古典への招待

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歴史書としての『日本書紀』

第3巻 日本書紀(2)より
『日本書紀』と『古事記』(以下『紀』『記』)はよく比較される。構成についてみると、『記』は上・中・下三巻のうち上巻で神代、中巻で神武天皇から応神天皇まで、下巻で仁徳天皇から推古天皇までの物語を載せる。『紀』は全三十巻のうち、神代に二巻、神武から応神までは八巻、仁徳から推古までは十二巻、そして『記』には記事のない舒明じよめい天皇から持統天皇までに八巻を当てる。両書を比べると、『記』が全体の3分の1をあてる神代は、『紀』では全体の15分の1、『記』が叙述の対象とする推古までで計算すると、二十二巻中の二巻で11分の1となる。『記』のつぎの3分の1である中巻に対応する時期は『紀』は八巻、推古までで計算すると22分の8で、3分の1強となり、『記』『紀』ほぼ対等である。『記』の最後の3分の1を占める下巻に対応する時期(仁徳~推古)の『紀』は二十二巻中の十二巻で、2分の1強となる。『記』が神代を含む古い時代に重点を置き、『紀』はむしろ新しい時代を詳しく記すという方針であったことが察せられる。
『記』『紀』が編纂へんさんされた奈良時代初期の人々にとって近・現代である舒明天皇(六二九年即位)以後の時期についてみると、この傾向はいっそうはっきりする。『記』はまったくこの時期を扱っていないのに対し、『紀』は八巻、すなわち『紀』全体の30分の8(4分の1強)を当てている。巻数では約4分の1だが、紙数で計算すると、国史大系本では『紀』全体の八四五ページのうち二五八ページで、3分の1に近い分量である。
 言うまでもなく舒明天皇は律令体制の基礎を固めた天智、天武両天皇の父、奈良遷都を成功させ、『記』を上奏させた元明天皇の祖父である。舒明の即位から『記』の上奏(和銅五年=七一二)まで八十三年、『紀』の上奏(養老四年=七二〇)まで九十一年である。『記』はこの身近な時代の歴史についてひとことも語らず、神代の物語と応神以前の伝説に全体の3分の2を費し、『紀』は舒明即位から持統の譲位の六九七年までの六十九年を語るのに、前述のように巻数で全体の4分の1強、分量で3分の1弱を使っている。まことに『記』は「古事記ふることぶみ」であり、『紀』は近世・近代に力点を置いた書ということができる。
『紀』を読むには、まずこのことに注意する必要がある。日本国家形成の由来を語って天皇による日本支配を正当化する、という点では『記』も同じ目的で書かれているが、『紀』の方がその性格が強いことも、これにかかわっている。たとえば神武天皇即位の条を見ると、『記』は「かくのごとく荒ぶる神ども言向ことむやわし、まつろはぬ人どもを退はらひて、畝火うねび白檮原かしはらの宮にましまして、天の下らしめしき」と簡明に記すのに対し、『紀』は神武天皇が即位二年前の己未年三月に、有名な「六合りくがふねてみやこを開き、八紘はちくわうおほひていへさむ」の章句を含む荘重な令を下して、「帝宅おほみや」の経営を始め、翌庚申こうしん年にひめ蹈外韛たたら五十鈴媛いすずひめのみことを立てて正妃とし、辛酉しんゆう年正月朔に「橿原かしはらのみや即帝位あまつひつぎしろしめす」とある。古代国家の帝王の即位を想定しての叙述といってよかろう。
 なお即位二年前に「帝宅」経営の令を下しているのは、平城遷都の場合、遷都二年前の和銅元年(七〇八)二月に平城建都の詔を下したことを模したのではなかろうか。
