『和漢朗詠集』の編者、
藤原公任の家集に次の贈答歌が載っている。
三河の入道の唐に渡る門出を白河にしたりけるに、やり給ひける
わが宿にやどる門出の行く末は旅寝ごとにも忘れざらなむ
返し
音に聞く黄河の水はかへるとも白河の名をいつか忘れむ
「三河の入道」とは法名
寂照、「白河」とは
洛東にあった公任の山荘であるが、公任が、異国に行ってもここを忘れないでいてほしいと言ったのに対し、寂照は、たとえ、かの有名な黄河が逆流しようとも、あなたをどうして忘れようかと、白河とは色違いの黄河を持ち出して
洒落たのである。お互いにくつろいだ親交の深さが
偲ばれる。実際、寂照が
肥前国より
発って日本を離れたのは、
長保五年(一〇〇三)秋のことであった。
寂照は根っからの
僧侶ではない。俗名
大江定基、参議
斉光の三男であるが、大江氏は、当時最も重んじられていた学問、
文章道(漢学)の分野では菅原氏と
双璧をなす名家なので、定基も
大学寮に進み、才能にも恵まれて、
文章生よりさらにごく少数が選ばれる
方略という試験に及第すると、「秀才」とも呼ばれる文章
得業生になった。その後、天皇に近侍する
蔵人に
補任され、やがて国守になっていく経歴は、『
更級日記』作者の父、
菅原孝標とよく似ているが、公任とは
従兄弟になる藤原
実資は、定基が昇殿を許された円融天皇
天元五年(九八二)一月十日の『
小右記』に、「六位ノ蔵人ハ
其数多シト
雖モ、秀才大江定基ハ
是レ二代ノ
侍読ノ子孫ナリ」と感慨を特記している。「二代ノ侍読」とは「
江納言」と称され、
醍醐・村上天皇の侍読(学問の師)をつとめて中納言にまで至った定基の祖父大江
維時のことで、この蔵人在任中に、定基が侍従であった公任と、儀式などで同じ役回りをしていたのは、同記五月八日の条でも知ることができる。
ところが、ついで三河守となって京を離れた定基は、任地で
愛妾の死に遭い、悲嘆のあまり無常を痛感して出家してしまったというのである。出家の年次は『尊卑分脈』では
寛和二年(九八六)六月、『
百錬抄』では
永延二年(九八八)四月と伝え、『源
道済集』詞書によると、女と死別した
慟哭の思いは、本人が「書き置いたりし
草子」に作って人に見せたほどとあるので、寂照の
発心譚は、その後さまざまな説話を生み出すことになるのだが、当時、大江氏ただひとりの
公卿であった父斉光が、この推定年次に近い永延元年十一月、五十四歳で亡くなっている。定基には、当然大きな打撃であったにちがいないので、これも、出家の要因として忘れてはならないであろう。以来十数年、寂照と名を改めた定基は、出家の師であった寂心(高名な漢詩人
慶滋保胤)亡きあとの京、東山の
如意輪寺に住し、
叡山横川の
源信、醍醐寺の
仁海、
播磨書写山の
性空たちとも親交を結ぶ学僧として、人々の信仰さえ集めていた。だから、ひとり日本に残す母親のために山崎の
宝寺で催した
法華八講は京中の大変な騒ぎになって、一門の
後裔、大江
匡房が著した『続本朝往生伝』では、「コノ日出家セシ者五百余人(婦女ニ至リテハ車ヨリ髪ヲ切リテ講師ニ与ヘタリ云々トイフ)、四面
堵(垣)ヲ成セリ。聴聞ノ衆、
涕泣カザルモノナシ」と、この日の模様を伝えている。日本にいるうち、寂照の手で受戒したいと願う者のいかに多かったかが知られ、事実、翌年八月に海を渡った寂照は、その後、日本に宋版の『
白氏文集』などさまざまな文物をもたらしつつも、
遂に帰国することがなかった。信望
篤い人の渡唐は、都では大きな事件だったのである。
ところで、先の『公任集』所収歌詞書に、寂照が「唐に渡る」とあるが、唐は滅亡して久しく、宋が建国されてからでもすでに四十数年を経過している。菅原道真の上表により、
寛平六年(八九四)に遣唐使が廃止されて以来、文化交流が宋人の商船によって辛うじて保たれていた状況を反映してか、勅撰集入集歌詞書に見ても、「寂照がもろこしにまかり渡るとて」(『拾遺集』公任)、「入唐しはべりける道より、源信がもとに」(『後拾遺集』寂昭)とあり、寂照より七十年近く後に入宋した
