古典への招待

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近・現代史としての『日本書紀』

第4巻 日本書紀(3)より
『日本書紀』の第三分冊である本巻は、『紀』全三十巻のうち巻第二十三から巻第三十までの八巻、天皇の代数では舒明じよめいから持統じとうまでの七代の歴史を内容とする。年次でいうと舒明元年(六二九)から持統十一年(六九七)までの六十九年間の歴史である。編纂が終って上奏されたのは養老四年(七二〇)で、時の天皇の元正げんしようからすると、最初の舒明は曾祖父、最後の持統は祖母にあたり、年数では養老四年よりかぞえて九十一年前から二十三年前までの事がらが記されているのである。
 上奏を受けた元正は天武八年(六七九)の生れであるから持統十一年には十八歳、編纂を主宰した舎人親王とねりしんのうは天武の皇子で天武五年(六七六)の生れ、持統十一年には二十一歳になっている。また巻第二十五であつかわれる大化改新たいかのかいしんの中心人物の一人とされる藤原鎌足かまたりの子不比等ふひとや、巻第二十八で描かれる壬申じんしんらんに活動する大伴安麻呂おおとものやすまろの子旅人たびとなど、『紀』にあらわれる人物の子や孫で、『紀』上奏の時に朝廷で相当の地位にいた人びとは少なくない。『日本書紀』はいうまでもなく国常立尊くにのとこたちのみことの神代からはじまり、入代にはいって初代神武以後、持続に至る四十代(弘文こうぶん天皇を省く)の悠遠の歴史を記すが、本巻で取りあげる巻々は、養老四年という『紀』完成の時点に立って見れば、朝廷の貴族たちに取っては父や祖父の時代、つまり近・現代の歴史なのである。
 その時代の歴史は、それ以前の時代の遠いおぼろげな記憶や伝承とはちがい、『紀』編者の父母や祖父母が、場合によっては編者みずからが、直接、目にし、耳にしたところが少なくない。しかも時代は、国家の組織が氏姓制から律令制へ進展してゆく、換言すれば中央集権の古代国家の形成される、波乱にみちた変動期である。編者たちはこの激動時代を、具体的に生彩にみちて描くことが可能であった。
 実際、その観点から『紀』の巻第二十三以後を見ると、歴史上の大事件に関する興味津々の記述が多い。たとえば、小墾田官おはりだのみやの奥深く臨終の床にある推古女帝と、見舞いにことよせて病床近く推参した山背大兄王やましろのおおえのみことの皇位をめぐる含蓄深い問答(巻第二十三)、大化の新政を企図した中大兄皇子なかのおおえのおうじが自ら槍を携え、飛鳥板蓋官あすかのいたぶきのみやの「大極殿だいごくでん」の側に隠れて大臣蘇我入鹿そがのいるか暗殺の機をうかがい、「咄嗟やあ」と叫んで率先殿中に斬りこむ緊張に満ちた描写(巻第二十四)、蘇我赤見そがのあかえの詐略におちいって謀反の罪により捕えられた有間皇子ありまのみこが、紀温湯に滞在中の中大兄皇子のもとに護送されて審問を受ける切迫した場面(巻第二十六)、さらに古代最大の内戦である壬申の乱を記した巻第二十八では、乱の前提となる大海人皇子おおしあまのおうじの吉野入山の経緯からはじまり、大海人の決起の決断、決死の東国行をへて、大海人の反攻と大友皇子おおとものおうじの死を以て終局するまで、華々しい戦闘のシーンを含む波乱に満ちた物語が展開される。
 もちろん、それらの叙述のなかには、興味を盛りあげるための編者のフィクションや、中国の古典の語句を借用した紋切型の表現も少なくない。とくに前者については、入鹿暗殺事件では中大兄の活動をきわだたせるための作為がこらされているようだし、壬申の乱では大海人の偉大さを強調する作為のほかに、戦闘場面において当麻たぎまちまたの戦いで勇士来目くめの奮闘、上道かみつみちの戦いでの「甲斐かいの勇者」の武者ぶりを記した文章などは、後代の軍記物語の萌芽ともいえる誇張が含まれているであろう。しかし、それらの虚構を考慮に入れても、実際の体験、またはそれを直接に伝聞したのでなければ書けない迫真性・写実性にみちた記述が各所にちりばめられていることもまた否定できない。推古朝以前の巻々にみられない本巻の面白さである。
