古典への招待
作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。
『風土記』を書いた「彼」
第5巻 風土記より
風土記は、今なお、謎の多い書物です。
たとえば、『出雲国風土記』について考えてみましょう。これは風土記のなかでも最も長編で、しかも幸運にも書写のさいに省略されないで伝わってきた貴重な完本です。書いた人の名も残っているし、成立の年月日も明記されています。何の謎もないように思われますけれども、いったん深く知ろうとしてみると、
風土記は、『続日本紀』和銅六年(七一三)五月甲子の条に、
畿内 と七 つの道 との諸 の国 ・郡 ・郷 、名 は好 き字 を著 けよ。その郡内 に生 れる、銀 ・銅 ・彩色 ・革 ・木 ・禽 ・獣 ・魚 ・虫等 の物 は、具 に色目 を録 し、及 、土地 の沃 えたると塉 せたると、山 ・川 ・原 ・野 の名号 の所由 、又 、古老 の相伝 ふる旧聞 異 し事。 史籍 に載 して言 して上 れ。
とある詔命にしたがって諸国から提出した報告書(解文)です。この詔命の要求事項は五つあり、
言上 せよ」というのです。すなわち形式は『公式令 』解式 に従うとしても、内容は史籍地理志を意識して書けということです。しかも「言上」という条件がついています。「言上」とは『律』のほかには『続日本紀』にわずか四例、和銅六年から養老四年までの七年間しか使われなかった珍しい語なのです。その意味は、解文を書いて大和朝廷へ持参しただけではだめで、もうひとつの儀式が必要だといっているように思われます。たとえば、『古事記』 の成立の時に、文献史料を集めて編集しただけではなく、わざわざ稗田 の阿礼 の口を通して《語られた》ことで内容が保証されたと同じように、風土記も、解文は大和朝廷の高官の面前で国司かだれかの口を通して《朗誦された》とき、初めて真実の伝承と認められたのではないかと考えます。
ところで、いま問題にしようとした『出雲国風土記』の場合、ちょっと気になる部分があります。
違和感の原因は、風土記は解文ですから、国司が大和朝廷に対してお答え申しあげる性格の公文書であり、国の過去と現在についての忠実な報告記事に終始するものという常識に反しているからです。すなわち、私的著述の序文ならばともかく、解文の冒頭部に、どんな気持ちで筆を執ったかなどと書く必要がないと思われるからです。
『古事記』を見ましょう。上表文(序)を素直に読めば、執筆の姿勢をみずから決めたりしないで、「謹みて詔旨 の随 に」といい、音訓交用とか固有名詞の表記とか表記の方法ばかり考えています。つまり、詔に忠実に従って最も効果的な方法をさぐったというのです。それは執筆の姿勢というよりも著作物の凡例のようで、違和感はありません。次に、幸い冒頭部が残っている『常陸国風土記』を見ますと、
ところが『出雲国風土記』の右に掲げた文章を現代語訳で書き直しますと、「亦」の次に、
ところが、他の執筆者と共通の部分もあって、風土記の文辞に『周易』『尚書』以下の『学令』指定の書、『文選』『亦雅』など『選叙令』指定の書を出典とする語彙が多いことから、官吏の経歴をもつ人であることは、容易に推定できます。その上、『出雲国風土記』末尾に「勘造 」という珍しい語が出てきて、これが法律用語なので、ますますかれは官吏であったと思われます。現任でないから肩書はついていませんが。
さてそこで、冒頭句のさらに上にさかのぼって読みますと、「老、細二思枝葉一、裁二定詞源一」の句にぶつかります。この「老」は執筆者自身をさすでしょう。「老」は『説文』に「七十曰レ老」、『論語』の皇疏に「老、謂二年五十以上一也」など、いろいろありますから、何歳かは決められません。自称の謙辞です。
次の八字は『垂仁紀 』二十五年三月、分注、一云にある次の一句と深い関係にあります。
散細 しくは其 の源根 を探 りたまはずして、粗 に枝葉 に留 めたまへり。(その根源までを詳細にはお探りにならないで、ほぼ枝葉のところでおやめになってしまった。――新編日本古典文学全集『日本書紀』による)
「微細」「源根」「枝葉」は双方に類語があり、「粗」は『書紀』の全漢字十八万二千余字中ここだけの孤例の字であり、現存五風土記を通じて唯一例の字です。これは偶然とはいえず、執筆者は『垂仁紀』を読んでいて、明らかにこの表現を意識して書いたと断定してよいでしょう。したがって『出雲国風土記』執筆者の意図は、『垂仁紀』の文章の意味と同じ意味に解釈されたいのだろうと思います。
