古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

権力の帰趨を見つめるまなざし

第34巻 大鏡より
 人間が集団として生きるところ、しぜんと権力を行使できる立場の人と、権力を追い求めながら敗れていく人と、そういう生き方を好まないのにもかかわらずその渦に巻きこまれてしまう人がいる。摂関政治期を正面から見すえたこの作品は、そういう圏内に生きる人々の悲喜こもごもが描かれている。
 この政治形態期に権力のトップにいるのは天皇である。その決定権に口を介入できる天皇の父上皇や、母后とその身内もおのずと強い力を発揮した。律令制度という太政官政治の牽制を受けながらも、天皇との私的関係が大きくものをいう時代である。だから娘が生れると、将来、后とすべく教育を重ね、入内させて、男子の誕生をひたすら待つ。何人もいる男皇子の中から、次期天皇となる東宮とうぐうが決定するのは、器量・人柄などの人物本位よりも、むしろ摂関たろうとする身内の思惑からであることが多い。帝位に就いても、天皇は臣下との力関係次第で、自分を通せるか、しかたなく従うか、あるいは反発して敗れ帝位を追われるか、のいずれかである。といっても、天皇が幼少から肉親として傍ら近く庇護してくれた伯父・祖父が摂関であるなら、おのずと選択できる幅は決まるであろう。このうまみを、藤原氏は、何代にもわたって他氏に手渡さず、天皇を一族から輩出し続けたのである。だが、次第にそれは一族間・兄弟間での熾烈な争いとなった。
諸本によって異なる逸話
ところで、『大鏡』の諸本は、古本系統と、それに増補した流布本系統・異本系統という三種類の系統に分かれる。諸本によって権力の帰趨を見つめる目もだいぶ異なる。
 伊尹これまさ兼通かねみち兼家かねいえの三兄弟がいた。姉妹の安子あんしが、村上天皇の中宮で冷泉れいぜい天皇と円融えんゆう天皇の母であるが、すでに亡くなっていた。兼家は官職においても人物の器量においても、次兄の兼通よりも一歩リードしており、そういうことから兄弟の仲は悪かった。おもしろくない兼通はおのずと内裏だいりからも遠のきがちで、円融帝は伯父たちの中にあって彼を疎遠に思っていた。ところが、長兄の伊尹が亡くなるや、兼通は参内し、かつて安子の存命中に書いてもらい、お守りのように大切に持っていた書きつけを、円融帝に御覧に入れた。「関白は次第のまま(兄弟順)にせさせたまへ」というものである。帝はみかどそれを見ると「故宮こみや御手おて(筆跡)よな」と言って、その書きつけを持って部屋にこもり、結果として、母宮の遺言を違えまいと兼通を関白に就けたのである。この話は古本系統にはなく、流布本系統と異本系統(両本ともに増補本系)にある記事である。[ここで一言。このような大事が、よもや母宮の書きつけ一枚で決定するはずがないと思われようが、当時の蔵人平親信ちかのぶは、兼通が権中納言から内大臣・関白になった理由を、「外戚ノ重キ、前宮ノ遺命ニ依リテ也」と日記に書きとめている。また『扶桑略記ふそうりやつき』にも同様に記されていて、実際、母后安子の遺言が有効であったらしい。]
 この話はまだまだ続く。関白兼通は重体となっていた。弟兼家邸の方角から兼通邸に向かう車の音が響いてくる。仲が悪くとも、さすがは兄弟、見舞に来てくれた、やはり関白職は弟に譲ろうとする思いがよぎる。が、車は兼通の門前を素通りしてしまった。兄が亡くなったと聞きつけて、関白職を願うために参内したのだという弟の胸中を知り、危篤の病人は起き上がって車を用意させた。そして、天皇に目どおりし、最後の除目じもくと称して、兼家の大将職を取り上げ、治部卿じぶきように左遷し、関白職を従兄の頼忠よりただに譲ってしまった。最後の最後まで、権力を行使して、弟を排除したのである。その生き方を、
 されば、東三条殿とうさんでうどの(兼家)つかさ取りたまふことも、ひたぶるに堀河殿(兼通)の非常ひざうの御こころにもはべらず。ことのゆゑは、かくなり。「関白は次第しだいのままに」といふ御ふみ思し召しより、御妹のいもうとみやに申して取りたまへるも、最後に思すことどもして、うせたまへるほども、思ひはべるに、心つよくかしこくおはしましける殿なり。
