古の奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな 伊勢大輔
『百人一首』に入っている有名な歌だが、『伊勢大輔集』によると、奈良から京の宮中に八重桜が献上された時、新参の女房伊勢大輔が受け取りの役を仰せつかり、あいさつの歌を詠め、といわれて即座に詠んだ歌である。「古」と「今日」、「八重」と「九重」とを対比させ、京の宮廷(九重)の繁栄を賛美した歌にもなっている。あいさつの歌を求められて、間髪を入れず見事な歌を詠む。並み居る人々の称賛のどよめき。場の雰囲気はこの上なく盛り上がる。これが典型的な王朝和歌である。
それから約八十年たって、『
後拾遺和歌集』が
撰ばれた。その中に、
俊綱朝臣の家にて「春山里に人をたづぬ」といふ心を詠める 藤原範永朝臣
たづねつる宿は霞にうづもれて谷の鶯一声ぞする
という歌がある。詞書の「心を詠める」であるが、「春の山里に人を訪ねる」という題の「心」(趣旨)は、と聞かれて、霞に埋もれた家を訪ねあてると、折から谷の鶯の一声を聞きました、という早春の美しい情景を歌で描き、答えた形になっているのである。
三代集(古今和歌集、
後撰和歌集、拾遺和歌集)では一つの集に数えるほどしかなかった「心を詠める」という詞書が、『後拾遺和歌集』では一挙に六十数首になり、この後、定型化する書式である。
一一一〇年代のことであろう。有名な武家歌人、平
忠盛が旅を終えて
上洛して来た。都の人々が、
明石の月はどうだったか、と問うた。
有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか (金葉和歌集・秋)
と
咄嗟に歌で答えた。「明石」という地名と「明かし」、「寄る」と「夜」の、二つの掛詞を入れた、巧みな王朝風の歌だが、よく見るとこの歌には「月」のほかに秋を示す言葉がない。にもかかわらず『金葉和歌集』では秋の部に入れていることが注意されるのである。それまでは、
白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月 (古今和歌集・秋上・一九一)
に見る「秋の夜の月」のように、一首の中に「秋」という言葉を入れて「秋の月」を詠んでいたのである。
『金葉和歌集』や『
千載和歌集』あたりから(『
詞花和歌集』を例外として)、ただ「月」といえば秋の月をさすようになるのである。これは、月が最も美しく輝く、月の最も月らしい美しさをあらわすのは秋なのだ、という合意が、歌人の間に浸透して来た結果なのであろう。
このような、ある事・物のそれらしい美しさ、美的本質とでもいうべきものを、
術語で「本意」というが、「月」に限らず四季折々の美しきもの(景物)や、恋などの人間の営みに至るまで、歌題となるものはそれぞれの本意が明確化して来た結果、その本意に沿って歌を詠むことが、平安末期(十一世紀末から十二世紀にかけて)の和歌史の流れになった。それがすなわち「心を詠める」ということなのであった。
十二世紀に入って、一一〇五、六年ごろ
堀河百首が、一一一六年には
永久百首が成立する。前者は十六名、後者は七名による各百首である。この百首は、初めから題が設定され、それによって詠歌する、いわゆる
組題百首であった。堀河百首で示すと、まず勅撰集に
倣って、春・夏・秋・冬・恋・雑に部類し、次に春の部を例にすれば、立春・
子の日・霞・鶯……と季節の推移順に、恋部では、初恋・不
レ被
レ知
レ人恋・不
レ遇恋・初逢恋……というように、恋の時間的推移によって題が組まれている。こういう構成を持つ百首を、限られた一定日数のうちに詠むのだから、現在体験・見聞していないことを、追想か想像によって詠むほかはない。また詠作事情を説明する詞書もつけられない。百首歌には限らないが、このころから詠作の中心となった題詠の歌は、だいたい虚構歌であり、一首は独立していなければならないのであった。