 もう一つ、雄略紀にみえる有名な話を挙げておこう。例の葛城山かずらきやまの狩猟の話だが、『紀』に雄略四年二月と五年二月の二回、『記』にも対応する二度の記事がある。『紀』のあとの方の場合、狩場でにわかに暴走してくる怒りいのししがあり、側近の舎人とねりは恐れて樹に逃げ登るが、雄略天皇は弓で刺し止め、踏み殺す。勇武な王者として描かれている。『記』では雄略は猪を恐れてはりの木に逃げ登ることになっている。おそらく『記』の物語がこの話の原型に近く、『紀』は雄略を古代国家の王者にふさわしい姿に描き直したのであろう。
 現代から歴史を眺め解釈するという視点が、『記』より『紀』の方が強いのである。
 歴史を近・現代に引きつけて語るといっても、『紀』各巻のすべてが同様に語られているのではない。神代の物語は一応く。神武から応神までは伝説の時代で、いわば『記』『紀』の古代である。『記』はこれを中巻としてまとめているが、神話性の強い巻である。神武東征、とくに大和平定の物語、崇神すじん天皇の三輪山の祭祀や四道将軍派遣の物語、日本やまとた武尊けるのみことの東西征討と能褒野のぼのでの死の物語、神功皇后の親羅しらぎ征討の物語など、この時期の主要な伝説は何らかの形で史実を反映しているだろうが、それはおおむね五世紀以降の史実の反映とみるべきで、これらの物語から三、四世紀の史実を復原することは危険である。この時期の物語に神話性の強い証拠として挙げられるのは、物語の展開の主要なところに神の言葉が夢告ないしそれに準ずる形をとって現れることである。神武東征では、熊野の高倉下たかくらじが夢に天照大神あまてらすおおみかみ武甕雷神たけみかずちのかみの話を聞いて神武の危難を救い、山中で道に迷った神武は、頭八咫烏やたからすを道案内に遣わすという天照大神の夢告を聞き、八十やそ梟帥たけると戦う前には天神が夢に現れて八十梟帥平定の呪術を教える。崇神天皇は国内に疾疫多く、人民の死亡・流離の多いのに悩んでいる時に、大物主神おおものぬしのかみが崇神の夢に現れて託宣を下し、それに従うと疫病はみ国内が鎮まった。四道将軍の場合は夢告ではないが、少女が現れて武埴安彦たけはにやすびこの謀反を歌で暗示し、そのために崇神は謀反を平定することができた。垂仁天皇朝における狭穂彦さほびこの謀反も、垂仁は夢によって皇后狭穂姫の告白を聞き、謀反を平定する。
 日本武尊の遠征譚には夢告の話はないが、熊襲くまそ征討説話の原型に近いと思われる『記』では、やまとたけるのみこと(日本武尊に同じ)は、伊勢神宮に仕える倭比売やまとひめのみことの衣裳で女装して熊襲をたおし、東征には『記』『紀』ともに伊勢神宮に立ち寄って草薙剣くさなぎのつるぎを授けられて平定に成功する。最後に胆吹いぶき(伊吹)やまに行く時はこの剣を身からはずし、死に至る病を得る。伊勢神宮の神威に日本武尊の運命は左右されるのである。
 神功皇后の新羅征討譚が、橿日宮かしひのみやで皇后に憑依ひよういした神の託宣から始ることは、改めて説明するまでもあるまい。神功の夫の仲哀が神の怒りに触れて急死したのちに生れる応神天皇は、『紀』に明記してはいないが、憑依した神の子ではないかと思われる。ところが『記』で下巻にはいる仁徳天皇以後の『紀』の記事では、夢に神が現れて託宣を下す話は仁徳紀に一回(十一年十月条)みえるだけである。それだけ神話性が減じ、歴史性が増してくると言える。しかしそうだからといって仁徳紀以降の記事がそのまま史実を現しているとは言えない。ことに仁徳から武烈までの巻(『記』下巻のうち帝紀的部分と旧辞的部分の両方を含んでいるところにほぼ相当する)は物語的要素が多く、それだけ史実は少ないとみるべきである。
