古典への招待

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『太平記』と光厳天皇

第57巻 太平記(4)より
 巻三十九の最終章段「くわうごんゐん法皇山国やまぐにに於いて崩御の事」は、次のような語りから始まる。
さる程に、光厳院禅定ぜんぢやう法皇は、去る正平七年の比、南山賀名生あなふの奥よりとらはれを許されさせ玉ひて、還御なりたりし後、この世の中いよいよ憂き物におぼし知らせ玉ひて、姑射山こやさんの雲を辞し、汾水陽ふんすいやうの花を捨てて、なほ御身を軽く持たばやとの御あらましの末通りて、方袍はうはう円頂ゑんちやう出塵しゆつぢんと成らせ玉ひしかば、伏見の奥、光厳院と申す幽閑の地にぞ移り住ませ玉ひける。
しかし、この地もなお都近く、浮世の出来事がいやおうなしに耳に入ってくるのをうとましく思って、「人工にんぐ行者あんじやの一人も召し具せられず、御伴僧ただ一人にて(神宮徴古館本「唯順覚と申ける僧一人を御伴にて」。諸本同じ)、山川斗藪とそうのために立ち出で」なさった。「山川斗藪」であるから、必ずしも初めから目的地が定まっているわけではない。まず西国方面をご覧になろうと、摂津難波なにわの浦へ出て、戦乱の世とは対蹠的な自然の美しさに気づかせられ、心は高野山こうやさんへと向う。途中で、高くそびえている山が合戦で無数の武士が死んだ金剛山こんごうさんだと木樵に教えられ、
あなあさましや、その合戦と云ふも、われ一方の皇統にて、天下をあらそひしかば、若干そこばく亡卒悪趣ばうそつあくしゆに堕して、多劫たごふ苦を受けん事も、我が罪障にこそ成らめ
として「先非を悔い」ることが、高野山への行脚、吉野の南朝の御所訪問という構想を呼び出している。道中、紀伊川に架けられた柴橋を渡りかねて、通りがかった野武士に川へ突き落されるという現実があるからこそ、上皇の澄みきった心境がいっそう尊く思われるのである。古態本から流布本に至る諸本では、この後、高野山の諸堂を巡拝なさっている上皇のもとへ、さきの野武士が僧形になって姿を現し、懺悔するという対比的構図をなす記事をもつが、天正本はその対比を採らず、物語の枝葉を刈り取っているといえよう。
 光厳天皇(一三一三~六四)は、後伏見天皇の第一皇子として、嘉暦元年(一三二六)両統迭立てつりつ(大覚寺統・持明院統が交替で天皇を立てること。鎌倉幕府はこれを遵守した)によって、後醍醐天皇の皇太子となり、元弘元年(一三三一)北条高時に擁立されて践祚せんそしたが、同三年五月、隠岐から還幸した後醍醐に廃された。建武三年(一三三六)足利尊氏の奏請で、弟光明天皇が即位して、上皇は院政を開いた。観応三年(一三五二)うるう二月光明こうみよう上皇・崇光すこう上皇・直仁なおひと親王とともに南朝方に捕えられ、六月には賀名生へ移され、まもなく後村上天皇の行宮あんぐうで落飾し、禅道に入った。
 この章段の語る光厳院の、後村上天皇との対面を史実に徴することは、少なくとも現在までのところできていない。ただし、『大日本史料』(第六編二四、正平十七年・貞治元年九月一日条)は、法隆寺の記録文書『嘉元記』の一条、
康安二年(壬寅)九月一日、持明院法皇(禅僧)当寺御参詣(在之已下十余人)御乗馬也、一夜御逗留、(中略)寺中ハ御歩行也
を引き、『太平記』作者が構想した後村上天皇との対面はこの直後のものと理解しているが、そう判断する根拠はない。『太平記』のこの記事に年時を欠くことは、意図されてのことであり、この記事が作者の思想を表現するために虚構されたものであることを、物語っていよう(今川家本・毛利家本等では、本書四〇九ページの法皇崩御「同じき七月七日」を、「貞治三年甲辰七月七日」と明記し、作者の意図から一歩はみ出している)
われ元来万劫まんごふ煩悩の身を以て、一種虚空こくうの塵にあるを本意とは存ぜざりしかども、前業ぜんごふかかる所に旧縁を離れ兼ねて、住むべきあらましの山は心にありながら、遠く待たれぬ老の来る道をば留むる関守もなくて歳月を送りし程に、天下乱れて一日も休む時なかりしかば、元弘の初めは江州番馬ばんばまで落ち行きて、四百人のつはものどもが思ひ思ひに自害せし中に交はりて、腥羶せいせんの血に心を酔はしめ、正平の末には当山の幽閑に逢ひて、両ねんを過ぐるまで秋刑しうけいの罪にきもめて、これ程にされば世はうき物にてありけるよと、初めて驚くばかりに覚え候ひしかば、重祚ちようその位に望みをも掛けず、万機ばんきまつりごとに心をもとどめざりしかども、我をあながちに本主とせしかば、のがれ出づべきひまなくて、哀れ早晩いつか山深きすみかに雲を伴ひ松を隣として、心安く生涯をも暮すべきと、心に懸けてこれを念じこれを思ひしところに、天地めいあらため、譲位の儀出で来たりしかば、蟄懐ちつくわい一時にひらけて、この姿に成りてこそ候へ
(四〇七~八ページ)