これが冒頭に掲げた、折の歌といわれる王朝和歌と異なる方向への歩みで、ここに虚構詩・創作詩としての中世和歌への始発があるといってよいであろう。
念のためにいうと、歌題の多くは王朝生活の中の美の粋ともいえるものだから、それを詠むということは三十一文字の中に美的小世界を形作るものであった。和歌は「優艶ならんことを」理想とすべきで、恐ろしげな(例えば「
鯨」のような)ものを詠んではいけない(六百番歌合・恋・七・俊成判詞)のであった。
季の題の本意は、いうなれば京を中心とした風土気候の普遍的な
在り方ということになる。
治承四年(一一八〇)より少し前に行われた
三井寺山家歌合で、
冬の池氷にやどる月影は底までえこそすみもとほらね
という歌に対して判者
観蓮は、「薄氷底まですみ
透らざらむ、月の題を詠まむにいと本意なくや」と評している。月光が薄氷の張る池の底まで透徹しないのは月の本意に反する、というので、題の本意を詠むことが一般化するにつれて本意に反する詠み方は禁じられていったのである。
本意はこののち和歌から
連歌・
俳諧へと受け継がれた。『
去来抄』の有名な話を記しておこう。
風国という俳人が、
晩鐘が寂しくない、という句を作った。「先日山寺で晩鐘を聞いたが、少しも寂しくないので作ったのです」。去来は「これ殺風景也。山寺といひ秋の
夕といひ、晩鐘といひ、寂しき事の頂上也」、それなのに遊び騒いでいる中で聞いて寂しくないというのは、「
一己の
私也」とたしなめた。風国は「でも、その時に寂しくないという情があっても、作ってはいけないのですか」というので、
夕ぐれは鐘を力や寺の秋
とすれば「句すぐれずといへども本意を失ふ事はあらじ」といったというのである。
山寺・秋の夕・晩鐘の本意は「寂し」いのである。それを無視するのは「一己の私」だ、つまり、ひとりよがりの独断だとして、本意を生かしながら実情を
抒べることをよしとしたのである。
さきほど中世和歌の一性格として、一首の独立性について述べたが、なおその問題に触れておきたい。
後鳥羽院は『後鳥羽院御
口伝』で、定家の批評を行っているが、中で、定家の歌について「いささかも事により折によるといふ事なし」ととらえている。つまり定家は、和歌というものは場や状況、あるいは作者などによりかかるものではない、と考えていた。それは何物にも侵されず、三十一文字で
毅然として
屹立していなければならぬものであった。状況に支えられて出来た歌は、たとえ事柄やさしくおもしろくて、人が褒めても承知しなかったという。院は定家の立場を十分に理解しつつ、しかし和歌の伝統に即してみると、和歌というものは決してそんなに窮屈なものではない、折にあい、場に支えられて輝く歌だってよいではないか、と考えていた。王朝和歌を含めて、作者の境遇や制作の場がわかることで、作品の味わいが深まることは確かである。一方、表現されたもので勝負すべきだというのが正論だ、と見る立場もあろう。現代に及んでいる課題である。
『新古今和歌集』をくぐり抜けた後の中世和歌は、一首の独立性は重視したが、『新古今和歌集』に見る、厳しい本意の追究は薄れ、本意を所与のものとして場面を設定し、構想を立て、穏やかな
詞で安らかに詠むことをよしとした。一方、ユニークな和歌とされる
京極派も、本意を否定したわけではなく、ぎりぎりの線でそれに沿いながら、心を鋭く働かせてとらえた対象を、観念の中で再構成して、ある程度自由な言葉で表出した。それが伝統派に不協和音と感ぜられた時、異端とされるのである。
