古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

『十訓抄』の魅力

第51巻 十訓抄より
黒いカラスは白いカラス?
屋根の上に、二羽の黒いカラスが止まっていたとしよう。それを見たある人が、
「あそこにカラスがいるが、どうも一羽は頭が白いようだ。違うかな」
と聞いてきた。即座にこう答える。
「いえいえ、二羽とも黒いカラスですよ。見間違いですよ。よくごらんください」
と答える。これは失格。あるべき答え方は、しばし見つめて、
「おっしゃる通りでございます…」
 これが『十訓抄』おすすめの答えなのである。事実は無論、二羽の黒いカラス。これをなぜ、「おっしゃる通りでございます」と答えることが、良いのか。『十訓抄』編者は、どうしてこのような答え方を推奨するのか。この教訓の奥にはどのような事情があるのか。こうした結論に至った編者の心の内奥を知る必要がある。
 原文では、こう述べられる。聞いた人は六条右大臣 源 顕房ろくじようのうだいじんみなもとのあきふさ、答えた人物は「左右さうなききり者」(平家物語・巻一)と評される、藤原盛重ふじわらのもりしげである。顕房は日ごろ召し使う盛重に向い、
あるつとめて、手水てうづ持ちてまゐりたりける、仰おほせに、「かの車宿くるまやどりむねに、からす二つたるが、一つの烏、頭の白きと見ゆるは、僻事ひがことか」と、なきことをつくりて、問ひ給ひけるに、つくづくとまぼりて、「しかさまに候ふ、と見給ふ」と申しければ、「いかにもうるせき者なり。世にあらむずる者なり」とて、白河院しらかはゐんまゐらせられけるとぞ(一ノ四十一話)。
顕房は、盛重の心のほどをはかろうとして、わざわざうそのことを聞いた。嘘を嘘と答えれば、それで終り。嘘を聞かれても、それを逆に事実と答える方がずっと手強く、おそろしい。盛重という人物はまさにそうした豪胆な人物であったのである。
「白い烏」といえば、有名な中国の故事である。中国、戦国時代、えんの太子たんしんの人質となっていた。秦王がある時、「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら、帰国を許してやろう」と言ったため、丹は絶望して、天を仰いだ。すると本当に、頭の白い烏があらわれ、馬には角が生えてきたのだった。
「烏頭白くして、馬角を生ず(史記・刺客列伝)」として知られることわざで、ありえないことをいうたとえである。顕房の発問が、この故事にちなむものかはわからない。また、問いかけられた盛重が、これを想起したかどうかも不明である。しかし、「きり者(主君に寵愛されて、権勢のある人)」とうわさされる盛重であれば、顕房のなぞかけに瞬時、この故事を思い浮べた可能性も否定できない。沈着で冷静、かつ大胆といった資質を同時に持っていたといわれる盛重であれば、なおさらであろう。
 顕房の嘘の問いかけに、「嘘です」とはもちろん言わない。また逆に、即座に「その通りです」とも言わない。主君の間違った言葉を前に、時も置かずに「そうです。そうです」と答えれば、それは阿諛あゆでしかない。盛重は嘘とわかりながらも、しばし間を置き、「つくづくとまぼりて」、「その通りでございます」と答えを返す。盛重は暫時ざんじ、顕房の謎かけの意味をはかったのであろう。あるいは、量るふりをしてをとっていたのかも知れない。こうした思慮深さというものが、『十訓抄』の編者は大好きであった。「周防すはうの国の百姓ひやくしやうの子」に生れ、顕房の近習を務め、古代の専制的な君主、白河院の寵臣ちようしんにまでなったには、やはり相応のわけがあったのである。
桃か、桜か
盛重の振舞は受けこたえのお手本のような話であるが、次に紹介する話はその逆の失敗談である。『十訓抄』一ノ四十話に載る話で、盛重の話の直前に配されている。