当然、わたしの関心は『垂仁紀』のこの部分に向かいます。スペースの関係で簡単に書きますので、詳しくは上部に引いた『日本書紀』の前後の部分を読まれることを希望します。そこの頭注に「源根」は「大和の地主 神を祀ることに主眼を置かぬことをいうか」とあります。わたしの推定では、『出雲国風土記』の執筆者、神宅 の臣金太理 という人物を語る大切な部分なのであろうと思います。
それ以上はわかりません。最近になってやっとここまで気づいたところで、最初に掲げた多くの疑問はまだ解くに至りません。国つ神を尊重する立場をとっているようにも思えますが、だからといって、倭 の大国魂 の神を奉ずる一族か、そうでないかもわかりません。現時点ではここまでが学問の領域で、あとは想像の領域なのでしょう。とにかく、謎の多い文献というものは研究する価値があります。今後どんなおもしろい事実がみつかるかという期待があります。なにしろ出雲は、平成の今ごろになるまで銅剣三百五十八本や銅鐸 三十九個を土中に眠らせていたような、だれかが秘宝を発見するまでそっと待ちつづけてきた国なのですから。
ついでに申しておきますが、『出雲国風土記』には記紀神話にある八岐 の大蛇 の話が見えないという人もありますが、どうでしょうか。記紀がすでに書かれた後、出雲の国で相当な勢力のあった須佐之男 の命 の活躍を、書く気があればいくらでも書けたはずでした。しかし、風土記の執筆者は、これが高天原 から追放された神の
仕業という大和側の見方を排することで出雲の立場を貫きました。八峡の大蛇の話の原型は、須賀の宮のすぐ近くにある大原の郡阿用 の郷 の目一つの鬼の伝承です(二六三ページ)。かれは胸を張って原型のほうを記載し、大蛇の話にはふれませんでした。何も書いてないのではありません。詳しくは別に述べましたので、これ以上は略しますが、「細二思枝葉一、裁二定詞源一」(事の主要でないことも細かく思いをいたし、言の核心である古伝承の原型を一つ一つ判断して定めた)という姿勢の生んだものが、この答案なのでした。
ここでは『出雲国風土記』のことばかり申しましたが、そのほかの国々の風土記も、たくさんの魅力的な謎を蔵していながら、表面にはモナリザの微笑をたたえて、わたしどもの探索を待っています。
たとえば、『出雲国風土記』について考えてみましょう。これは風土記のなかでも最も長編で、しかも幸運にも書写のさいに省略されないで伝わってきた貴重な完本です。書いた人の名も残っているし、成立の年月日も明記されています。何の謎もないように思われますけれども、いったん深く知ろうとしてみると、
《書いた人はどんな経歴の持主だったのか? その年齢は?》
という基本的なことが何もわからないのです。さらに困難な問題として、
《かれはいったいどのようにして教養を身につけたのだろう?》
《この解文 を書くように命じた出雲の国 の造 は、なぜかれを選んだのだろう?》
《大和朝廷が命じた文書、出雲の国の道が頭に描いた文書、かれが書こうと思った文書、この三つは、果たして同じイメージのものだったろうか?》
《記紀神話にある大蛇 退治の伝承が『出雲国風土記』になく、逆に風土記にある国引きの伝承が記紀神話にない。これをどう考えたらいいのだろう?》
といった疑問点があり、現代のわれわれはこの書物についてあまりよく知っていないことに気がつきます。風土記は、『続日本紀』和銅六年(七一三)五月甲子の条に、
(1)畿内七道(都の近辺と主要幹線道路、つまり日本全国) の国名・郡名・郷名に好い字をつけよ。
(2)郡内に産する鉱物・植物・動物などで有用なものの品目を筆録せよ。
(3)土地の肥沃状態。
(4)山川原野の名の由来。
(5)古老の代々伝えてきた旧聞異事。
について「史籍(文書を経・史・子・集に分けて、史は地理志を含む)に記載してところで、いま問題にしようとした『出雲国風土記』の場合、ちょっと気になる部分があります。
老、細二思枝葉一、裁二定詞源一。亦、山野浜浦之処、鳥獣之棲、魚貝海菜之類、良繁多、悉不レ陳。然不レ獲レ止、粗挙二梗概一、以成二記趣一。 (三一〇ページ)
という冒頭の文章です。これは当風土記の執筆の態度を宣言した、文字通りの序文にあたる文章です。ところが、率直に言って総記の他の部分がいかにも風土記撰進の詔に応じた解文らしく書かれているのに対して、なにか個人的な感懐をもらしたように見え、そこに一種の違和感があります。違和感の原因は、風土記は解文ですから、国司が大和朝廷に対してお答え申しあげる性格の公文書であり、国の過去と現在についての忠実な報告記事に終始するものという常識に反しているからです。すなわち、私的著述の序文ならばともかく、解文の冒頭部に、どんな気持ちで筆を執ったかなどと書く必要がないと思われるからです。
『古事記』を見ましょう。上表文(序)を素直に読めば、執筆の姿勢をみずから決めたりしないで、「謹みて
常陸国司解。申二古老相伝旧聞一事。(三五四ページ)