成尋関連歌でも「成尋法師入唐しはべりける時」(『千載集』成尋母)、「成尋法師入唐しはべりけるに」(『新古今集』成尋母)と同じで、わずかに『新勅撰集』成尋母の歌に「成尋、宋朝に渡りはべりにけるを嘆きてよみはべりける」とあるのにすぎない。漢詩文でこそ寂照の従兄弟に当たる大江
匡衡の作品にも「大宋国」と繰り返し見えるが、国名の「
唐」と「
唐土」とは、和文では長く命脈を保ち続けたのである。また、勅撰集詞書のほとんどが「寂照」を「寂昭」とし、『
御堂関白記』などの記録類が、一部「寂昭」とするので、そう書かれもしたらしいが、
青蓮院文書に残る自署には「寂照」とあり、近くは一九七四年夏、中国
蘇州濂渓坊より出土した
明代の石碑(蘇州碑刻博物館蔵)「普門禅寺記」には、宋代に
止住した「日本僧寂照」の消息が刻まれているという。
一方、日本人の渡唐物語である『浜松中納言物語』巻一は、主人公一行が無事
唐土に到着したところより始まる。みな都を目指して進むが、「峰高く谷深く、はげしきことかぎりなし」と描写される
華山にさしかかった時に、中納言が、「
蒼波路遠し
雲千里」と感慨をこめて吟詠すると、「御供にわたる
博士ども、涙を流して」、続きを、「
白霧山深し
鳥一声」と添えたという。『和漢朗詠集』巻下、行旅に載る一
聯で、村上天皇に仕えた文章博士、
橘直幹作とあり、群書類従本によると、石山寺での詠と伝えている。『浜松』では一行が華山に至る三日前、
杭州に泊っていて、中納言は「石山の折の
近江の海思ひ
出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし」とあったというから、華山での朗詠もこれを
遙曳しているのであろう。「石山の折」とは現存本『浜松』に記述はないが、巻一の前にあって散逸した首巻(「解説」および「散逸首巻の梗概」参照)に語られていたとおぼしく、中納言が
石山詣をした折に、義妹にあたる大将の
大君(後の尼姫君)と、
琵琶湖の湖面に二人の影を映した記憶がよみがえったというのである。杭州と聞いて琵琶湖を連想するのには杭州の実景に接する必要はない。やや後代になるが、『元久二年(一二〇五)詩歌合』「水郷春望」の題で
左大弁親経が、「風ハ緑ナリ、杭州春柳ノ岸、煙ハ青シ、呉郡暮江ノ松」と詠んだのに対し、後鳥羽院が、「
志賀の浦のおぼろ月夜の名残とてくもりも果てぬあけぼのの空」と和したのもその例であろう。「蒼波路遠し雲千里」は、はるばると海を渡って来た中納言の感慨と重なるものがあり、「白霧山深し鳥一声」は、まさに華山を越えようとする時の心象と合致したとするのであろうが、この橘直幹作と伝える詩に、大江匡房の談話を筆録したという『
江談抄』は、「
奝然入唐シ、
件ノ句ヲ
以テ
己ノ作ト
称フ。『雲』ヲ以テ『霞』ト
為シ、『鳥』ヲ以テ『虫』ト為ス。
唐人称ヒテ
云ク、『佳句ト
謂ヒツベシ。恐ルラクハ「雲」「鳥」ト作ルベシ』ト」と、随分悪意に満ちた発言をしている。人の詩を自作と見せかけるのに、
奝然が「雲千里」を「霞千里」、「鳥一声」を「虫一声」と言い換えたところ、唐人に見破られたというのである。『和漢朗詠集』古抄本の注記にも見えるので、匡房以前に
捏造された話かもしれないが、むしろ本来は、日本人が作った漢詩を唐人が賞讃したとする点に眼目があったのではないかと思う。日本人の詩文を褒めるのに、唐人が絶讃したという以上の褒め言葉はないからであり、現に『浜松』の中納言は、渡唐して何度も詩文を披露したが、当地の人でこれにまさる者はいなかったと繰り返すのである。
寂照は日本に戻らなかったが、奝然は寂照(定基)が蔵人に補任された年の翌
永観元年(九八三)八月、日本を
発って入宋し、三年後の寛和二年八月、大宰府に帰着した。『浜松』の中納言が三年後に帰国したのは巻一を読むことでもわかるが、散逸首巻にも三年間の出国を願い出たと記述されていたであろうことは、巻一に「三年が
