古典への招待

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「色好み」のルーツ

第66巻 井原西鶴集(1)より
 本書に収めた西鶴初期の作品には、それぞれ「好色こうしよく」と冠しているが、それぞれ概念が異なる中に、第一作の『一代男』と第二作の『二代男』の好色は同一概念であり、それは『一代男』の第一章で、「色道しきだうふたつに寝てもめても」という色道(好色)である。
 そこで「好色」という漢語と、訓読して「色好み」のルーツを探っておこう。 『史記』『漢書』『論語』などの中国古典に散見する「好色」は、美貌びぼうまたは情事にふけることを意味し、それを訓読したのが「色好み」である。目下のところ平安時代に登場した用語ということになっている。平安初期の『竹取物語』に、「色好いろごのみといはるるかぎり五人」とあり、また中期の第一勅撰集『古今和歌集』の紀貫之きのつらゆきの仮名序に、「今の世の中、色(華美)につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなきことのみいでくれば、(和歌は)色好みの家にうもれ木の、人知れぬこととなりて」とある。和歌が奈良時代の国を挙げての『万葉集』とちがって、プライベートな恋愛や結婚生活のコミュニケーションの手段となってしまい、パブリックな「はれ」の文芸でなく、プライベートな「」の文芸に堕してしまったことを嘆いているのである。さらに、この仮名序にもとづいて漢詩人の紀淑望きのよしもちが書いたと推定されている漢文の「真名まな序」には、もちろん「好色こうしよく」とあるので、この漢語と和訓の用語使用は、朝廷からお墨付すみつきが出たようなものである。
 ところがこの「好色」という漢語の原典は、すでに前期王朝末期の『万葉集』編纂へんさん当時には、唐から輸入されていたようである。真言宗の開祖・空海著の『三教指帰さんごうしいき』の成立は、平安遷都(七九四年)の三年後である。その上巻に「つね蓬頭ほうとう(みだれ髪)の婢妾ひしようを見ては、すで登徒子とうとしが好色に過ぎたり」(原漢文)とある。登徒子は中国の春秋戦国時代のじよう王の太夫で、楚の詩人・宋玉そうぎよくの『好色賦こうしよくふ』に、「好色漢」として挙げられた人物である。空海が唐の長安に留学したのは延暦二十三年(八〇四)であるから、七九七年に『三教指帰』を書き上げる以前に、稀代きだいの秀才・空海が舶来の『好色賦』を読んでいたことは明らかである。
 もちろん万葉歌人たちが、漢語の「好色」を「色好み」と和訓するまでにはいたっていないが、それに該当する事例や人物や用語が存在していたことは、『万葉集』巻二の相聞そうもん(恋愛)の歌二首(一二六~一二七番)が物語っている。
石川女郎いらつめ、大伴宿禰田主すくねたぬしに贈る歌一首
遊士みやびをと 吾は聞けるを 屋戸やど貸さず 吾をかへせり おそ(鈍感)の風流士みやびを
大伴宿禰田主のこたへ贈る歌一首
遊士に 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾ぞ 風流士みやびをにはある
 この贈答歌に付いている漢文の解説を、多少の私見を交えて略解しよう。梅花を愛した風流の大宰府だざいふ長官・大伴旅人たびとの弟で、『万葉集』切っての抒情じよじよう歌人・大伴家持やかもちの叔父にあたる大伴田主たぬしは、容姿のすぐれた風流士みやびお(プレイボーイ)として聞えていた。時に独身の石川女郎いらつめは田主との同棲どうせいを望んでいたが、よい仲立ちがないので、ある夜、下賤な老女に化けて土鍋どなべを提げ、田主を訪れて「火をいただきたい」と申し入れたが、田主は女郎のからくりを察して家に入れず、火を与えただけで追い返してしまった。そこで女郎が、「わたしの思いを察せず追い返したとは、ほんとに血のめぐりのわるい、見掛け倒しの風流士だ」となじったので、「そういう下ごころを察して去気さりげなく帰した私こそ、本物の風流士なんだ」と田主が切り返したのだ、という。
 さてこの「風流士」の「士」は男を意味するが、「風流みやび」は元来、野暮な田舎風を意味する「ひなび」の対語で、「みや」は宮すなわち神社や貴族の宮殿のある所、都会風・宮廷風、すなわち優雅な風俗や慣習を意味するが、特に「風流士みやびお」は男女の情愛に通じたプレイボーイを意味した。なお「みやび」に優雅の「雅」の字をあてるようになったのは、漢字を多用するようになった中世(和漢混淆文こんこうぶん)以後のことである。
 この前期王朝の恋の諸分しよわけに通じた「みやびお」を懐かしがって、「昔人むかしびとは、かくいちはやきみやびをなむしける」と懐古的発言をしたのは、平安中期の『伊勢物語』の第一段「初冠ういこうぶり」で、『万葉集』時代の残照である。だが『竹取』をはじめ『源氏』や『和泉いずみ式部日記』など、仮名書きの恋物語が主流となった平安時代になると、前時代的な「みやび」や音読の「好色」は用いられず、訓読の「色好み」を専用するようになった。
 それでも中世歌壇や歌人は「雅び」を階級的美意識とした王朝文芸の影響下にあったから、鎌倉時代末期の歌人の兼好法師が、『徒然草』第三段で言う。
よろづにいみじくとも、色好まざらんをのこは、いとさうざうしく、玉のさかづきそこなき心地ぞすべき。……女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
 また第一三七段に言う。
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。…… 男女をとこをんななさけも、ひとへにひ見るをばいふものかは。逢はでやみにしさを思ひ、あだなるちぎりをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲井くもゐを思ひやり、浅茅あさぢ宿やどに昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。
 これを合わせ読めば、千変万化する無常の美を愛すべきだという、動乱期の詩人の美意識にもとづく「色好み」の解釈だということがわかる。しかし、所詮しよせんは一夫多妻で不倫意識もなく、「色好み」を風流韻事の一環と見る王朝的思考に対する挽歌ばんかにほかならない。
 