と『公式令』解式にのっとって形を整え、常陸の国の成立、国名命名の由来、物産の状況などを述べて、執筆の方針などにはふれません。強いていえば、お国自慢のように常世の国にたとえて豊かさを説きながら、さりとて天候不順の年はそうはゆかないと述べて課税の危険から身をかわす巧妙な姿勢がちらつくくらいのものです。これは官僚の現実的な保身術であって、詔に忠実な点ではべつに変わったことはありません。ところが『出雲国風土記』の右に掲げた文章を現代語訳で書き直しますと、「亦」の次に、
山・野・浜・海岸の所在、鳥・獣の棲息の場、魚・貝・海藻など水産物の種目などは、まことに多くて、あり過ぎるから、悉 くは述べなかった。そうではあるが、止むを得ない事柄だけは「粗 」あらましを挙げておいて「記趣」を成した。
とあって、自然地名や動植物については「粗」挙げたのみで、それは「記趣」を成すためにすぎない、ほんとうに「主要なこと」はほかにある、と言いたげです。「粗挙二梗概一」のあたりは過去の注釈書を見ますと「やむを得ないことだけはごく大略を記して、書物の体裁を形づくった」などと訳してあり、「ごく大略を記す」方針を当然の判断だと思われているようです。しかし、この句は『文選』呉都賦の末尾の、
略挙二其梗概一、而未レ得二其要妙一也。(ほぼそのあらましを挙げられたに過ぎず、その立論の根拠となる微妙な道理がわかっておられないのです。――中島千秋氏、新釈漢文大系『文選』賦篇の訳による)
を出典句とし、「粗挙二梗概一」などということは「微妙な道理がわかって」いない者の欠点を指摘する表現なのです。風土記でこの句を使ったのは、自分の表現についての強い謙辞であり、したがって「書物の体裁を形づくった」のではなく「体裁が形づくれなかった」といわないと首尾が一貫しません。そこで、「記」は書物の意ととらず動詞シルスと解し、「趣」はシルソウトシタ志、意図、と解すべきでしょう。なお、「そうではあるが」の前後は歯切れがわるくて、「悉くは述べなかった」と「ほぼあらましを挙げて」とは同じことの反復です。どうやら執筆者の本心は「山・野・浜・海岸の所在、鳥・獣の棲息の場、魚・貝・海藻など水産物の種目など」はあまり書きたいことではなかったのではないかと思われてくるのです。いったい「止むを得ない事柄」とは何でしょうか。なぜ止むを得ないのでしょうか。
(1)和銅六年五月の詔で尋ねられているから、止むを得ない。
(2)各郡から資料を提出した郡司がうるさいから、止むを得ない。
(3)あまり簡潔に書き上げると立派な解文にならないから、体裁上止むを得ない。
そのほか、どう推測してみても、あまりよい理由ではありません。わたしは(1)あたりかと思っていますが、仮にどういう意味であるにしても、詔で指定されていることを「止むを得ない事柄」と解文でわざわざ書くのはおかしいことではないでしょうか。この執筆者は、他の風土記の執筆者とはだいぶ違うぞと思わせます。ところが、他の執筆者と共通の部分もあって、風土記の文辞に『周易』『尚書』以下の『学令』指定の書、『文選』『亦雅』など『選叙令』指定の書を出典とする語彙が多いことから、官吏の経歴をもつ人であることは、容易に推定できます。その上、『出雲国風土記』末尾に「
さてそこで、冒頭句のさらに上にさかのぼって読みますと、「老、細二思枝葉一、裁二定詞源一」の句にぶつかります。この「老」は執筆者自身をさすでしょう。「老」は『説文』に「七十曰レ老」、『論語』の皇疏に「老、謂二年五十以上一也」など、いろいろありますから、何歳かは決められません。自称の謙辞です。
次の八字は『
微細未レ探二其源根一、以粗留二於枝葉一
当然、わたしの関心は『垂仁紀』のこの部分に向かいます。スペースの関係で簡単に書きますので、詳しくは上部に引いた『日本書紀』の前後の部分を読まれることを希望します。そこの頭注に「源根」は「大和の
それ以上はわかりません。最近になってやっとここまで気づいたところで、最初に掲げた多くの疑問はまだ解くに至りません。国つ神を尊重する立場をとっているようにも思えますが、だからといって、
ついでに申しておきますが、『出雲国風土記』には記紀神話にある
ここでは『出雲国風土記』のことばかり申しましたが、そのほかの国々の風土記も、たくさんの魅力的な謎を蔵していながら、表面にはモナリザの微笑をたたえて、わたしどもの探索を待っています。
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記(傍点を太字に変更)を用いた箇所があります。ご了承ください。

ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。