自らの一生を振り返っての法皇の言葉である。人間を、終生の煩悩に苦しむ微小な存在であると意識するようになったのが、いつであったか触れていないが、すべてを捨てて諸国行脚に出た、法皇の澄んだ境地からの言葉であり、この後の法皇崩御を語る言葉の中の一句、「身の安きを得る処、すなはち心安し」との呼応が見られる。作者は、法皇の三回忌(正しくは七回忌)が後光厳天皇によって、内裏だいりで営まれ、天皇自らが金字で『法華経』一巻を書写して供養したと言い、「六趣りくしゆの群類も等しくその余薫にぞあづからんと、聴聞の貴賤押しべて、皆感涙をぞ流しける」と、来世での救済を予想して、巻三十九は閉じられている。
 この章段を詳細に分析した中西達治氏は、後藤丹治氏がかつて『平家物語』「かんじようのまき」の影響に言及した点を延長して、「光厳法皇と後村上天皇との対話が、建礼門院と後白河法皇との対話の、単なる形式的類似にすぎないといってよいのかといえば、必ずしもそうは言えず、特に光厳法皇の述懐の内容には、この章の構成にかかわる最も根源的なテーマが内包されており、そこに、はっきり『六道之沙汰』と同質の世界を感じとることができるのである」とされた(「太平記における光厳院廻国説話」、『太平記の論』所収。初出は一九九一年)。この論を受けて武田昌憲氏は、光厳院の高野山から吉野へという行脚が『平家物語』の「灌頂巻」大原御幸おおはらごこうに匹敵するという見方は、「建礼門院が六道を経験したように光厳院も人間世界で、在位(天上)、流れ矢(修羅)、番場での血の海(地獄)、院を犬呼ばわり(畜生)、賀名生での辛苦(餓鬼)の六道を経験されたからであり、以上の『太平記』の衝撃的な記述も計算されたものであったとみることもできる」(「光厳天皇――和漢の学に秀でる――」、『国文学解釈と鑑賞』五六巻八号)と、光厳院の現実の生涯が六道廻輪的性格を持つと指摘された。
 光厳院の生涯を六道廻輪にあてはめることの当否は別として、我々は巻九「番場にて腹切る事」の段で、武士たちが番場の辻堂のいたるところで切腹するさまを、呆然として見ているだけであった光厳天皇を容易に想像することができる。後醍醐天皇還幸後の帝位の剥奪があり、その後、治天ちてんの君(院政を行う院)に返り咲いたことを、「あはれ、この持明院殿は、大果報の人かな。手痛きいくさの一度もし給はで、将軍より王位を給はらせ玉ひたる事よ」(巻十九・豊仁王登極の事)と、「田舎人」つまりは武士階級に揶揄やゆされるところとなった。
 これと同様の批評が巻二十六「大稲妻天狗てんぐ未来記の事」でも述べられており、そこでは持明院統の政権の実態が愛宕山あたごやまの天狗により「なかなか運のある武家にしたがはせ玉ひて、政道の善悪もなく、ひとへに幼児の乳母をたのむが如く、やつこひとしくわたらせ玉へば、かへつて形の如く安全に御座おはします者なり。これも御本意にてはあらねども、理をも欲をも叶はず、道に打ち棄てさせ玉へば、御運を開かせ玉ふに似ると云へども、物くさき至極なり」((3)三三五ページ)と喝破されている。
 森茂暁氏によれば、光厳上皇の命を奉じて出された院宣で年次の明記されたもの、および無年号ながら推定可能のものは、三五〇通ほど確認されていて、この数は、自身でも書くなど乱発された「後醍醐天皇綸旨の比ではないが、一五年間に出された数にしては歴代天皇・上皇の中でも上位にランクされ」るという(『南北朝期公武関係史の研究』一五七ページ)。そして、「このことは同上皇の政治運営が種々の制約を受けながらも比較的活況を呈した証左とみてよかろう」とも言われる。先に引用した文言のうち、「重祚の位に望みをも掛けず、万機の政に心をも止めざりしかども、我を強ちに本主とせしかば」云々と関わると考えてもよかろう。院政を考える上で、訴訟に関わる院文殿ふどの庭中は南北朝期にそのピークを迎えると考察されているが、光厳上皇院政での文殿衆は、朝廷の最高議決機関のメンバーである評定衆と多く重なり、評定衆の上位に位する摂家せつけ出身者・清華せいが出身者の中でも、「洞院家の進出は特に注目される」(同書一八〇ページ)とされる。洞院とういん家周辺と『太平記』作者圏との関係を考えると(鈴木登美恵「太平記作者圏の考察――洞院家の周辺――」、『中世文学』三五号)、光厳院をめぐる話柄がどのあたりから提供されたか興味の湧くところであるが、『太平記』作者の関心は公武関係、特に院政の実務には及んでいなかったのではないかと思われる。
 現在、その一部が国会図書館に蔵される宝徳三、四年(一四五一、五二)書写本の写しである、いわゆる宝徳本『太平記』を研究し、古写本の復元に努めた長坂成行氏は、尾張藩の国学者河村秀頴が寛永無刊記整版に写し取った宝徳本の整版との異同から、宝徳本の巻四十下が「光厳院崩御事」で終ることを明らかにし、『太平記』の成立過程に問題を提起した(「『太平記』終結部の諸相――“光厳院行脚の事”をめぐって――」、『日本文学』四〇巻六号)。光厳上皇の崩御が語られ、三回忌供養の営みが、六道の衆生すべての救済に及ぶとするこの章段で、南北朝動乱五十年の歴史語りの幕が閉じられるとする宝徳本の構成は魅力があるものとして映るのである。
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