 ところで、壬申の乱は『紀』が成立した養老四年より約半世紀前の六七二年に起った事件である。乱以後の天武・持統朝は養老期の天子元正の祖父母の時代であるが、舎人親王にとっては父母の時代であり、元正に右大臣として仕えた藤原不比等は、持統三年(六八九)に三十歳、直広肆(大宝令制従五位下相当) の中堅官人となっている。元正朝に中納言の大伴旅人はそれより五歳若いだけである。元正朝の貴族・官人(その中には『紀』の編者も含まれる)にとって、壬申の乱以前を近代とすれば、乱以後の歴史は現代史であろう。それを反映するかのように、天武即位以後の天武紀下(巻第二十九)と持統紀(巻第三十)にはそれ以前の巻々を彩った物語的な叙述は少なく、きわめて実録的・制度史的となる。劇的な記事はまれで、読みものとしては平板、一見、退屈な巻々と言われよう。
 しかし『紀』を文学としてでなく歴史書として読む者にとっては、それはそれで面白い。天武紀下に限って見ても、文面には大学寮・陰陽寮・外薬寮・兵政官・民部卿・摂津大夫・法官・大弁官・納言・宮内卿・京職大夫・大蔵省など(記載順、以下同じ)の官司・官職、三流さんる・徒罪・大辟・杖などの刑罰、進薪・告朔・考選など官人の職務や身分に関する事項等の律令用語が次々に現われ、天武朝に律令官制をはじめとする諸制度が着々と形成されてゆくさまが推測されて興味深い。いちいち記す暇はないが、その点は持統紀でも同様である。
 そしてまた、この二巻はそうした制度史的記述に終始しているだけではなく、時には政治の内実を切り取って見せる記事もある。たとえば天武四年十一月条に浄御原宮きよみはらのみやの東の岳に登り、妖言ようげんして自殺した者のあったこと、同八年五月条に天武が皇后と六人の皇子をともなって吉野に行幸し、互に二心を抱かないことをちかったこと、持統紀でもその六年三月条に、天皇は伊勢への行幸の計画を農作の妨げになると、職を賭して止めた三輪高市麻呂みわのたけちまろ諌言かんげんに従わず、東国の旅を強行したことを記している。壬申の乱とそれ以前の巻に見るようなまとまった物語ではないが、史実の断片であるだけに、さまざまに想像の翼を伸ばすことができる。
 もちろん闇から闇に葬られた史実も多いにちがいないが、僅かでも政治史の真実の一面を明かしてくれる記事があることは、巻第二十九・三十の特色といってよいであろう。
 しかし注意せねばならないのは、近い時代の記憶に鮮明な事がらを書いた史書だからといって、単純には信用できないということである。むしろ近い時代の歴史だからこそ、迂闊うかつには信用できないのである。それは、時代が近ければ近いほど、現に生きている人や組織の利害に関係することが多いからである。とくに『日本書紀』は天皇の命により、政府の事業として編纂されたものであるから、若干の例外を除いて、編纂時の天皇や政府にとって都合の悪いことは削除・隠蔽され、都合のよいことは誇張され、時には造作される。かつての日本の歴史教科書が、「満州国」を王道楽土の地とたたえ、日中戦争を横暴な中国を贋懲ようちようする「聖戦」と称したことを想起すれば明らかであろう。
『日本書紀』の場合、本巻であつかう部分では大化の改新の記述に作為の多いことが指摘されている。筆者自身は大化改新のすべてを虚構とする説にはくみしないが、潤色・文飾が相当に多いことは事実と考えている。この政変は『紀』を編纂した八世紀の朝廷の依って立つ律令体制の起源となった事件だから、それを美化して描くのは当然であろう。また大宝令において制定された省・寮・司や守・介・掾・目などの官司・官職名、国の下位の行政区画としての郡の名称等が本巻にしばしば使用されているのも、大宝令制の成立を古くみせようとする『紀』編者の修文に依るものであろう。そうした歪曲が多いことに注意するのも、本巻をひもとく時の必須の心得である。
(直木孝次郎)
巻々の紹介
 本書所収の、『日本書紀』巻第二十三~巻第三十は、第三十四代舒明じよめい天皇から第四十一代持統じとう天皇までが収められている。大化改新たいかのかいしん壬申じんしんらんを経て、律令国家完成へ向う時代である。『古事記』の記述も推古朝までで終り、舒明朝には及んでいない。