と高く評価する。これらの記事を増補した人は、兼通の、自分の力を知りつつ後への万全の準備をする周到さ、最後の力をふりしぼる生き方の激しさなどに共感をおぼえるものらしい。
 この兄の死後、左遷された兼家はどうしたのであろうか。それを物語るのは、『拾遺集』雑下にある長歌である。兼通が亡くなってほどなく、兼家は左遷の身を愁訴した。自分が、円融帝の幼い時からどれほど心をつくして、皇太子位に就け、帝位に就けたのかを訴え、にもかかわらず摂関職から排除された思いを詠みこみ、はやく左遷の身を解いてほしいと願ったものである。それに対して、円融帝は、しばらく待てと返歌した。これらを『拾遺集』とは小異を見せつつ、長歌全部、帝の返事、さらなる兼家の返歌まで一連を本文化しているのが、異本系統なのである。
 このように、流布本系統と異本系統の本文では、摂関という権力の座をめぐる、兼通・兼家兄弟間の確執として長々と物語がなされてきた。
 ところが、古本系では、二人の確執をめぐる物語は、流布本・異本系統とは、まったく異なる姿勢である。古本系統の近衛本では次のように記す。
 このおとど、すべて非常の御心ぞおはしし。かばかり末絶えず栄えおはしましける東三条殿を、ゆゑなきことにより、御官位をつかさくらゐ取りたてまつりたまへりし、いかに悪事あくじなりしかは。天道てんたうもやすからずおぼしけむを。その折の帝、円融院にぞおはしましし。かかる嘆きのよしを長歌に詠みて、奉りたまへりしかば、帝の御返り、「いなふねの」とこそ仰せられければ、しばしばかりを思し嘆きしぞかし。
「かばかり末絶えず栄えおはしましける」ことが、もっとも強い兼家に対する評価となり、それゆえ兼通の心を「非常」とし、その仕打ちを「悪事」とし、「天道」も心穏やかならず思っていたであろうと批判している。ここには、兼通の行動をもっともな行為と支持する増補本系の立場はない。また、兼家が長歌で訴えた自分の功績や嘆きは、傍線のように、ごく簡単にふれただけである。「しばしばかりを思し嘆きし」というように、円融帝の約束どおりに復権はなった。その後の経過をじつによく踏まえて、そして、読者の知見にゆだねて省略しているのが、古本系の書き方なのである。さらりと書きのけてはいるが、長歌やその後のやりとりを長々と書き入れた異本系統よりも、事態の推移を見つめるまなざしは、はるかに鋭いと思われる。
 古本系の物語の論理と、増補本系の物語の論理が、ぶつかってしまう例をもう一例あげてみたい。
 有名な道長と伊周これちかの弓争いの逸話がある。もともと古本系の道長伝にあるもので、増補本系にも無論見える。道長が甥の伊周よりも下位にあった不遇時代、関白道隆みちたか邸でのことである。折しも弓の競射が行われていたところに、道長がめずらしく顔を見せたので、主人側は接待にこれつとめた。弓の競技には身分が低いのにもかかわらず、道長を先に射させた。勝負は矢数二つの伊周の負けとなった。ところが、主人の道隆も周囲の人も「いま二度延べさせたまへ」と、暗黙に伊周に勝ちを譲れと道長に要求。すると、道長は、「道長が家より帝・后立ちたまふべきものならば、この矢あたれ」と言って矢を放つと的の中央を射抜いた。一方伊周は気後れして手も震えるせいか、矢はあらぬ方向にへなへなとそれていった。再び的に向かう道長は「摂政・関白すべきものならば、この矢あたれ」と言うと、的の中央がやぶれるばかりに響き当たった。めったにない一番きれいな勝ち方「中科」が立て続けに二度あり、勝負は決定した。もう伊周の勝ちは無くなり、棄権してしまう。
 道長の覇気が運勢を引き寄せてしまう縮図を見るような逸話である。伊周のふがいなさとか他愛ない勝負ごとを描くのが目的ではない。この話には、権力の帰趨はすでに約束されていたような、そういう考え方が見える。道長本人の人柄は、それにふさわしく魅力的に語られていた。
