古典への招待

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後醍醐天皇と足利尊氏

第55巻 太平記(2)より
『太平記』の中で後醍醐ごだいご天皇の実像が最も鮮明に描かれている箇所は、巻十七の「儲君を義貞に付けらるる事」とその直前の「堀口還幸を抑へ留める事」の章段ではなかろうか(古態本の西源院本で見ると、「自山門還幸事」「堀口押留還幸事」「立儲君被付義貞事」の三章段に相当する部分である)。建武三年(一三三六)五月、この年、再び比叡山に難を避けた後醍醐天皇は、宮方の度重なる敗戦によって、「京勢(足利方)はかごの中をでたる鳥の如くに悦び、宮方はあなこもりたる獣の如くにつづまれり」(本文:三八二ページ)という状況に堪えがたくなっていた。ほぼ半年に及ぶ山上生活である。宮方に一本化しているかと思われた僧徒たちも、将軍足利尊氏あしかがたかうじから「数箇所の庄園を寄附」されて切り崩され、「目の前の欲に身の後の恥を忘れ」て武家方に寝返ったが、それも、「山門の衆徒財産を尽くし、士卒の兵粮を出だすといへども、公家・武家の従類上下二十万人に余りたる人数を、六月の始めより十月の中旬まで眷養けんやうしければ、家財ことごとく尽くして、ともに首陽にのぞまんとす」という有様では、非難できることではなかった。足利高経たかつねによる北国街道の封鎖、佐々木道誉・小笠原貞宗さだむねによる琵琶湖運送の停止によって、山上の軍勢と僧徒たちは耐乏生活の限界を超えようとしていた。
 一方、湊川合戦ののち、直義ただよしを都へ入れ、尊氏自身は石清水八幡に留まって、六月三日に光厳こうごん上皇と豊仁ゆたひと親王を迎えていたが、同月十四日に上皇と親王を奉じて東寺へ移った。そして『太平記』が六月三十日・七月十三日・同十七日の三度にわたる京合戦に構成している(本文:三五六ページ頭注)六月三十日の合戦が行われるのであるが、この合戦は宮方が奇襲作戦でなく正面から武家方と戦いえた最後のもので、名和長年なわながとしが六条大宮で戦死している。この日の合戦を前にして、早朝、光厳上皇に宛ててしたためたとされる尊氏の文書が近年天龍寺で上島有氏らによって発見された(「毎日新聞」一九九〇年四月一一日)
美濃国大榑庄おおぐれのしよう、播磨国多可庄たかのしようは、去月二十五日、楠木判官正成湊河において討ち取らしむ恩賞に宛てらるべきか。ここに新田義貞已下凶徒等、山門に逃げ籠り城墎を構ふ。討手を差し遣るべき旨院宣を成さるるなり。この旨畏み奉り、達し奉らしめ給ふべく候ふ。(原文は漢文)
この文書は、武士の棟梁権を自分と争う資格を有する新田義貞につたよしさだを、光厳上皇の院宣によって朝敵としている点で、章段「堀口還幸を抑へ留める事」の冒頭に記されている山上の後醍醐天皇への誓言(本文:三八三ページ)と軌を一にする。後者は、前年の十月中先代の乱を鎮めるために東下した際に天皇に背くようになったのは義貞・義助らのせいであること、天皇に対しては少しも反逆の意志がなかったことを述べ、「ただ義貞が一類を亡ぼして、向後の讒臣ざんしんを懲らさんと存ずるばかりなり」(本文:三八四ページ)という。そして、「天下の成敗」を朝廷にお任せするから京へ還幸していただきたい、と諸神勧請の起請文を添えて懇願するのである。後醍醐天皇は「かたへの元老・智臣にも仰せ合はせられず」、すぐに尊氏の申し出を受けて、還幸の決意をする。尊氏は、「『さては、叡智浅からずと申せども、欺くに安かりけり』と悦んで、さもありぬべき大名どもの許へ、縁に触れ趣を伺つて、潜かに状を通じてぞ語らはれける」と、『太平記』作者は語っている。これほど上手く「御和談」(『建武三年以来記』)が運ぶとは思っていなかった、という筆致である。さっそく、新田方の武将に対する切り崩し、誘いが行われ、その結果が「新田の一族にて、いつも一方の大将」(本文:三八五ページ)である江田行義えだゆきよし大館氏明おおだちうじあきらの、還幸供奉のために持ち場を放棄しての登山となって現れている。このあたりの『太平記』作者の語り口は驚くほど鮮やかである。
 義貞の部将で新田氏一族の堀口貞満ほりぐちさだみつが皇居へ駆けつけると、還幸の仕度は完了していた。貞満は鳳輦ほうれんながえに取りついて、多年忠功の義貞を見捨てて、「大逆無道の尊氏」に叡慮を移されるとは、どのような「不義」が義貞にあったからなのかと詰め寄る。続いて、「今洛中数箇度の戦ひに、朝敵勢盛んにして、官軍頻りに利を失ひ候ふ事、全く戦ひの咎にあらず。ただ帝徳の欠くる所に候ふかによつて、御方みかたに参る勢のすくなき故にて候はずや」(本文:三八七ページ)という。これは、この年の二月、尊氏が兵庫から筑紫へ落ちたときに、楠木正成くすのきまさしげが天皇に、今回自分が河内・和泉の守護として兵を集めようとしても集まらない、敗軍の尊氏に武士たちは手弁当で従って行こうとしているのだ、と言い、自分が天皇と尊氏との仲介をするから尊氏を都へ呼び返していただきたいと献言したこと(『梅松論』)を読者に思い起させる。『太平記』作者の時代認識を反映している表現だといえよう。貞満はさらに、どうしても天皇が京都へ還られるのならば、義貞をはじめとする新田氏一族五十余人の首をねてからにしていただきたい、と諫めた。このあたり、貞満の姿は、すでに義貞と一体化しているのである。そこで、天皇も後悔の色があるものの、
