一休さん
一休さんの名を初めて知って親しみを持つのは、現在でも幼稚園児の頃であろうか。少なくとも小学校の低学年までに、一休さんを知らぬ子供はあるまい。我々の頃は、絵本などで知ったが、今の子供は、それに漫画本やテレビのアニメによる昔話なども加わっていることであろう。もとよりそれは、明敏なトンチ小僧一休さんの機知にあふれたいくつかの短いエピソードを通してのものである。
その中のもっとも著名なエピソードは、
橋と
端とをわざと取り違える
頓智によって、意地悪しようとする
旦那をギャフンと言わせるものであろうか。もちろん、これが禅の名僧一休の小僧時代に実際あったことなのか、それらしく作られた話なのかは分らない。が、この話を最初に文字に定着し、後世に広く伝えることになった本は分っている。本書に収録されている寛文八年(一六六八)刊の『一休ばなし』である。
『一休ばなし』の巻頭には、「いとけなき時より、
常の人にはかはり給ひて、
利根発明」な一休和尚の「いとけなき」折の「利根発明」ぶりを示す四つのエピソードが掲げられる。その二つめがこの話である。
かの旦那、養叟和尚を斎によぶとて、「一休も御供に」と申、かの返報せばやとたくみけるが、入口の門の前に橋ある家なりければ、橋のつめに、高札をかなにて書て立ける。
此はしをわたる事かたくきんぜいなり
と書付ける。養叟「斎の時分よし」とて、一休をめしつれ、かの人の方へ御出あるに、橋の札を御覧じて、「此はしわたらでは内へ入道なし。一休いかに」と有ければ、一休申さるるは、「いや此はしわたることと、かなにて仕たるあいだ、まん中を御渡りあれ」とて、真中をうちわたり、内へ入給へば、かの者出合、「きんぜいの札を見ながら、いかではしわたり給ふぞ」ととがめければ、「いやわれらは、はしはわたらず、真中を渡りける」と仰らるれば、亭主も口をとぢ侍るが、……
以下にも幼少年期の若干の挿話が続くが、それは巻一の最初の部分のみ。『一休ばなし』が子供の読物ならぬ以上、当然ながら、その後は、禅に悟りを開き「よのつねの僧」とは異なった人物として行動する一休の挿話が
列ねられ、名僧、
活仏、さりながら親しみの持てる一休さんが印象深く語られることになる。
『一休ばなし』の一休像
『一休ばなし』は、『狂雲集』などによってうかがえる奇行に富んだ一休の生涯、そこから派生した多数の一休伝承、さらには一休とは無関係であった
咄などを付会して集成したものなることは確実である。どこまでが伝承されていたか、作者はどの程度の創作を加えたか、現在その点を十分には明らかにできないが、本書は、実在の一休を前提としながらも、新たな一休像を生み出した最初の作品、以後、続々と生れる「一休俗伝」の始発点として多大な影響を与えることになる。その一休像とはいかなるものか。
「
世法はいかに」と問われた一休は、
よの中はくふてはこ(糞)してねておきて さてそののちは死ぬるばかりよ
と
詠んだと付会される(巻一の四)が、本書の一休は、聖にして俗、むしろ俗なることによって聖性を確保して
虚仮威しの権威を領略することを常とするから、大小便をはじめ、卑俗・卑小なものに触れる話も多い。
東海道の宿駅
関の地蔵がはじめて作られた時、
開眼の導師を依頼されることになった一休は、関東修行に出る途中だからとそれを引きうける。関の人たちに迎えられ、「けつこう(結構)なる」地蔵の開眼を行うが、
一休つかつかとはしりより、彼地蔵のあたまから、小便をしかけ給ふこと、廬山のたきのごとし。種々の供物もうきになり、ながるるばかりしかけて、「開眼はこれ迄なり」とて、あづまをさしていそがれける。(巻一の六)
関の人々は怒り狂い、関の尼たちは小便を洗い落す。供物も新たに供えるが、地蔵は逆に小便を洗い流した尼たちをくるわせ、「天下の
老和尚一休の
開眼なされしを、なにとてあらひ
落しけるぞ」とお告げをさせる。驚いた関の人たちは一休の跡を追って救いを求めると、一休は古く汚れた六尺の
