古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

浄瑠璃から文楽へ

第76巻 近松門左衛門集(3)より
 今日、私たちは人形浄瑠璃芝居を文楽と称し、「文楽を見に行く」と言う。しかし、昭和三十年頃までは大阪の年配の人は「浄瑠璃じよろりを聴きに行く」と言っていた。浄瑠璃は聴くものであったのである。
 ところで、人形浄瑠璃芝居を「文楽」と呼ぶようになったのは、正確な年代は不明であるが、大正時代以後のこととされる。「人形浄瑠璃」という呼び名さえ明治以降のことであり、それまでは「浄瑠璃操り」、または、「操り」と呼び習わされてきた。文楽はもともと淡路の人、植村文楽軒(二代目)が文化八年(一八一一)に大阪博労町ばくろうちよう難波なんば神社、通称博労稲荷社(大阪市中央区)の宮地芝居に浄瑠璃操りを興行したのに由来する。
 この文楽軒の芝居は明治五年(一八七二)、五代目文楽軒の時に稲荷社から松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。文楽座はやがて明治四十二年に松竹合名会社に譲渡され、他の人形浄瑠璃の一座が衰退していく中で、松竹の経営によって御霊文楽座(明治四十二年四月~大正十五年〈一九二六〉十一月)、四つ橋文楽座(昭和五年〈一九三〇〉末~昭和三十年末)と劇場の場所は移っても、文楽の名はそのまま残して興行が続けられたため、人形浄瑠璃芝居へ行く、即ち、文楽座へ行くとなり、その代名詞として文楽は用いられるようになる。
 昭和三十一年には文楽座の名も消え、道頓堀の朝日座が文楽公演の劇場となるが、昭和五十九年三月二十日に大阪日本橋に国立文楽劇場が開場され、人形浄瑠璃は伝統芸能として文楽の名で国の管理保護を受けることとなる。
 浄瑠璃は聴くものであるというのは浄瑠璃がその発生よりして語り物であるからである。浄瑠璃とは、実は、『浄瑠璃姫物語』という語り物の主人公「浄瑠璃姫」の名から出ているのである。
 三河国矢作やはぎ宿しゆくの長者には子供が無く、鳳来寺ほうらいじの峰の薬師に子供を授けてくれるようにと祈願する。授かった子に長者夫婦は薬師如来の浄土、浄瑠璃世界にちなんで浄瑠璃姫と名付ける。姫が十五歳になった頃、金売り吉次きちじに伴われた牛若丸(御曹司おんぞうし)が奥州下りの途次、矢作の宿に泊る。散歩に出た御曹司は浄瑠璃姫の御殿に行き当り、折から聞こえてきた屋敷内での管絃かんげんに合せて得意の笛を吹く。笛の主を見に出た侍女たちから御曹司のことが姫に伝えられ、呼び入れられる。御曹司は浄瑠璃姫の姿を垣間かいま見て、一度は屋敷を出るが、夜に姫のもとへ忍んで行く。姫と御曹司との間で大和詞やまとことばという謎詞などが交され、御曹司をただ人でないと知った姫は御曹司と一夜の契りを交す。きぬぎぬの別れとなり、御曹司は吉次と共に奥州へと出発する。
 吹上ふきあげの宿で御曹司は病にすが、吉次は御曹司を宿の者に頼み、先を急ぎ旅立っていく。残された御曹司は吹上の浜に移され、看病する者も無く、明日の命も知れない身となる。源氏の氏神正八幡の加護で、浄瑠璃姫に御曹司の病が知らされ、姫の看護で御曹司は回復する。御曹司は奥州藤原氏のもとへ、姫は矢作へと帰る。矢作に戻った姫は旅の者と契ったことが母に知られ、笹谷に閉じ込められる。姫は御曹司の帰りを三年の間待ち焦れ、ついに病死する。御曹司はやがて軍勢を催し、上洛じようらくの途中に矢作に立ち寄る。姫の死を知って笹谷の墓に詣でると、墓の五輪が砕け、姫の成仏が遂げられる。