「貞満が朕を恨み申しつるところ、一儀その謂れあるに似たりといへども、なほ遠慮の足らざるに当れり」(本文:三八八ページ)と自己正当化を計るが、天皇自身やましさはやはり消えなかったようだ。「天運いまだ時到らずして兵疲れ、勢ひ廃れ」(本文:三八九ページ)たから、尊氏と「いつたん和睦の儀を謀つ」たのだという。こうして皇太子恒良つねよし親王に譲位して、義貞につけて北陸へ下向させることで、義貞を慰めるのである。天正本では、夜ひそかに日吉社の大宮権現に祈念する義貞について、「誠に勇士家を起して、望むに子孫を思ふことあれば、義貞も北国へ落ちて、事もしならずはと、子孫のために祈念を尽くされける心の中こそ哀れなれ」(本文:三九〇ページ)と増補して、義貞を切り捨てる後醍醐天皇との違いをきわだたせようとしている。
 後醍醐天皇還幸の要請は三種神器の北朝への引き渡し以外には考えられない。光明天皇(豊仁親王)の践祚の儀はこの年(建武三年)八月十五日に権大納言二条良基よしもと邸で行われた。このことは巻十九の冒頭章段「豊仁王登極の事」に詳しいが、この二日後の八月十七日に、尊氏は自筆の願文を清水寺の観世音菩薩の宝前に納めている。
この世は夢のごとくに候。尊氏に道心ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候。今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候。
   建武三年八月十七日尊氏 (花押)
清水寺
 神奈川県の常盤山文庫に蔵されているこの願文は、自分に道心を授けて欲しい、早く遁世がしたい、今生の果報は弟の直義に与えて欲しい、と願っている。仮名文字のややたどたどしい願文で、終りに行くと文字も少し小さく、文字と文字の間隔も詰ったものとなっていて、はじめから字配りなどを考えて書かれたものではなく、もしかするとある錯乱状態で書かれたものではないか、とさえ推測される。宮方の攻撃によく耐え、六月三十日の大合戦に勝利を収めて、豊仁親王を位につけることにも成功し、幕府を開き建武式目を制定することも完全に予定されたこの時期は、三十二歳の将軍尊氏にとって得意の絶頂にあったのではないかと想像されるのに、なぜこのような願文を書いたのか。前年九月、鎌倉で建長寺(『梅松論』では浄光明寺)に籠って、後醍醐天皇に恭順の意を表した尊氏の姿に重なるものがある。
 さきに掲出した、六月三十日合戦当日に治天の君光厳上皇に奉った文書は、それまで決着のつかなかった合戦の中で、自らの万一の場合をも考えたうえでの細やかな配慮のもとに書き記したものであろう。冷静に計算することのできる、しかも人心収攬にたけた政治家像が思い描かれる。それに対して清水寺に納めた願文は、三種神器を欠く光明天皇擁立が無理を通したものであることを痛感し、敬慕する、ないしは精神的にあらがうことを自分自身好まない後醍醐天皇を欺き、還幸を奏請する折衝の日程を暮夜考えて、おそらくは不安定な精神状態の中でこれを書いたのではないか。この願文は遁世することの代償行為だと考えられないであろうか。「この世は夢」のようなものだとは承知していても、半年前に筑紫落ちをして以来のことを考えると、この世の転変、自分が一族だけでなく、武士階級の未来を創っていかなければならないという、目のくらむような責任などを考えると、矢も盾もたまらずに、願文をしたためたくなったのであろう。このように考えることが許されるならば、生身の尊氏はこれら二通の文書の間を往復している存在だということがいえよう。
 近年、『太平記』の全体像を、後醍醐天皇の物語として読み解こうとする論が盛んになろうとしている。その嚆矢こうしは長坂成行氏の「帝王後醐醍の物語―『太平記』私論―」(「日本文学」一九八二・一)であろう。氏は後醍醐天皇は作品中に「意志の人」として登場し、「重要な判断を必要とする場面では、自らが断を下し運命を切り開いており、その意味で後醍醐は物語の流れを領導する主役」だととらえ、その「意志的・積極的な態度は、ともすればあくことのない執着心あるいは我意に任せての狭量さ・驕慢さを伴なって現われる」とする。そして、いわゆる第三部の世界で怨霊化する後醍醐は、巻二十三の冒頭章段「伊勢国より霊験を注進する事」(流布本は「大森彦七事」)で、怨霊となって大森彦七の所持する宝剣を奪おうと企てる楠木正成の言葉として、「先朝(後醍醐)は元来摩醯首羅まけいしゆらわうの所変にてましませば、今還つて欲界の六天に御座あり」とあるところを指摘して、「摩醯修羅は即ち大自在天(シヴァ神)で、世界創造と破壊の最高神」であり、「冥界においても後醍醐は顕界に働きかける核となる」と考える。後醍醐天皇の崩御の姿が多くのテキストで「左の御手には法花経の五の巻を握らせ給ひ、右の御手には御剣を按じ」となっている点に注目したい。徴古館本には「五の巻」は見られない(神田本は欠巻)が、『法華経』第五巻は提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品を含むけれども、『太平記』作者が問題とするのは、死者が地下から現れ出ることを祈る涌出品の存在であろう。後醍醐天皇の亡骸を通常の南向きに葬らずに、北向きにして都の方角に対峙たいじするようにしたのもそのためである。怨霊となっての復活を暗示したものであり、巻二十一以降の『太平記』世界は、復活した後醍醐が、南朝方に属して失意のうちに死んでいった者たちの頂点に立って現世(顕界)に働きかけるという構造を持つのである。
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