古典への招待

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渡唐物語の周辺

第27巻 浜松中納言物語より
『和漢朗詠集』の編者、藤原公任ふじわらのきんとうの家集に次の贈答歌が載っている。
 三河みかは入道にふだうの唐に渡る門出を白河しらかはにしたりけるに、やり給ひける
わが宿にやどる門出のく末は旅寝たびねごとにも忘れざらなむ
 返し
おとに聞く黄河くわうがの水はかへるとも白河の名をいつか忘れむ
「三河の入道」とは法名寂照じやくしよう、「白河」とは洛東らくとうにあった公任の山荘であるが、公任が、異国に行ってもここを忘れないでいてほしいと言ったのに対し、寂照は、たとえ、かの有名な黄河が逆流しようとも、あなたをどうして忘れようかと、白河とは色違いの黄河を持ち出して洒落しやれたのである。お互いにくつろいだ親交の深さがしのばれる。実際、寂照が肥前国ひぜんのくによりって日本を離れたのは、長保ちようほう五年(一〇〇三)秋のことであった。
 寂照は根っからの僧侶そうりよではない。俗名大江定基おおえのさだもと、参議斉光としみつの三男であるが、大江氏は、当時最も重んじられていた学問、文章道もんじようどう(漢学)の分野では菅原氏と双璧そうへきをなす名家なので、定基も大学寮だいがくりように進み、才能にも恵まれて、文章もんじようのしょうよりさらにごく少数が選ばれる方略ほうりやくという試験に及第すると、「秀才」とも呼ばれる文章得業生とくごうしようになった。その後、天皇に近侍する蔵人くろうど補任ぶにんされ、やがて国守になっていく経歴は、『更級さらしな日記』作者の父、菅原孝標すがわらのたかすえとよく似ているが、公任とは従兄弟いとこになる藤原実資さねすけは、定基が昇殿を許された円融天皇天元てんげん五年(九八二)一月十日の『小右記しようゆうき』に、「六位ノ蔵人ハその数多シト雖モいへど、秀才大江定基ハレ二代ノ侍読じどくノ子孫ナリ」と感慨を特記している。「二代ノ侍読」とは「江納言ごうなごん」と称され、醍醐だいご・村上天皇の侍読(学問の師)をつとめて中納言にまで至った定基の祖父大江維時これときのことで、この蔵人在任中に、定基が侍従であった公任と、儀式などで同じ役回りをしていたのは、同記五月八日の条でも知ることができる。
 ところが、ついで三河守となって京を離れた定基は、任地で愛妾あいしょうの死に遭い、悲嘆のあまり無常を痛感して出家してしまったというのである。出家の年次は『尊卑分脈』では寛和かんな二年(九八六)六月、『百錬抄ひゃくれんしよう』では永延えいえん二年(九八八)四月と伝え、『源道済みちなり集』詞書によると、女と死別した慟哭どうこくの思いは、本人が「書き置いたりし草子さうし」に作って人に見せたほどとあるので、寂照の発心譚ほつしんたんは、その後さまざまな説話を生み出すことになるのだが、当時、大江氏ただひとりの公卿くぎようであった父斉光が、この推定年次に近い永延元年十一月、五十四歳で亡くなっている。定基には、当然大きな打撃であったにちがいないので、これも、出家の要因として忘れてはならないであろう。以来十数年、寂照と名を改めた定基は、出家の師であった寂心(高名な漢詩人慶滋保胤よししげのやすたね)亡きあとの京、東山の如意輪寺によいりんじに住し、叡山横川えいざんよかわ源信げんしん、醍醐寺の仁海にんかい播磨書写山はりましよしやざん性空しようくうたちとも親交を結ぶ学僧として、人々の信仰さえ集めていた。だから、ひとり日本に残す母親のために山崎の宝寺たからでらで催した法華八講ほつけはつこうは京中の大変な騒ぎになって、一門の後裔こうえい、大江匡房まさふさが著した『続本朝往生伝』では、「コノ日出家セシ者五百余人(婦女ニ至リテハ車ヨリ髪ヲ切リテ講師ニ与ヘタリ云々トイフ)、四面(垣)ヲ成セリ。聴聞ノ衆、涕泣カザルモノナシ」と、この日の模様を伝えている。日本にいるうち、寂照の手で受戒したいと願う者のいかに多かったかが知られ、事実、翌年八月に海を渡った寂照は、その後、日本に宋版の『白氏文集はくしぶんしゆう』などさまざまな文物をもたらしつつも、ついに帰国することがなかった。信望あつい人の渡唐は、都では大きな事件だったのである。