 高陽院かやのいん藤原泰子たいし正親町殿おおぎまちどのの御所の御車寄せには、大きなツバイモモ(椿桃)の木があった。徳大寺左大臣とくだいじのさだいじんの藤原実能公さねよしこうが参上され、取次を頼まれた。実能公はふと庭の大木を御覧になり、取次の蔵人くろうどに向い、
「この木は、桜か」
と尋ねられたのだった。蔵人はすぐさま、
「桃の木にて候ふ」
とお返事申し上げたところ、実能公は、「では、今度は、さおを持参して、おうかがいしようかな」とおっしゃられ、笑っておられた、という話である。お返事申し上げた蔵人も、そんな応対をしてしまったことを、恥ずかしく思い、のちのちまで後悔したともつけ加えられる。『十訓抄』編者の評価も、
かくのごときこと、ただうち聞くが、ひがみたるのみにあらず。すべて心のすくなきほども、おしはからるるなり
というもので、言葉の意味を誤解しただけではなく、心遣いの不足、配慮の足りなさを批判する。
 徳大寺実能が桃を桜と本当に見誤ったかどうかはわからない。前話のごとき、カラスの黒、白とはわけが違い、桃か桜かは素人目には、やや判別しにくいともいえよう。また、六条顕房よろしく、実能は桃と知りつつ、あえて、「桜か」といった可能性もある。もし、そうだとしたら、実能の言葉の謎はなかなか難しい。
 梅や桜とくらべて、和歌には桃はあまり登場してこない。そんななか、『後拾遺集』にこんな歌が載っている。
 隣より三月三日に、人の桃の花をひたるに   大江嘉言おほえのよしとき
桃の花宿に立てればあるじさへすけるものとや人の見るらむ
桃の実がっぱいところから、桃があれば、「すけるもの」、すなわち主人の私まで好き者、好色家と人は見ているようだ、というのが、歌意の大略であろう。『後拾遺集』巻二十に載る「俳諧はいかい歌」の一首であるが、どうも、「桃」「好色」「色好み」は一つの連想であったようだ。
 考えてみると、大きな桃の木のある正親町殿に住んでいた高陽院泰子は、「あまりに男遠をとこどほ」い人と知られていた。『十訓抄』八ノ三話によれば、
高陽院の御さまは、あまりに男遠くて、男女ならびたるかけるあふぎをば、捨てられなど
といわれる。男女の並び居る絵の扇さえも、「けがらわしい」と言って捨てさせるほどの高陽院の潔癖性は、『十訓抄』の編者ならずとも、「世づかぬ」(世慣れていない)と思うのは当然であったかも知れない。そんな彼女には、桃の木は似合わない。好色ぶりを表象するような桃はふさわしくない。そこで、徳大寺実能はあえて、「桜か」と言ってみせたとも取りうるのである。
 高陽院泰子の父は、関白藤原忠実ただざね。もともと泰子が十四歳頃の時、白河院から、鳥羽天皇とばてんのうの後宮に入ることが指示されたのだが、白河院の女性関係を忠実は危惧きぐしたのか、それを固辞したのであった。後年、白河院没後に、泰子は鳥羽上皇の女御として入内じゆだいすることになるが、彼女はすでに四十歳になんなんとしていた。周知の通り、鳥羽上皇の後宮には、待賢門院たいけんもんいん藤原璋子しようしがいたし、泰子の入侍の直後には美福門院びふくもんいん藤原得子とくしが入内してくる。泰子を取り巻く後宮の環境には、きわめて厳しいものがあったのである。
 ほかでもない、待賢門院璋子は噂の絶えない女性でもあった。そして、「桃」をさして「桜か」と尋ねた実能その人は、この璋子の兄である。もし、実能が、「桃」と知りながら、あえて「桜」と言ったとすれば、俄然、実能の言葉は、「男遠」い泰子への強烈な皮肉となって聞えてくる。「好色の木」、「桃」は泰子に似合わない。だから、「桜」であるはずだ、ということか。