 上記が部分的な話の出入りと物語を構成する段数の違いを持ちながら、絵巻や草子に描かれた『浄瑠璃姫物語』の粗筋である。この話は矢作地方の民間説話が義経伝説と結びついて、『実隆さねたか公記こうき』の紙背に載る絵詞えことば草案から、文明六年(一四七四)頃には語り物として流布し始めていたようである。当初、座頭(琵琶びわそう、三味線などを弾き、また、語り物を語るなどした剃髪ていはつの盲人の称)が扇拍子で語っていたこの物語は、やがて、天正中頃(一五八〇頃)に流行はやり始めた三味線を合いの手に使うようになる。さらに、伝承では文禄頃(一五九二~九五)に滝野・沢角さわかど勾当こうとうによって節付けされ、『十二段草子』の名で広められたとする。そして、慶長十八年(一六一三)には浄瑠璃太夫の受領(朝廷から名誉称号としての官職の位階を受けること。かみすけじようさかんの四種がある)が天下一若狭守わかさのかみ藤原吉次に与えられており、また、慶長末年(一六一四)に西宮の夷舁えびすかきの人形操りと組み、浄瑠璃操りが誕生したとされる(山路興造「浄瑠璃の誕生と古浄瑠璃」、『岩波講座 歌舞伎・文楽』第七巻所収)
 人形操りについては、早く、大江匡房おおえのまさふさ(一〇四一~一一一一)の『傀儡子記かいらいしき』に人形も操る雑芸集団の傀儡子が伝えられているが、室町期には手くぐつ、安土・桃山期には夷舁きの名で人形を操る人たちの活動が諸記録に書き留められている。本来、別系統の芸能であった浄瑠璃語りと人形操りが結びついたことは画期的なことであるが、そこには近世初期の革新的な息吹が都市芸能としての新しさと発展を希求していたからであろう。
 都市芸能は常小屋を構えているため、都市に集中する人口を観客として呼び集めなければならない。また、他の芸能とも競合する中で観客を集めるためには出し物にも工夫が求められる。京都の四条河原はそうした庶民のための芸能が集中する歓楽地であり、浄瑠璃操りもそうした中の一つであった。
六字南無右衛門といへる女太夫かたりけるとき、十二段ばかりは、はや人の聞きふれて、めづらしからざるとて、舞にまふやしま、たかだち、そがなどを、彼のふし(浄瑠璃節)にかたりける故、上るりぶしに、やしまをかたる、高だちを語ると云てより、おのづからその名になりたると也。
(貞享四年〈一六八七〉刊『故郷帰こきようがえり江戸咄えどばなし』)
 六字南無右衛門には寛永十六年(一六三九)刊の浄瑠璃正本「やしま」の存在が知られているが、浄瑠璃がその演目を広げていき、見物の気を引き付けようと努力している様子が伝わる。また、浄瑠璃が『十二段草子』(浄瑠璃姫物語)そのものの名称から、この節で語られる語り物の呼称へとなっていった様子もうかがえる。
 寛永期(一六二四~四四)には、南無右衛門以外の太夫たゆうからも浄瑠璃正本が刊行されており、京都や江戸において若狭守・薩摩さつま太夫などが活躍した時期であった。そして、その後明暦・万治(一六五五~一六六〇)には多くの太夫が輩出し、江戸下りや上洛をなしてその技量を競い合うのであった(安田富貴子「明暦万治頃の京都」、『古浄瑠璃 ――太夫の受領とその時代』所収)
 浄瑠璃は『浄瑠璃姫物語』から始まり、その演劇的な発展の中で多くの作品が作られていくが、当初は平曲や謡曲、舞曲といったそれ以前の語り物、物語や奈良絵本といった先行作品をほぼそのまま借りて、舞台にかかるように一部分を改変するといった程度の作が多かった。しかし、正本が刊行され、読み物としても楽しまれるようにもなると、舞台における太夫たちの芸とは別に作の内容自体も注目されるようになる。
 そうした中で、体制の中にありながら我意を無理に通すね者的な意地っ張り、坂田金時の子金平きんぴらを主人公とする金平浄瑠璃は、江戸和泉太夫の活躍もあるが、従前にない新鮮さによって、明暦から貞享(一六八四~八七)期にかけ江戸・京阪ともに流行する。金平浄瑠璃の作者、岡清兵衛について、『故郷帰の江戸咄』は、
和泉太夫が浄瑠理は岡清兵衛と云もの作る。(中略)かの金平作りの清兵衛は、生れつき才発にして、物覚つよく、太平記、盛衰記、あづまかゞみなどをそらにおぼえ、儒釈歌道をも少づゝはこころみれば、古事来歴を引く事得もの也とかや。
と評判している。浄瑠璃に専属の作者が現れてきたのである。