 ところで、先の『公任集』所収歌詞書に、寂照が「唐に渡る」とあるが、唐は滅亡して久しく、宋が建国されてからでもすでに四十数年を経過している。菅原道真の上表により、寛平かんぴよう六年(八九四)に遣唐使が廃止されて以来、文化交流が宋人の商船によって辛うじて保たれていた状況を反映してか、勅撰集入集歌詞書に見ても、「寂照がもろこしにまかり渡るとて」(『拾遺集』公任)、「入唐しはべりける道より、源信がもとに」(『後拾遺集』寂昭)とあり、寂照より七十年近く後に入宋した成尋じようじん関連歌でも「成尋法師入唐しはべりける時」(『千載集』成尋母)、「成尋法師入唐しはべりけるに」(『新古今集』成尋母)と同じで、わずかに『新勅撰集』成尋母の歌に「成尋、宋朝に渡りはべりにけるを嘆きてよみはべりける」とあるのにすぎない。漢詩文でこそ寂照の従兄弟に当たる大江匡衡まさひらの作品にも「大宋国」と繰り返し見えるが、国名の「とう」と「唐土もろこし」とは、和文では長く命脈を保ち続けたのである。また、勅撰集詞書のほとんどが「寂照」を「寂昭」とし、『御堂みどう関白記』などの記録類が、一部「寂昭」とするので、そう書かれもしたらしいが、青蓮院しようれんいん文書に残る自署には「寂照」とあり、近くは一九七四年夏、中国蘇州濂渓坊そしゆうれんけいぼうより出土したみん代の石碑(蘇州碑刻博物館蔵)「普門禅寺記」には、宋代に止住しじゆうした「日本僧寂照」の消息が刻まれているという。
 一方、日本人の渡唐物語である『浜松中納言物語』巻一は、主人公一行が無事唐土もろこしに到着したところより始まる。みな都を目指して進むが、「峰高く谷深く、はげしきことかぎりなし」と描写される華山かざんにさしかかった時に、中納言が、「蒼波路遠さうはみちとほ雲千里くもせんり」と感慨をこめて吟詠すると、「御供にわたる博士はかせども、涙を流して」、続きを、「白霧山深はくぶやまふか鳥一声とりひとこゑ」と添えたという。『和漢朗詠集』巻下、行旅に載る一れんで、村上天皇に仕えた文章博士、たちばなの直幹なおもと作とあり、群書類従本によると、石山寺での詠と伝えている。『浜松』では一行が華山に至る三日前、杭州こうしゆうに泊っていて、中納言は「石山の折の近江あふみの海思ひでられて、あはれに恋しきことかぎりなし」とあったというから、華山での朗詠もこれを遙曳ようえいしているのであろう。「石山の折」とは現存本『浜松』に記述はないが、巻一の前にあって散逸した首巻(「解説」および「散逸首巻の梗概」参照)に語られていたとおぼしく、中納言が石山詣いしやまもうでをした折に、義妹にあたる大将の大君おおいぎみ(後の尼姫君)と、琵琶湖びわこの湖面に二人の影を映した記憶がよみがえったというのである。杭州と聞いて琵琶湖を連想するのには杭州の実景に接する必要はない。やや後代になるが、『元久二年(一二〇五)詩歌合』「水郷春望」の題で左大弁親経さだいべんちかつねが、「風ハ緑ナリ、杭州春柳ノ岸、煙ハ青シ、呉郡暮江ノ松」と詠んだのに対し、後鳥羽院が、「志賀しがの浦のおぼろ月夜の名残とてくもりも果てぬあけぼのの空」と和したのもその例であろう。「蒼波路遠し雲千里」は、はるばると海を渡って来た中納言の感慨と重なるものがあり、「白霧山深し鳥一声」は、まさに華山を越えようとする時の心象と合致したとするのであろうが、この橘直幹作と伝える詩に、大江匡房の談話を筆録したという『江談抄ごうだんしよう』は、「奝然てうねん入唐シ、くだんノ句ヲもつおのれノ作トフ。『雲』ヲ以テ『霞』トシ、『鳥』ヲ以テ『虫』ト為ス。唐人たうひと称ヒテいはク、『佳句トヒツベシ。恐ルラクハ「雲」「鳥」ト作ルベシ』ト」と、随分悪意に満ちた発言をしている。人の詩を自作と見せかけるのに、奝然ちようねんが「雲千里」を「霞千里」、「鳥一声」を「虫一声」と言い換えたところ、唐人に見破られたというのである。『和漢朗詠集』古抄本の注記にも見えるので、匡房以前に捏造ねつぞうされた話かもしれないが、むしろ本来は、日本人が作った漢詩を唐人が賞讃したとする点に眼目があったのではないかと思う。日本人の詩文を褒めるのに、唐人が絶讃したという以上の褒め言葉はないからであり、現に『浜松』の中納言は、渡唐して何度も詩文を披露したが、当地の人でこれにまさる者はいなかったと繰り返すのである。