 ところが、異本系統にのみある記事で、同様な弓の競射に道長が登場してくる頼忠よりただ伝は、だいぶ様相が異なる。四条宮遵子じゆんしは、道長が弓を好み、上手と聞いて、ぜひとも見たいと誘いの便りを送り、宮の弟の公任きんとうと道長が弓の競技をした逸話である。この時も道長はたいへんな供応を受けた。勝負に勝った者が得る賭物かけものについて念入りに述べられる。銀の枝に金の大きな柑子こうじを十個ほどならして州浜すはまに立ててあるという。勝負は道長が優勢のうちに進んで、もはや勝負ありと思う。ところが、公任は勝つ気のない勝負に、矢を射たところが、何と的の中央をやぶれるほどに響き射当てた。「中科」である。勝負は大逆転となった。逃げ帰る道長に、宮はせっかくの賭物をと前駆ぜんくにとらせたが、道長は捨てて立ち去った。
 この二つの弓の競射をめぐる話は、古本系に本来あった道長・伊周逸話の、簡潔でありながら、人物の器量とか運勢とかに関心が集中していくのに対して、増補された異本本文は、勝負そのものの単なる偶然とか賭物にこだわって、描かれた人間があまりにも小さい。この両話を、同一作品と誤解してしまうと、作品の統一性もなくなり、焦点がぼけてしまおう。あくまでも異本系の本文は、後の人が付加したものなのである。
運命の中に投げ出される人間群像
流布本系統・異本系統本文は、例にあげたような逸話類のみならず、各個人の履歴も詳しく並べたて、増補された記事が多く説明もくどい。近衛本・東松とうまつ本のような、古本系統における必要十分なもの言いとは性格を異にしている。
 本書では、この性格の異なる増補本系統の本文から、まとまりのある逸話のみを選んで二字下げで引用した。古本系統の本文とはじめからまじえて読むと、さまざまな諸本が混在して『大鏡』本来の姿を見失ってしまう。本書を、二段階に分けて読むことをお願いしたい。二字下げの部分を読みとばして、まずは古本系の文章についてだけ読んで、本来の作品がもつ論理と味わいを読み取ることを通してほしい。その後に、享受の過程でさまざまに増補された記事を読んでいただきたい。
 これほどまでに、物語が大きく付加されていくのは、それだけ作品に人気があって読みつがれていったことや、作品の構成に付加しやすい性格があったからと思われる。増補はかなり早い時期になされたが、その過程については確かな検証を経ているとは言いがたい。だが、たとえば、道長末裔の慈円じえんの『愚管抄ぐかんしよう』、源顕兼の『古事談』、顕昭の『古今集註』『拾遺抄註』では、増補本を見ており、中世期に広く流布した。さらに、増補本系統は古活字本や版本として読み継がれ、昭和三、四十年代まで広く享受されてきたのである。
 ところで、『大鏡』では、権力を掌中にでき次の世代に手渡すことのできる人の共通点として、その気迫や剛胆さがある。政治という非情の世界にあって、人を傷つけ、人を追いこみ、人の生を左右する、そういう世界にいる人間は、この世のものならぬものと対峙しても、あるいは圧倒し、あるいは抱えこんでいくほどの器量が必要なのであろう。ここで語られた道長も、そういう系譜の中にある。そして彼の場合は、ある時は転輪聖王にてんりんじようおう、ある時は聖徳太子や空海の生れ替りに、そして弥勒菩薩の世界をこの世に現出させた人として、特別の思い入れがこめられてさまざまな伝に登場し描かれた。だが、『大鏡』の興味関心は、彼を先祖代々の力を継承しつつ、ある運命の中にたまたま生きえただけと捉えて、彼自身の人間性に立ち向っていくことにはない。
 物語られたのは一人一人の生きざまを超えて、生きては消えゆく人間の姿を、どう抗してもあらがいがたい運命の中に放り出している感がする。そして、読む者を魅了してやまないのは、人間存在がどうしようもなくかかえ込む負の部分をも笑いとばして突き放っているが、一方でそのまま容認していく姿勢にあるのではなかろうか。物語は雲林院うりんいん菩提講ぼだいこうのはじまる前に設定されたが、亡くなった人々を次々に話題にして語り閉じていく物語は、まさしく、仏の前には、どの生もみな同じように呑みこまれる、そういうシステムが有効にはたらいているように思われるのである。
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