歌や近世俳諧の発句に基づく所論であったので、現代の俳人はそれを、俳句一般のことではなく、古典発句固有の方法として受け取るような傾向があった。その中でも滑稽という考えが、従来のとくに芭蕉の場合のように、真摯しんし厳粛な求道的気分とは隔絶していて、はなはだ新鮮であった。
 命題を後から理由づけようとする山本の論文は、饒舌じようぜつ体ともいうべきところがあるが、発句には、わき以下の付句つけくを誘い出す談笑の場があり、そこに滑稽の精神が昇華して芸術が成立しているというようなことをいいたいらしい。その滑稽は単なるおかしみではなく、知的な批判的認識の精神とでもいうべきものだが、やがて滑稽という語が一人歩きして、俳諧が単なる滑稽であるというようにもいわれるようになった。
 一方、昭和二十年代に新制大学が発足して大学教師が急増し、その採用や昇任の際などに、研究業績の点数が云々うんぬんされるようなことが多くなった。そのため、国文学の一分野として、研究対象を俳諧に求めるものも増えた。全国的な組織として俳文学会が創設されたこともあって、俳諧研究は急速に活発化した。戦後の俳諧研究をそれまでの研究と区別する最大の特徴は、芭蕉・蕪村・一茶を中心的な基準とするいわば天才主義から、地道に俳諧史の網目を埋めて行く普通人主義への転換であろう。とくに、近世初期の貞門・談林の研究が注目されるようになり、資料の整備・紹介があいつぎ、芭蕉以前の俳諧の様相がしだいに明らかになった。また、芭蕉の時代の芭蕉以外の俳諧の実態も少しずつわかって来た。さらに、従来俳諧史の暗黒時代、もしくは空白時代と考えられていた享保 きようほう期や、蕪村の時代の蕪村以外の俳諧についての調査、考究も進み、芭蕉・蕪村・一茶を中心に置くことが、俳諧史の実情を知るさまたげになるのではないかとも考えられるようになった。さらには、俳諧史の本流は芭蕉・蕪村・一茶とは別のところにあり、その三人は、むしろ俳諧史の傍流であるのではないかとの意見も見られるようになった。それは、天才よりも普通人を重んじる戦後民主主義の単純な反映の部分もあろうが、俳諧研究の実証的な精緻せいち化、いわば学問化の成果であることもたしかであろう。
 従来の芭蕉・蕪村・一茶中心史観から自由になるためには、そもそも俳諧とは何かということにたちもどらざるを得ない。とすれば、当然に俳諧の語義である滑稽が注目されるようになる。芭蕉の哲学の深遠、蕪村の芸術の多彩、一茶の生活の実感、これまで価値高いとされてきたものは、滑稽を第一義とはしていなかった。それらを俳諧史の傍流であるとすれば、おのずから本流には俳諧の語義である滑稽が浮かびあがってくる。
 そのような俳諧研究の傾向と山本健吉の所説が結びつき、根底には、第二芸術論とは別基準によって俳諧・俳句を肯定しようとする願望もあって、俳諧の特質としての滑稽が認識され、大いに強調されるようになった。また、芭蕉の文芸の中世寄り、連歌寄りの性格の指摘は古くからあったことだが、それが戦後の近世文芸の庶民性重視の風潮に力を得て、批判の様相を帯び、逆に俳諧の庶民的な滑稽性が重視された。また比較的新しい蕪村の磊落らいらく性や俳力ということへの注目も、滑稽性重視に連なるところがあった。
 近世俳諧の滑稽性を重視することが誤りではないとしても、それが強調され、現代俳句の活路の一つであるかのごとく論じられることがあるのは、いささか行き過ぎではなかろうか。それによって、近世俳諧の到達した高み、とくに蕉風俳諧の風雅の達成から、眼がそらされてしまうおそれがありはしまいか。いま珍しがられている滑稽は、近世俳諧の谷間というほどではないにしても、いわば鞍部あんぶであって、近代俳句の先人たちが、せっかく百年の歳月をかけて乗り越えてきたものではなかったかとも思う。
 滑稽は、俳諧の重要な方法ではあっても、目的ではない。俳諧は滑稽を手段として、何かを表現しようとしてきた。俳諧において、それははなはだ有効であったが、滑稽そのものを表現の目的とするものではなかった。俳諧が求めたものは、滑稽の刺激によって到達することのできる格別の真実であった。(山下一海)
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