暇を申して渡りまうで来たるなり」「『三年がうちに行き帰るべし』と暇申してしほどにもなりぬ」とあるのでわかる。そして、これが奝然の三年とかならずしも無関係でないのは、奝然が往路・復路とも宋人の商船に便乗し、それは当時の制度として、宋船の往来が原則三年に一度と定められているのに由来するからなのであろう。たとえ渡唐する者、帰朝する者の騒ぎがなくとも、大宰府を通じて三年おきにもたらされる異国の文物は、都の話題をさらったのである。奝然が入京したのは、帰国した翌年の永延元年二月十一日、宋の太宗より下賜された『大蔵経』数千巻や、渡来の仏像を担う人々とともに、音楽入りで
朱雀大路を北上した奝然らの行列が、いかに都人士を
賑わせたかは、当日の『小右記』に克明に記されている。
奝然や寂照が入宋した目的は、聖地、
五台山(清涼山)や
天台山への巡礼であるが、それぞれ宋都の開封にも赴いて、奝然は太宗に、寂照は真宗に拝謁した。両人とも「華言」(中国語)は不十分だったので、もっぱら漢文の筆談で対話したが、奝然は、日本がいかにすぐれた国かを述べ立てたといい、寂照は、
王羲之の書風を見事に書いたので、並みいる唐土の人たちも驚嘆したという。そして『浜松』の中納言は、亡き父
式部卿宮が、唐土の第三皇子に転生しているとの伝聞や夢告げを得たので、渡唐した。いくら物語であるとはいえ、朝廷にどう切り出して出国の勅許が出たのか、散逸した首巻を是非にも読みたくなるが、中納言たちが
函谷の関に到着すると、「この関に御迎への人々参りたり。そのありさまども、
唐国といふ物語に絵にしるしたる同じことなり」とある。唐人たちの歓迎風景描写を回避して、当時あった『唐国』という物語絵に依存しているのは明らかであるが、『浜松』以前に、そうした物語絵が存在したことは、きわめて注目される。そしてここだけでは、それが単なる唐土を舞台にした物語か、渡唐物語かわからないが、『狭衣物語』巻二では、狭衣が、「もし唐国の中納言のやうに、子持ち
聖やまうけむと、我ながらまれまれひとり笑みせられたまひけり」(深川本)と述懐している。『浜松』の尼姫君は「子持ち聖」であるとも言えるので、いささか紛らわしいが「唐国の中納言」(『狭衣』流布本では「唐国の中将」)が、『浜松』を指すともにわかに思われないとすれば、『浜松』は、この『唐国』物語に筋書まで影響を受けたことになる。
似た話はあるものなのであろうか。『浜松』の中納言が、亡父の転生した幼い唐土の皇子に対面すると、相手が自分をよく知っていたという場面は、当時でもかなり
希有な設定であるが、『今昔物語集』巻一七ノ三八が伝える話は、かの寂照が入宋した時の体験である。寂照は、清水寺別当の学僧
清範と在俗時より親交を深め、出家して以降ますます敬愛するに至ったが、ある時清範が念珠(数珠)を一つ寂照に与えたという。以下は原文を示すことにしよう。「
其ノ
後、清範律師
死テ四五年ヲ
経ケル間ニ、入道寂照ハ
震旦(中国)ニ
渡ニケリ。
彼ノ清範律師ノ与ヘタリシ念珠ヲ
持テ、寂照、震旦ノ天皇ノ御
許ニ
参タリケルニ、四五歳
許ナル
皇子走リ
出タリ。寂照ヲ
打見テ
宣ハク、『其ノ念珠ハ
未ダ失ハズシテ
持タリケリナ』ト、
此ノ国ノ
言(日本語)ニテ
有リ。寂照此レヲ
聞テ、
奇異也ト
思テ、
答テ
云ク、『
此ハ
何ニ
仰セ
給フ事ゾ』ト。皇子ノ宣ハク、『□
有テ
其ノ
持タル念珠ハ
自ラガ奉リシ念珠ゾカシ』ト。其ノ時ニ寂照ガ思ハク、『
我ガ
此ク
持タル念珠ハ、清範律師ノ得シメタリシ念珠ゾカシ。
此ノ皇子ハ、
然ハ其ノ律師ノ
生レ給フ』ト心得テ、『
此ハ何ニ
此クテハ
御マシケルゾ』ト問ヒケレバ、皇子ノ宣ハク、『
此ノ国(中国)ニテ
利益スベキ
者共ノ有レバ、
此ク
詣来タルナリ』ト
許答テ、走リ帰リ入リ給ヒニケリ」。そこで寂照は、清範が皆人の言っていたように「文殊の化身」だ、と思うに至るのである。『浜松』のように亡父ではないにせよ、敬慕する亡き法友が、入宋してみたら、皇子に転生していたのである。どこから生れ出た伝承か全くわからないが、基本は渡唐物語にまつわる転生皇子譚と言えるであろう。
奝然や寂照の伝記資料は他に少なしとしないが、正式な国交の途絶えた中で、危険を冒してまで往来する人は余程の因縁がなくてはならない。こうした類似の話も、見ぬ唐土への夢が生み出した
光芒と言うべきであろうか。