対象を一定の見方で詠む本意の形成は、和歌の量産を促したといってよいであろう。『新編国歌大観』は古典和歌四十五万首を収めるというが、『新編国歌大観』『私家集大成』『群書類従』などの叢書所収の歌を合せると、中古(平安時代)の和歌はおよそ九万首、中世和歌は三十数万首に上るであろう。ただし重複歌も多く、正確な数は算出できないのだが、そしてほかに比較するものもないから何ともいえないが、まずは量産の文芸といってよいであろう。とりわけ、その量産を大きく支えたのが百首歌の盛行である(なお百首歌が基本になって、五十首歌、千首歌など、一定の数をまとめて詠んだものを定数歌という)。なぜ百首歌があのように盛行したかの理由は明らかでないが、和歌に熱心であった歌人は、一首一首を大事に詠むとともに、(意識の流れというのか)もう少し息長く続けて詠みたい、という欲求を持ったのではなかろうか。
百首の部類が勅撰集にならったものであることは先に述べたが、私家集も源俊頼の『
散木奇歌集』以後、部類家集が完成形態となった。中世を通して、編年体、
雑纂形式のものも多かったが、部類家集が最高のものと考えられた。和歌の読者というものも、近現代と違って多かったが、読者も例えば、立秋・七夕・
荻・
女郎花・
薄……というように、移り変って行く秋の趣を、歌を読むことによって楽しんだのである。すなわち和歌は一首一首で独立し、美的世界を形成すると同時に、撰集でも家集でも百首歌でも、それが連鎖して、一つのまとまりで美的世界が形成され、撰者・作者の主張が表明されるわけで、和歌は(その流れを汲む俳句も)、そういう二重の性格を持つものであった(本書も、勅撰集はその形を崩さぬように抄出した)。
撰集や私家集(歌日記を除く)は、歌集としては二次または三次資料である。歌日記(
日次詠草)、百首歌(を含む定数歌)、歌会歌、歌合(撰歌合を除く)などが一次資料である。定家の代表作、
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空 (新古今和歌集・春上・三八、守覚法親王五十首)
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 (同・秋上三六三、二見浦百首)
明けばまた秋の半ばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは (新勅撰和歌集・秋上二六一、花月百首)
いずれも名歌といわれるものだが、すべて定数歌の一首である。定家はいま四千数百首の歌を残しているが、その半数は定数歌で、名歌・秀歌といわれるものの多くはそこから生れている。定家は量産の中から秀歌の生れることを知っていたのであろう。西行も
慈円も
家隆も、下って
為兼も
伏見院も
正徹も、みな多作家であった。
次の歌を掲げて結びの代りとしたい。
さびしさはまだ馴れざりし昔にて松の嵐にすむ心かな
昔は
松籟を寂しく聞いたが、聞き馴れた今ではかえって心が澄まされる、というので、哀感とともに隠者めく思いが込められているようだが、まずは変哲もない歌といえるかもしれない。これは南朝の
後村上院女御の
嘉喜門院の家集に見える一首である。それを知ると、
天野か
吉野か、おそらくは吉野山中の感懐であろうと察せられ、とうとう念願の京に出て行くことがかなわず、皇子の
長慶天皇とともに寂しい山中にひきこもって生きて行かねばならぬ高貴な女性の、静寂な境地の奥に込められた深い
諦めの思いが感じとられるのである。平淡平凡な歌であることに変りはないが、作者の境涯に思いを
馳せる時、なにがしかの奥行きと幅が生じてくるのは確かである。
以上の歌は、
正風体の、風雅な、文芸的な和歌についてであった。それは生な情感を抑えて美的小世界の形成を第一義とするものであった。このような正風体の枠内で、自己の心情を叙する場合には、優美な
粧いが必要であって(いわゆる優美な実情歌)、日常の俗なる境地は排除されねばならなかった。中世後期、狂歌、道歌、教訓歌、落首、呪歌(ひっくるめて正風体に対して狂歌と呼ぶことがある)が盛んに詠まれたのは、それに収まらない日常現実との関わりを詠むことにおいてであった。正風体とともに狂歌の考察も、中世和歌の性格をとらえる上で、今後、重要な課題となるであろう。