 寂照は日本に戻らなかったが、奝然は寂照(定基)が蔵人に補任された年の翌永観えいかん元年(九八三)八月、日本をって入宋し、三年後の寛和二年八月、大宰府に帰着した。『浜松』の中納言が三年後に帰国したのは巻一を読むことでもわかるが、散逸首巻にも三年間の出国を願い出たと記述されていたであろうことは、巻一に「三年がいとまを申して渡りまうで来たるなり」「『三年がうちに行き帰るべし』と暇申してしほどにもなりぬ」とあるのでわかる。そして、これが奝然の三年とかならずしも無関係でないのは、奝然が往路・復路とも宋人の商船に便乗し、それは当時の制度として、宋船の往来が原則三年に一度と定められているのに由来するからなのであろう。たとえ渡唐する者、帰朝する者の騒ぎがなくとも、大宰府を通じて三年おきにもたらされる異国の文物は、都の話題をさらったのである。奝然が入京したのは、帰国した翌年の永延元年二月十一日、宋の太宗より下賜された『大蔵経』数千巻や、渡来の仏像を担う人々とともに、音楽入りで朱雀大路すざくおおじを北上した奝然らの行列が、いかに都人士をにぎわせたかは、当日の『小右記』に克明に記されている。
 奝然や寂照が入宋した目的は、聖地、五台山ごだいさん(清涼山)や天台山てんだいさんへの巡礼であるが、それぞれ宋都の開封にも赴いて、奝然は太宗に、寂照は真宗に拝謁した。両人とも「華言」(中国語)は不十分だったので、もっぱら漢文の筆談で対話したが、奝然は、日本がいかにすぐれた国かを述べ立てたといい、寂照は、王羲之おうぎしの書風を見事に書いたので、並みいる唐土の人たちも驚嘆したという。そして『浜松』の中納言は、亡き父式部卿宮しきぶきようのみやが、唐土の第三皇子に転生しているとの伝聞や夢告げを得たので、渡唐した。いくら物語であるとはいえ、朝廷にどう切り出して出国の勅許が出たのか、散逸した首巻を是非にも読みたくなるが、中納言たちが函谷かんこくの関に到着すると、「この関に御迎への人々参りたり。そのありさまども、唐国からくにといふ物語に絵にしるしたる同じことなり」とある。唐人たちの歓迎風景描写を回避して、当時あった『唐国』という物語絵に依存しているのは明らかであるが、『浜松』以前に、そうした物語絵が存在したことは、きわめて注目される。そしてここだけでは、それが単なる唐土を舞台にした物語か、渡唐物語かわからないが、『狭衣物語』巻二では、狭衣が、「もし唐国の中納言のやうに、子持ちひじりやまうけむと、我ながらまれまれひとり笑みせられたまひけり」(深川本)と述懐している。『浜松』の尼姫君は「子持ち聖」であるとも言えるので、いささか紛らわしいが「唐国の中納言」(『狭衣』流布本では「唐国の中将」)が、『浜松』を指すともにわかに思われないとすれば、『浜松』は、この『唐国』物語に筋書まで影響を受けたことになる。
 似た話はあるものなのであろうか。『浜松』の中納言が、亡父の転生した幼い唐土の皇子に対面すると、相手が自分をよく知っていたという場面は、当時でもかなり希有けうな設定であるが、『今昔物語集』巻一七ノ三八が伝える話は、かの寂照が入宋した時の体験である。寂照は、清水寺別当の学僧清範しようはんと在俗時より親交を深め、出家して以降ますます敬愛するに至ったが、ある時清範が念珠(数珠)を一つ寂照に与えたという。以下は原文を示すことにしよう。「のち、清範律師しにテ四五年ヲケル間ニ、入道寂照ハ震旦しんだん(中国)ニわたりニケリ。ノ清範律師ノ与ヘタリシ念珠ヲもちテ、寂照、震旦ノ天皇ノ御もとまゐりタリケルニ、四五歳ばかりナル皇子みこ走リいでタリ。寂照ヲ打見うちみのたまハク、『其ノ念珠ハいまダ失ハズシテもちタリケリナ』ト、ノ国ノこと(日本語)ニテリ。寂照此レヲききテ、奇異也きいなりおもひテ、こたへいはク、『いかおほたまフ事ゾ』ト。皇子ノ宣ハク、『□ありそこもちタル念珠ハみづかラガ奉リシ念珠ゾカシ』ト。其ノ時ニ寂照ガ思ハク、『もちタル念珠ハ、清範律師ノ得シメタリシ念珠ゾカシ。ノ皇子ハ、ハ其ノ律師ノむまレ給フ』ト心得テ、『ハ何ニクテハおはしマシケルゾ』ト問ヒケレバ、皇子ノ宣ハク、『ノ国(中国)ニテ利益りやくスベキ者共ものどもノ有レバ、詣来まうできタルナリ』ト許答ばかりこたへテ、走リ帰リ入リ給ヒニケリ」。そこで寂照は、清範が皆人の言っていたように「文殊の化身」だ、と思うに至るのである。『浜松』のように亡父ではないにせよ、敬慕する亡き法友が、入宋してみたら、皇子に転生していたのである。どこから生れ出た伝承か全くわからないが、基本は渡唐物語にまつわる転生皇子譚と言えるであろう。
 奝然や寂照の伝記資料は他に少なしとしないが、正式な国交の途絶えた中で、危険を冒してまで往来する人は余程の因縁がなくてはならない。こうした類似の話も、見ぬ唐土への夢が生み出した光芒こうぼうと言うべきであろうか。
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