 巻第二十三は、舒明天皇の一代記。推古天皇崩御後、皇位継承についての遺詔をめぐって、山背大兄王やましろのおおえのみこ(聖徳太子の子)支持派と田村皇子(敏達びだつ天皇の孫)支持派が対立。山背大兄王を推す境部摩理勢さかいべのまりせが殺され、蘇我蝦夷そがのえみしの推す田村皇子が即位する。飛鳥岡本官に遷都。火災により田中宮に遷る。対外関係では、犬上三田耜いぬかみのみたすきら第一回遣唐使の派遣。唐からも使者の来日があり、留学生も帰国する。百済からは、人質として王子余豊璋よほうしようを受け入れる。舒明十三年十月、天皇は百済宮で崩御。歌一首がある。
 巻第二十四は、皇極こうぎよく天皇の一代記。天皇は舒明天皇の皇后で、中大兄なかのおおえ皇子(後の天智てんち天皇)と大海人おおしあま皇子(後の天武てんむ天皇) の母でもある。蘇我蝦夷・入鹿いるか父子の専横。蘇我入鹿は、山背大兄王を滅ぼす。中大兄皇子は、中臣鎌子なかとみのかまこ(藤原鎌足)とともに、蘇我入鹿を討ち、その父蝦夷をも誅する。朝鮮半島では、百済・高麗(高句麗)に政変がある。皇極四年六月、かる皇子に譲位(譲位の初例)。歌七首があり、うち童謡わざうた謡歌わぎうた)四首。
 巻第二十五は、孝徳こうとく天皇の一代記。天皇は、皇極天皇の同母弟。軽皇子(孝徳天皇)は即位を固辞するが、古人大兄ふるひとのおおえ皇子(舒明天皇皇子)も出家したため、やむを得ず即位する。初めて大化の年号を定め、新政権が発足。古人大兄皇子の謀反があり、誅殺される。難波長柄豊碕なにわのながらのとよさきに遷都。大化二年、改新の詔を宣し、新令四条を下す。その後も、薄葬令はくそうれい、旧俗の廃止、品部の廃止などの政策を施行。右大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろ讒言ざんげんにより自経。
 白雉はくちと改元。中大兄皇子らが飛鳥に遷る。白雉五年十月、天皇は難波で崩御。歌三首がある。
 巻第二十六は、斉明さいめい天皇の一代記。皇極天皇が、飛鳥板蓋宮あすかのいたぶきのみやで再び即位(重祚)。土木工事が盛んに行われる。有間ありま皇子(孝徳天皇皇子)謀反、藤白坂で絞殺される。唐・新羅連合軍に攻められ百済滅亡、遺臣たちが救援を要請する。天皇自ら西征に出発。斉明七年七月、九州の朝倉宮で崩御。歌八首(うち童謡一首)がある。
 巻第二十七は、天智天皇の一代記。皇太子中大兄皇子は即位せず政務をとる(称制)。余豊璋を百済に国王として帰国させる。百済救援の日本軍は、白村江はくすきのえの戦いで、唐・新羅連合軍に敗れる。百済壊滅。国内の防衛体制の整備をはかる。天智六年に近江に遷都、翌年即位。庚午年籍こうどねんじやくの作成。長子大友おおとも皇子を太政大臣に任ずる。天皇不予、大海人皇子に後事を託すが、皇子は出家して吉野へ向う。十年十二月崩御。歌五首、すべて童謡。
 巻第二十八は、天武天皇の即位前紀と元年紀。壬申紀じんしんきともいう。大海人皇子は、近江側の動きから危険を察知、挙兵を決意する。約一か月に及ぶ激戦が各地で繰り広げられる。大友皇子の自経により、大海人皇子側の勝利で終る。大友皇子は、明治政府によって弘文こうぶん天皇と追諡ついしされている。
 巻第二十九は、天武天皇即位後の一代記。壬申の乱で勝利した大海人皇子は、天武二年、飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやで即位する。正妃菟野うの皇女(父天智天皇、後の持統天皇)を皇后に立てる。皇族中心に政治を行いつつ、律令官人制の整備を進める。吉野で、皇后と六皇子を集め盟約を結ばせる。草壁くさかべ皇子立太子。帝紀及び上古の諸事の記定を命ずる。八色やくさかばね制定。対外関係では、新羅への遺使など。朱鳥元年九月に崩御。
 巻第三十は、持統天皇の一代記。天武天皇の崩御後、皇后称制。大津おおつ皇子謀反発覚、処刑される。所生の皇太子草壁皇子 薨去。浄御原令の施行。持統四年に即位。高市たけち皇子を太政大臣に任命。八年、藤原京に遷る。十一年八月に孫のかる皇子(父草壁皇子、文武天皇)に譲位。吉野行幸が多い。(大島信生)
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