 作者の登場は、金平浄瑠璃には「新参と譜代との争い」「人物か家柄か、近世武家社会が中世の御家人制の遺風から脱皮して、新しい体制に適応した実力主義をとろうとする際の、矛盾対立が生む殺戮さつりくと陰謀」といった、作者の意図のほどはともかく、近世武家社会のもつ現実的な問題が作の中に現れている(室木弥太郎「金平浄瑠璃と和泉太夫」、『語り物の研究』所収)と、指摘されるように、作者の創作意欲と演者の意気込みとによって浄瑠璃自体に新しさを持ち込んでくれるものである。
 和泉太夫の金平浄瑠璃は上方にも多くの影響を与えるが、その一人に大阪の井上播磨掾はりまのじようがいる。播磨掾は、また、京阪の浄瑠璃太夫に多くの影響を与えるが、その芸風を学んだのがきよ水理兵衛みずりへえであり、その弟子が清水利太夫、後の竹本義太夫である。この竹本義太夫と近松門左衛門の提携によって生み出されていった浄瑠璃を新浄瑠璃、それ以前の浄瑠璃を古浄瑠璃として浄瑠璃史上区別されるのも、作者近松門左衛門の働きが大であったことは、近松の浄瑠璃を「近代の上るり」(貞享四年正月刊『野郎立役舞台大鏡やろうたちやくぶたいおおかがみ』)と評するところからもうかがえる。
 近松が作者としてどのような働きをしたかは、本集(2)の「古典への招待/近松の浄るり本を百冊よむ時は習はずして三教の道に悟りを開く」に説かれているが、近松は、また、その名文と多彩な作品から後世の作者達からは「作者の氏神」とも称された。しかし、近松以後は浄瑠璃操りが情緒的な語りよりも変化に富んだ展開を舞台に見せることが主眼となった結果、「近比ちかごろある人の説に、あやつりを見やうならば今のしばゐにしくはなく、本を読みてたのしむは、中古近松が作にしくはなし、といはれしごとく、とても文句のうへでは今時は人のなぐさみになる程の事なければ、太夫衆の音曲とあやつりの色どりにて、評判をたのむも一手だてといふべきか。しかれば、場所により趣向もさらりが勝なるべし」(元文三年〈一七三八〉正月刊『難波土産』)と言われるように、舞台芸能であれば、当然のことではあるが、浄瑠璃自体が作内容よりも太夫や三味線弾き、人形遣いの芸で評判を得るようになっていく。
 しかし、なおこの時期には、浄瑠璃の三大作『すが原伝授手習鑑わらでんじゆてならいかがみ』(延享三年〈一七四六〉八月)、『義経千本桜』(延享四年十一月)、『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年〈一七四八〉八月)などが作られ、力量ある作者も多くいたが、近松との比較においては、上記のように断じなければならないほど、数人の作者による合作の時代に入っており、作風にも変化が生じていたのである。それは、浄瑠璃誕生以来二百五十年、数多くの太夫が登場し、多くの一流も開かれてきたが、二百五十年の移り変りの中で消えるものは消え、この時期には竹本義太夫の流れである竹本座・豊竹座の両座のみが残り、二座競合の中で舞台でのけんを競い、芸風の伝承と洗練に専心する時代へ移っていたからである。
 この二座も明和二年(一七六五)八月末には豊竹座が、明和四年末には竹本座が退転し、長年続いた義太夫節の拠点は無くなる。こうした状況のもとでは新作への意欲や熱意も薄れて、ますます芸の固定化へと走っていくこととなる。それが浄瑠璃の衰退を導くことであるのは、後世の私たちから見れば至極当然のことではあるが、時代の趨勢すうせいを変えることはできず、現状を維持するためには賢明なあり方であったのであろう。太夫・三味線弾き・人形遣い三者の芸への精進という懸命な努力によって、庶民のための芸能として出発した浄瑠璃操りは絶えることなく、宮地芝居などで興行が続けられ、今日の文楽として伝統芸を守っているのである。(大橋正叔)
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