「古典」の乱用
「古典」といい、「文学」という。これらのことばは、も早、聞き飽きた、といってもいいだろうが、しかし正確に
捉えようとすると、分らなくなる。「古典」が変なところに使われているな、とまず感じたのは、戦後、「古典落語」ということばを見た時である。それまで私は「古典」とは、文机の上に置かれた重厚な書籍、それは巻子でもよいし、冊子でもよいが、人々からあがめられ、
敬虔な心をもってひもとかれるもの、というイメージが強かったからである。「古典落語」とは何たることばか。古ければ何にでも「古典」を冠していいというのは、まさにことばの重みを知らない軽薄の徒の所為である。
「文学」の変質
「文学」ということばも、この頃ではすっかり安っぽくなってしまった。十や二十の、人生経験もまだろくにないような若い女の子が、ちょっと自分の恋愛経験を作文にすると、もうそれを「文学」のジャンルに入れてしまってジャーナリズムでちやほやするという始末である。だいたい、「文学」というものは、日本では古来そんな安価な「作り物語」ではなかったのである。
『
古今著聞集』(『新潮日本古典集成』による)の巻四の「文学」の序にいう。
伏羲氏の天下に王としてはじめて書契をつくりて、縄をむすびし政にかへ給ひしより、文籍なれり。孔丘の仁義礼智信をひろめしより、この道さかりなり。書に曰く、「玉琢かざれば、器に成らず。人学ばざれば、道を知らず」と。また云はく、「風を弘め俗を導くに、文より尚きは莫く、教へを敷き民を訓ふるに、学より善きは莫し」と。文学の用たる、蓋しかくのごとし。
とあって、文字によって儒教の正道を教えるものということのようである。『古今著聞集』の文学編は、神祇、釈教、政道忠臣、公事の次に位置し、和歌、管絃歌舞の前にあり、当時の識者の意識において、「文学」というものの社会的位置の大体のありようが伺われるのである。その内容をみると、ここに集められた話は、すべて漢詩・漢文にまつわる挿語である。当時の、つまり鎌倉時代初期の文学とは漢文学であったということになる。この風潮は、長く続いて、徳川時代の終り頃までそうであった、といっていいであろう。だからそこには、今でこそ古典文学の代表のようにみられている『源氏物語』も『枕草子』もまったく姿を見せないし、『日本霊異記』『三宝絵』などの、いわゆる説話集もぜんぜん取り上げられていない。日本文学の中心と考えられる和歌も、「文学」の中には入らず、その次に置かれている。
こういった「文学」という語の内容の価値の転換は、いつ、どうして起きたか。これは明治初年の文学活動からであろうが、詳しくはその道の専門家の解明によらねばならない。しかしこうして「古典」「文学」ということばの変化、悪く言えば堕落、を、承知した上で、現在の我々が、「古典文学」といっているものをもう一度見直し、我々がそれを読むのは何故であるかを問い直さねばならないであろう。
生活と心情を知る
端的に言って、私は、日本の古文献(あえて古典文学という語を用いることを避けた)の中で、「文学」を探っていこうという試みは、「文学」の意味する内容にもよるけれども、あまり意味のあることだとは思わない。つまりそれはある基準によって、価値をきめて選別することだからである。たまたま目にした『古今著聞集』の解説(西尾光一氏担当)に、「この『著聞集』七百二十六話の説話のうちで、どれだけのものが文学といえるのか、説話とはどういうものなのだろうか、説話文学というものをどうとらえたらよいのか、といったような、極めて原初的な疑問におち込み、……」という文章があり、いかにも西尾さんらしい正直な発言だと思った。説話文学会では発足当初からこの問題は
活発に議論された。