 こんな悪意や皮肉の中に生きていかねばならなかった高陽院泰子は、後宮生活こそ不仕合せであったかも知れないが(彼女は皇子女を生んだ気配はない)、聡明そうめいさと穏やかな人柄をもって知られ、平安末期の困難な政界において、貴重な調停役を果たしていたともいわれる。大切に養育していた養女の死にあっても、嘆きかなしむさまは決して人に見せなかったという。そんな彼女を、『十訓抄』編者は見逃すはずはなく、
深く昔びたらむかたは、いみじきためしと申すべし(八ノ三話)
と、その振舞を褒めたたえる。よくはわからないが、男女の絵の扇を捨てさせ、「男遠」いと評されたのも、ひょっとして、自らの生き方として、泰子自身が考え出した智恵であったのかも知れない。この話を収める『十訓抄』第八の教訓は、「諸事を堪忍かんにんすべき事」である。
『十訓抄』から『徒然草』へ
「桃」を「桜か」と聞いた徳大寺実能の真意のほどは、依然としてはかりかねるが、躊躇ちゆうちよもなく「桃です」と答えた蔵人の浅慮は、やはりとがめられてしかるべきであろう。主人の高陽院泰子が、あれほど沈着で、思慮深さを持っていたにもかかわらず、近侍する蔵人は軽率のそしりをまぬがれ得ない。よく考えもせず、たちどころに受け応えすることほど、愚かなことはないのである。
『十訓抄』よりおよそ数十年の開きがあるが、のちの『徒然草』には、こんな言葉が載っている。
大方おほかたは、知りたることも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、あやまりもありぬべし。「さだかにもわきまへ知らず」など言ひたるは、まことに、道のあるじとも覚えぬべし(一六八段)。
大体において、知っていること、わかっていることだからといって、勢い込んでしゃべりまくるのは感心できない。そんなのを見ていると、それほどの才能もないのではないかと思われてくるし、間違いだってあろう。むしろ、人に何かを尋ねられても、「いや、よくわかりませんなあ」などと答えてくれる人の方が、本当の名人、大家と思われるというのである。『徒然草』の兼好も、軽はずみに受け応え、しゃべりまくる人を、心底、嫌っていたようだ。知っているからといって、得意気に言い散らすのは「良からぬ人」の常態なのである。知っていても、知らぬと言え。わかっていても、忘れたと答える方が、ずっと奥深いというのである。
『十訓抄』十ノ六十話に、こんな話が載っている。音楽家源基綱もとつなの孫娘に、尾張おわりという小女こおんながいた。基綱は、彼女に琵琶びわの秘曲、秘事を残るところなく伝えて、死んでいった。のちに尾張は待賢門院の御所に仕え、年をとってからは尼となり、大原にんだ。そんな彼女を二条院は琵琶の師として、召し出そうとしたのだが、尾張は、「もう忘れてしまいましたので」と言って、謝絶してきたというのである。
 兼好おすすめの応対の見本のような話で、あるいは、この尾張の話など、ひょっとすると、『徒然草』のヒントとなっていたのかも知れない。というのも、『十訓抄』と『徒然草』は、ほかにも類似点が少なくなく、兼好は、『徒然草』執筆にあたって、『十訓抄』を参看した節もあるからなのである。それはともかく、この話に限っても、両者は類同しているわけで、『十訓抄』の是とするものと、『徒然草』の是とするものは共通する。
「白いカラスがいるようだが……」
と聞かれて、しばらく目をやり、おもむろに、
「おっしゃる通りでございます」
という答えは、兼好の推奨する答えでもあったろう。『十訓抄』の教訓、思想的態度は、『徒然草』などをはじめ、広く中世全体に受容されていった。こんなところが、現代にも読みつがれる『十訓抄』の魅力ともいえるかも知れない。
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