 京都という限られた無風地帯は別格として、すでに十二世紀末に開始された武家社会では、一二三二年(貞永元)に頼朝以来の判例をふまえた『御成敗式目ごせいばいしきもく』が、北条泰時やすときによって編纂されていた。
強姦和姦を論ぜず、人妻と懐抱の輩、所領の半分を召され、所帯なき者は遠流おんるに処すべきなり。次に道路辻において女を捕える事、御家人は百ケ日の間出仕を止め、郎従以下に致りては、片方のびんり除くべし。
という厳罰が必要な荒くれた世相だったのである。なお『好色一代男』巻三・二十七歳の章で、神主に化けた世之介が塩竈しおがま明神でぬしのある舞姫をレイプしそこない、片小鬢かたこびんを剃られたというくだりは、近世初期までは地方に上記の古法が残っていたことを西鶴が承知していたからである。
 これでは「みやび」だの「色好み」だと気取っておられるはずがない。しかも、まもなく『太平記』巻二十七が、「臣きみを殺し子ちちを殺す。力をもつて争ふき時到る故に、下剋上の一端にあり」という、力ずくのインモラルの時代がやってきた。かつ、室町後期の応仁おうにんの乱に引き続く戦国時代になると、嫁の不義密通は一家一門の恥だというので、妻敵討めがたきうちが公認されるまでになった。だから御伽草子おとぎぞうしの『物くさ太郎』に、「ぬしなき女を呼びて、料足りようそく(金銭)を取らせて逢ふことを、色好みといふなり」とあるように、不倫はペナルティーが怖いから、独身の女を金で買ってすまそうという、買春ツアーのおっさんみたいなのが「色好み」となっては、万事休すである。
 
 後期王朝時代に匹敵する三世紀に近い泰平の時代と文化を演出した近世の徳川幕府は、関所を廃止して交通の自由を設定するとともに、貨幣制度を発足させ、その貨幣を鋳造し運営する商人(町人)を優遇した。特に直轄都市の江戸をはじめ、駿府すんぷ・京都・大坂・さかい・奈良などの地子銭じしせん(年貢)を免除したのは、商業の繁栄こそ興国のゆえんと考えたからであった。その結果、町人階級はその富に見合った教養(詩歌・諸芸・美意識)を保持するに到った。だが、彼等の日常生活は、封建道徳や、家族・身分制度に拘束され、しかも政治に参加する自由は皆無であった。
 こうした町人対策と並行して、幕府は中世の無秩序な散娼さんしよう制度を、治安維持のためにくるわ制度(公娼)に切り替えた。特に京・大坂・江戸三都の廓は「御免ごめんのおちよう」(略して、お町)と称し、その格式・設備・妓風を誇ったので、一も二もなく有産・有識階級である町人のサロンとなった。
 遊女屋の亭主に「忘八ぼうはち」と当て字したのは、儒教の八徳「仁義礼智信忠孝悌」を忘れさせてくれるボスだからという洒落しやれである。しかもその三都の廓(島原・新町しんまち・吉原)は半世紀余りで、王朝の「雅び」に相当する「粋」という遊びの美学とエチケットを醸成したので、王朝の「好色」(色好み)がよみがえる格好の場となった。その美学とエチケットを体系化したのは、京都の分限者の家に生まれ、十代から三十代にかけての遊興と諸国遊里の実地調査をまとめた『色道大鏡しきどうおおかがみ(十八巻・延宝六年‐一六七八‐序)の著者、藤本箕山きざんであった。この箕山が衒学げんがく的かつ即物的に叙述した好色道である「粋」を、箕山と親しかった西鶴が文芸化したのが、処女作『好色一代男』と続編の『諸艶大鑑しよえんおおかがみ』(好色二代男)であったことは、『色道大鏡』を翻刻・解説した野間光辰君も指摘しているから、贅言ぜいげんを要しない。
 だが西鶴の西鶴たるゆえんは、廓という一般社会のモラルや慣習から隔離された租界そかい内で通用する「粋」という美意識に固執せず、好色の意味を拡大解釈して、まもなく粋とは対極の、目覚めた性愛に不惜身命ふしやくしんみようの『好色五人女』や、性を商品化しなければ生きていけなかった『好色一代女』などを、社会的視点をもって書いている点にある。好色物に限らず晩年の町人物においてもしかりであるが、これは彼が特定の美意識やイデオロギーに束縛されず、やむにやまれぬ人間のごうを描き続けたリアリストであったことのあかしである。オフレコせずに堂々と正反合の人生の表裏を眺め描いた西鶴であったから、彼の文学は明治・大正・昭和・平成の近現代を生き続けているのである。(暉峻康隆)
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