私は、日本の古文献(いわゆる古典文学)を読むことは、その時代の人々の生活を知り、そこに生きた人々の生き方、考え方を知ることだと思っている。たとえば、『源氏物語』の世界や、『源氏物語絵巻』を見て、平安時代の女性は
みんなあんなきらびやかな派手な
衣裳をぞろりと着て、起居も自由にままならぬ生活をしていた、と想像するならば、それはとんでもないまちがいと言えよう。あれは宮廷生活の一部を描いたものに過ぎないのだが、現在の『源氏物語』流行の風潮からみると、どうもそんな錯覚がまかり通っているようである。しかし、真に古人の生活と心情を知るためには、『今昔物語集』などの説話は絶好の材料といえよう。
貧困
本書に収める『今昔物語集』巻十六は観音霊験譚を集めた巻であるが、その観音は人々の困苦を救い給う菩薩である。そして人々の困苦の中で一番多いのは貧困であった。ということは当時の人々は、多くの者が貧困であったということである。庶民の貧困のさまは『源氏物語』には出てこない。
『今昔物語集』巻十六第七話は、父母に死別した一人娘の生き方をうつす。
聊ニ知ル所モ無クシテ世ヲ渡ケルニ、〓(やもめ)ナル娘一人残リ居テ、何デカ吉キ事有ラム、祖ノ物ノ少シモ有ケル限ハ、被仕ルヽ従者モ少々有ケレドモ、其ノ物共畢テ後ハ、被仕ルヽ者一人モ不留ズ成ニケリ。
というありさまで、まったく収入の途が無い。時には食べる物も無いという状態で、父の建てた観音に向って、「我ヲ助ケ給ヘ」と祈るよりしようがなかったが、その信心の
甲斐あって幸福な結婚にめぐまれる。
巻十六第八話もまったく同じ筋で、こうした非運の女性の話は他にいくらもあるが、みな仏教説話であるから、結局はあつく観音を信仰したがために救われるということになる。その救いのない、最も悲惨なのが、巻十九第五話の「六宮姫君」の話である。話は芥川龍之介の『六の宮の姫君』によって多くの人に知られているであろう。主人公の娘は、「旧キ宮原ノ筋」であるが、
父モ母モ墓無ク打次キテ失ケレバ、姫君ノ心只思ヒ可遣ベシ。哀ニ悲シク置所無ク思ユル事譬ヘム方無シ。月日漸ク過テ服ナドモ脱ツ。父母ノ〓(あけ)暮レ後メタ無キ者ニ宣ヒシカバ、乳母ニモ不被打解ズ。只何トモ無クテ年来ヲ経ル程ニ、可然キ調度共数伝ヘ得タリケルモ、乳母墓無ク漸ク仕ヒ失テケリ。然レバ姫君モ、可有クモ無クテ、心細ク悲シク思ユル事無限シ。
ということになった。当時、乳母というのは本当の母以上に親身になってその子の世話をしたものであるが、ここに出てくる乳母はなかなかのくせ者であったらしく、父母からも「後メタ無キ者」とみられていたようである。芥川がその乳母を普通の親身になって世話をする女として描いているのは物足りない。そういう乳母しか頼れる者の無い姫君としては、天涯孤独で、どうしようもないのである。しかし、ともかく乳母は、いちおうの若者を夫として世話するのである。しかしその男は、父親の
陸奥守になったのについて奥州へ下ってしまい、父の任が終る年に、父の命で
常陸守の
婿となり、合計七、八年も京を離れ、六宮を放っておいたことになる。当時の社会、家族構成からいえばやむを得ぬこととなるかもしれないが、それにしてもその男はいかにもだらしない。そして七、八年もたって京に帰った男は六宮姫君を探しに出歩き、やっと探し当てたのは、
莚ノ極テ穢ナルヲ曳キ廻シテ人二人居タリ。一人ハ年老タル尼也、一人ハ若キ女ノ、極テ痩セ枯テ色青ミ影ノ様ナル、賤シキ様ナル莚ノ破ヲ敷テ、其レニ臥シタリ。牛ノ衣ノ様ナル布衣ヲ着テ、破タル莚ヲ腰ニ曳懸テ、手抛シテ臥シタリ。
その女が探している六の宮の姫君であったが、女は、その男が遠くへ行ってしまったその人であると分り、男に抱かれたまま死ぬのである。