『紀』のこの巻々に物語的要素が多いことは、天皇をめぐる皇后や妃・宮人、すなわち後宮関係の話が多いことに現れている。仁徳紀の場合、皇后磐之媛いわのひめの嫉妬の物語をはじめ、八田皇女やたのひめみこ雌鳥皇女めとりのひめみこ宮人みやひと桑田玖賀媛くわたのくがひめの話があり、允恭天皇の巻では皇后を説得して衣通郎姫そとおりのいらつめを進上させる話、安康紀では根使主ねのおみを使者として大草香皇子おおくさかのみこの妹幡梭皇女はたびのひめみこ大泊瀬皇子おおはつせのみこ(雄略)の妃に迎えようとする話、大草香皇子の妻中蒂姫なかしひめを允恭の妃とする話がある。雄略紀では、雄略は上道かみつみちの臣田狭おみたさの妻稚媛わかひめを女御としたいために田狭を任那みまな国司に任じ、その留守に稚媛を召し出したという話を載せる。武烈天皇については、太子の時代に平群臣鮪へぐりのおみしびとの間で物部影媛もののべのかげひめの愛を争った歌物語がある。
 これら後宮のゴシップめいた物語は、継体天皇以後の巻にはほとんど影をひそめる。もしこのような天皇をめぐる女性の話が事実であるなら、近い時代の天皇にこそ数多く記録されそうなものなのに、むしろ逆になっている。それは仁徳~武烈の女性の話が興味本位に作られた物語であることを示すと私には思われる。由来、貴族・王侯をめぐる恋愛譚は、貴賤を問わず人々のもっとも好むもので、それゆえに創作され易い。その種の話の多いことは、仁徳紀から武烈紀までは物語性が強く、それが少なくなる継体紀以降は事実性が増してくると考えてよかろう。『日本書紀』を歴史書として読む場合の、これが一つの見どころである。(直木孝次郎)
巻々の紹介
 本書所収の、『日本書紀』巻第十一~巻第二十二は、『古事記』下巻の範囲に相当する。第十六代仁徳にんとく天皇から第三十三代推古すいこ天皇までである。なお『古事記』の仁賢にんけん天皇以下の記事は系譜中心の帝紀のみである。
 巻第十一は、仁徳天皇一代記。皇太子菟道稚郎子うじのわきいらつこ、即位を辞退して自殺、兄の大鷦鷯おおさざきのみこと即位(仁徳天皇)。百姓の課役を免除、聖帝とたたえられる。壬生部みぶべなど部の設置、茨田堤まんたのつつみなどの土木工事、磐之媛いわのひめの皇后きさきとの不仲、皇后薨後の八田皇女やたのひめみこ立后、はやぶさ別皇子わけのみこ雌鳥皇女めとりのひめみこ謀反、蝦夷えみし征討など。対外関係は高麗こま朝貢、百済くだらに遣使、新羅しらぎ征討など。在位八十七年。歌二十二首。
 巻第十二は、履中りちゆう反正はんぜいの天皇紀。履中天皇の同母弟住吉すみのえの仲皇子なかつみこが誅殺され、即位。初めて国史ふみひとを置く。蔵職くらつかさを建て、蔵部くらひとべを定める。反正紀は、いみなの由来の他は帝紀のみ。在位は各六年(反正五年説あり)。歌一首。
 巻第十三は、允恭いんぎよう安康あんこうの天皇紀。允恭天皇は重病で、即位を辞退するが、妃大中姫命おおなかつひめのみことの強い要請により即位。新羅の医者により快癒。盟神探湯くかたちして氏姓を正す。皇太子木梨きなしの軽皇子かるのみこは同母妹軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみこに通じ、天皇崩御後、人望を失い、穴穂皇子あなほのみこ(安康天皇)に敗れ自決する。安康天皇が即位するが、根使主ねのおみ讒言ざんげんで天皇に殺された大草香皇子おおくさかのみこの子眉輪まよわのおおきみに殺される。その事情は次巻に詳しい。在位は四十二年と三年。歌九首。