下帯(ふんどし)を渡し、それを地蔵の首にかけよと言う。人々は、もったいないとは思ったが、前の小便のことを思い起して地蔵の首にかけると、尼たちの物ぐるいはたちまちに治った。一休は、東国修行の帰りにまた関に立ち寄り、下帯をはずして
鐘の緒にかけかえて都に上ったが、それ以来、鐘の緒は六尺に定ったという。
何やらクサイ話だが、世人の忌むもっとも俗なるもの(小便、古下帯)が、一休の物なるがゆえに聖なるものとなり、奇特をあらわす、このような構図は、他の話の場合にも共通するといえるであろう。
一休の行為の多くは破戒・
無慚、普通の人には許されることではない。が、『一休ばなし』の一休は、「
後小松院の二の
宮」(序文)と称される貴種伝承(一休
御落胤説は広く流布、事実ともいわれる)を背景とし、世俗を超絶する禅の高僧というイメージが前提となって造型されている。したがって、そのような貴種の高僧が徹底的に俗に居直ることで脱俗、と同時に反権威の立場で行為して虚仮威しの世界の実相をあらわにすることは、常に免責され賞賛されるのである。しかもそれは、右の話のように、奇特をあらわす場合のみに限られるわけではない。日常的な権威に安住する人々は、一休を時に怒り
嘲笑するが、その意表をつく行為や論理によって逆に嘲笑される。にもかかわらず、一休の行為が「おどけ人」(巻二)的なものなるがゆえに、それを笑って許し、一休を敬愛し親近することになるのである。傍若無人、反権威、俗による超俗、その論理と行為は、一見、世をすねているかのごとくでありながら、それによって尊信・敬愛されるという
羨むべき人物として『一休ばなし』の一休は形象されている。一休の人気を
高からしめる有力な契機となった『一休ばなし』は、
俗伝なるがゆえに魅力的な一休像を開示しえたのである。
『浮世物語』の浮世房
高名な実在人物一休に比して、浮世房を知る人はわずかであるに違いない。それは、
浅井了意作『浮世物語』の中をあまりぱっとすることなく生きている主人公、「おどけ人」的な側面は一休を継承せぬではないが、その人物像はまったくサッソウとしない。了意は、浮世房の生いたちをこんな具合に紹介する。
まず、その出自だが、氏や素姓は不明。父親は武士だったが、「百ぬらりの
嘘つき」で、ごますり上手、それが主君の気に入られて側近となるものの、
賄賂を取ることのみに専念。戦場では人より先に逃げる
臆病者、面目がたたず武士をやめて「
日頃取りたくはへたる金銀」を持って町人となる。この息子が主人公である。
こんな主人公の出自の設定は、貴種なることを
常套とする王朝物語以後の物語(『一休ばなし』もその伝統を継ぐ)の主人公の逆転、パロディーであるが、主人公の「いとけなき」折も一休とは逆、すこぶるサエない。
夜泣きは激しい。親の悪所遊びがたたってか、頭には
甲をかぶったような
腫瘍ができて目の
際までただれる。何とか身体は丈夫になったものの、居合・
柔・兵法などはもとより、手習いなど何をやらせても駄目、といったありさまである。これまた、姿形うるわしく才能抜群といった物語類の主人公の逆転である。
一人前になった後も、
賭博にふけり
傾城(遊女)に
溺れ、「
身過もなければ、家をも売」るといったありさま。どうにか武家の「
若党」となるが、
算盤勘定が達者ということで「
御咄の
衆」に立身するものの、大名の悪政の荷担者・代行者として人に恨まれるのみ。それでも大名に
重用されて慢心、
生真面目な武士を侮辱して逆に痛めつけられ、臆病者の正体をまるだしにして逃げ出したために武家の交わりはできなくなり、食い詰めてしかたなしに出家して、自ら浮世房と名のって遍歴を始める。
どうにもサマにならぬ、サッソウとしない人物ではある。了意はなぜこんな人物を主人公としたのか。
『浮世物語』の隠された意図
パロディーの世紀とも称される十七世紀のことである。優美な物語の主人公のイメージを徹底的に逆転、そのずっこけぶりによって読者の笑いをとろうとしたことは確実であろう。また、この世にありそうにない人物像より、卑俗・