女一人でこの世に過していくことがいかに困難であったかは、これらの話によって分るが、芥川の関心はむしろそこには無かったようである。芥川は、専心念仏によって極楽へ救われると信じられていた時代に、極楽も地獄も知らぬという無信仰の女の魂はどうなるか、ということに興味があったようである。それは芥川の読み方であり、我々はなにもそれに従うことはない。前にも言ったごとく、当時の社会相がここには生き生きと書かれており、我々にはそうした社会に独身女性がいかに悲劇的立場に置かれていたものか、ということのほうが理解できればよいのではないか。
欲望
もう一つ当時の人々の思想傾向で気づくことを挙げておこう。それは当時の人々がなぜ観音を信仰したかということである(あるいは観音でなくて他の仏でもよい)。それは多く現世利益ということである。もちろん時代の進むにつれて、人生というもの、無常というものについて思想がしだいに深刻化していくということはありうるが、時代がさかのぼるほど、仏教を信ずるのは現世利益の思想であり、その流れは実は長く深く現代にまで通底しているものである。
『今昔物語集』巻十六第十四話に、
御手代東人という男が観音を念ずる話がある。これは『日本霊異記』に出典があり、
聖武天皇の時のこととしているから、奈良時代の話であるが、この男が観音に祈ったことは、「南無銅〓(せん)万貫 白米万石 好女多得」というのである。つまり金や米をうんともうけ、美女を沢山得たい、という。これではまったくの現世利益のために観音に祈り、その願いのとおりの利益を得た、という話であるから、現今から見れば
唖然とせざるを得ない。しかし、そういう思想は、「観音ノ助ケニ非ズハ、我ガ貧シキ身ニ富ヲ難得ナム」(巻十六第九話)、「願クハ、観音慈悲ヲ垂レ給テ、我レニ聊ノ便ヲ施シ給ヘ」(巻十六第十話)などに現れているが、例の「
藁長者」の話(巻十六第二十八話)では、京に父母妻子もなく知人もないという青侍が
長谷観音に祈っていう。
我レ身貧クシテ一塵ノ便無シ。若シ此ノ世ニ此クテ可止クハ、此ノ御前ニシテ干死ニ死ナム。若シ、自然ラ少ノ便ヲモ可与給クハ、其ノ由ヲ夢ニ示シ給ヘ。不然ラム限リハ更ニ不罷出ジ
とあり、寺の僧どもは、この青侍が、おれを助けないと、ここで餓死してやるぞと観音をおどしているとして、何とかしてやろうとする。観音様にそんな男を助けてやる義理があるのか、と疑問すらいだく。
『今昔物語集』巻十六第二十九話も、京に頼りとするもののない生侍の話である(妻だけはある)。
極テ貧クシテ過ケルニ、「長谷ノ観音コソ難有キ人ノ願ヲバ満給フナレ。我ノミ其ノ利益ニ可漏キニ非ズ」「願クハ、観音大悲ノ利益ヲ以テ、我ニ聊ノ便ヲ給ヘ。難有キ官位ヲ望ミ、無限キ富貴ヲ得ムト申サムコソ難ラメ、只少ノ便ヲ給ヘ。前世ノ宿報拙クシテ、貧キ身ヲ得タリトモ、『観音ハ誓願他ノ仏菩薩ニハ勝レ給ヘリ』ト聞ク。必ズ我ヲ助ケ給ヘ」
と祈る。こちらはよほど遠慮はしているが、やはり観音は貧乏人を助けるのがあたりまえだとしている。
これは
清水の観音に対しても同じである。『今昔物語集』巻十六第三十話は、「京ニ極テ貧キ女ノ清水ニ強ニ参ル有ケリ」として、「『譬ヒ前世ノ宿報拙シト云フトモ、只少シノ便ヲ給ラム』ト、煎リ糙テ申シテ」とあるから、これもかなり強引である。巻十六第三十一話では、「京ニ極テ貧キ女ノ清水ニ懃ニ参ル、有ケリ」というのは、ややおとなしい。
このように、自分の貧困を助けてくれるのは観音様だという考えがさきに立っている。しかし現在でも我々の周囲を見まわすとこういう人々がいるのに気づく。いわゆる善男善女の中に数多くいるのではないか。
こういった世相・人情は、表面的な作り物語には出てこない。説話を読むことの意義はまだいろいろあるが、従来のように「文学」を探すのではなく、人間の真実を見透すようにしたらどうであろうか。(馬淵和夫)