 巻第十四は、雄略ゆうりやく天皇一代記。天皇は眉輪王や市辺押磐皇子いちのへのおしわのみこらを殺し即位。大悪の天皇と誹謗ひぼうされる。葛城山かずらきやま一事主神ひとことぬしのかみと出会い、有徳の天皇とも。宍人部ししひとべなどの設置、根使主の誅殺など。朝鮮関係の記事も多く、百済くだら軍君こにきしこにき)来朝、新羅征討の失敗、百済救援、高麗征討などがある。在位二十三年。歌九首。
 巻第十五は、清寧せいねい顕宗けんぞう仁賢にんけんの天皇紀。清寧紀では、星川皇子ほしかわのみこの謀反、天皇即位後、市辺押磐皇子の子の億計王おけのみこ弘計王おけのみこが発見される。続く顕宗紀で両皇子発見の様子が詳しく述べられる。弘計王が先に即位。雄略天皇への復讐を兄億計王がいさめる。崩御後、億計王が即位(仁賢天皇)。在位は五年、三年、十一年。歌四首。
 巻第十六は、武烈ぶれつ天皇一代記。平群へぐりの真鳥まとりの子しびに歌垣で敗れた天皇は、大伴おおともの金村かなむらに鮪、真鳥を殺させる。即位後は、暴虐の記事が多い。対外関係では、百済の武寧王むねいおうが即位、朝貢する。在位八年。歌九首。
 巻第十七は、継体けいたい天皇一代記。武烈天皇に継嗣なく応神天皇五世の孫、男大迹おおど王が越前国より迎えられ即位。任那みまな四県を百済に割譲、百済は五経博士段楊爾だんようにを貢上、百済聖明王せいめいおう即位。筑紫つくしの国造くにのみやつこ磐井いわい、新羅と結び反乱、近江おうみ毛野臣けなのおみの任那での失政、召還途中、対馬つしまでの病死など。朝鮮関係の記事が多い。在位二十五年。歌四首。
 巻第十八は、安閑あんかん宣化せんかの天皇紀。安閑紀では、諸国に多く屯倉みやけを設置。宣化紀では、官家みやけ那津なのつに建てる。大伴狭手彦おおとものさでひこを遣わし、新羅の侵攻に対し任那を鎮め、また百済を救援。在位は二年と四年。
 巻第十九は、欽明きんめい天皇一代記。朝鮮関係の記事が大半。百済の聖明王は、任那復興に尽力するが、新羅との戦いで戦死、新羅が任那を滅ぼす。国内では仏教公伝により排仏派と崇仏派が争う。在位三十二年。歌二首。
 巻第二十は、敏達びだつ天皇一代記。王辰爾おうじんにが高麗の烏羽の書を解読。任那復興のために日羅にちらを召すが、謀殺される。蘇我馬子そがのうまこ仏殿造営、仏法初めて興る。疫病流行し、物部守屋もののべのもりやが仏像を難波の堀江に投棄。在位十四年。
 巻第二十一は、用明ようめい崇峻すしゆんの天皇紀。敏達天皇の寵臣ちようしん三輪みわのきみさかう穴穂部皇子あなほべのみこが物部守屋に殺させる。天皇、群臣に仏法への帰依を詔し、馬子と守屋らが対立。天皇崩御後、馬子は、穴穂部皇子を殺させ、次いで守屋を滅す。崇峻天皇即位、馬子が法興寺ほうこうじを創建、天皇は任那再建の兵を九州に進めるが、馬子に暗殺される。両天皇の在位は二年と五年。
 巻第二十二は、推古すいこ天皇一代記。天皇は敏達天皇の皇后で、日本最初の女帝。用明天皇の皇子、厩戸豊聡耳うまやとのとよとみみの皇子みこ(聖徳太子)を皇太子摂政とし、冠位十二階かんいじゆうにかいが施行される。太子は憲法十七条を制定。馬子と天皇記・国記などを編纂。小野妹子おののいもこ大唐もろこしずい)に派遣。任那復興は進まず。在位三十六年。歌三首。(大島信生)
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