滑稽な現実に近い人物のほうを読者が歓迎するという状況の存在を、了意は自覚していたのかもしれない。卑俗・滑稽な人物ながら歓迎されている先輩『
竹斎』の主人公などもすでに存在する時代であり、巻二の一、二で了意は、浮世房に竹斎を重ねようとさえしているのである。
が、そのような理由のみで、徹底した卑俗化・滑稽化を行い、
侮蔑さるべき人物として主人公を提示したとは考えにくい。説経僧として現実の社会状況や当世の人間のあり方に深い関心を持ち、同時に強い現実批判の意識を持つ了意は、このような浮世房のイメージを、その現実批判の意図のために利用したのではないか。
『浮世物語』巻二の四では、突然のごとくに駄目な浮世房が変身、米価高騰を難じ、その原因を領主の悪政と悪徳商人の買占めによるとして長広舌をふるう。以後、とりわけ巻三までの『浮世物語』は、所々に笑話的な章を配置しつつも、当時の政道を論じ、主君のあるべき姿を説き、悪政・
苛政を批判する。これらが『
可笑記』を継承するものなることは明らか(本文頭注参照)だが、了意の主張と批判、と同時に『浮世物語』を了意が書いたねらいが、浮世房の口を通して語られる、これらの部分にあることは明らかとみてよいであろう(もちろん、巻四以後の
知足安分の生き方を説くのも、了意にとっては大事なことだったであろうが……)。が、もしそうなら、もっと
ましな人物にそれを語らせる
べきだったのではないか。
しかし、これは現代の目から見た見方である。了意は考えたに違いない、御政道にかかわる問題、それを批判するような主張をまっとうに書くのは
危ないのではないか、と。本書末の解説にも記したように、『浮世物語』出刊の時点では、すでに出版規制が行われている。また、出版規制が行われる以前から、御政道に触れる作品を出版する際には、作者(または
書肆)が自主規制を行ってもいる。そのような状況の中では、現実批判とりわけ御政道批判が
突出してしまうのは危険であり、自主規制やカムフラージュが必要とされるのである。
『浮世物語』の
了意は明らかに自主規制をし、カムフラージュを行っている。参勤交代への批判を「鎌倉の一年詰め」と称してさりげなく行い(巻一の八)、
寓話的な描写で年貢の増徴を難じ(巻三の七)、仁君秀吉に仮託して
鷹狩や人命軽視の風潮を
諷している。「今はむかし」という浮世(=現代のこの世)の物語らしからぬ全章の時代設定もカムフラージュとしての一応の意味を持つに違いない。また、以下のような記述も注意を要する。
国の主は腹のごとく、百姓は足のごとし。腹のみふくれても、足立たずしてはその甲斐なし。君大いにさかえ給ふとも、百姓衰へかじけたらば、国を治むるしるしなからん。されども大欲ふかき人は、多くの米を倉に積みて、年を重ぬれども出だし売らず、日照り・洪水・大風を、いにしへは無きやうにと祈りしに、今の商人は、「あれかし。米の直を上げん」と利分をまもるほどに、その日過ぎの貧しき者、かせげどもかせげども一升の米のあたひをだにまうけかね……(巻二の四)
右の文章の「大欲ふかき人」は、前から読んでくれば「国の主」をさすはずだが、以下に続けると「今の商人」のことになってしまう、一見おかしな文章である。つまり、「国の主」への批判のはずが「今の商人」への批判にすり替えられているのである。私はこれを、御政道への批判が
突出することを避けるための了意のカムフラージュとみる。
このように、まことにサエない浮世房が長広舌をふるうという形で現実・政道批判が行われるのが『浮世物語』である。したがって、このような主人公を呈示することには、所々に笑話的な短章を配することとともに、現実・政道批判が
突出して受けとめられることを避ける、すなわちカムフラージュの意図があったと考えられる。一休さんとは逆のサエない浮世房だが、そこに実は秘められた意味があったのである。(谷脇理史)