古典研究者としての藤原定家
中世和歌を代表する歌人藤原定家が、一方ではまたすぐれた古典文学研究者であったことはよく知られている。『古今集』をはじめとする三代集の書写は生涯にわたって何度も行っているし、家集や歌学書などのいわゆる歌書類の収集についても実に熱心であった.
冷泉家などに現存する伝本で、定家が直接かかわったと思われる写本の数は非常に多い。「直接」というのは、すべて本人によって書写されたのはもちろん、途中まで本人が書き、あとは周辺の人によって書写された本や、基本的には周辺の人によって書写されたものでも、題や加筆の部分は本人の筆になるものなどを指すが、もし定家という人物がいなかったら、後世の古典研究はすっかり様変わりしていただろうと思われるほどのものである。
御子左家という当時最も勢いのある歌道家を
嗣いだ人物なのだから当然といえば当然なのだが、他の同様な歌人たちにくらべてもやはりその熱意と努力のほどは尋常でなかった。しかも書写しているのは歌書だけではないのである。
貫之自筆本を直接書写したことで有名な尊経閣文庫蔵『土佐日記』、現段階では最も信頼するに足るとされる青表紙本『源氏物語』、現存伝本すべての祖である御物『更級日記』など、いずれも定家の手にかかるもので、散文である。そのほか『伊勢物語』は現在分っているだけでも八回は書写しているし、日記『明月記』によれば、『大和物語』や各種「草子」類、また『
蜻蛉日記』なども書写している可能性がある。ただし多くは晩年になってからの仕事である。
『明月記』は現在のところ治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)まで、定家の年齢でいうと十九歳から七十四歳までの五十五年分が知られているが、歌書以外の書写に関する記述はほとんど六十歳以降のものである。そのころはかなり目が悪くなっていて、
手振ひ目盲ふと雖も、黄門の懇切に依り、承明門院姫宮に源氏物語の内三帖、紅葉賀、未通女、藤裏葉、書きて進らす。(嘉禄二年五月二十六日の条、六十五歳)
源氏桐壺の巻を書く。老眼悪筆、料紙不便となす。(寛喜二年三月二十八日の条、六十九歳)
徒然の余り一昨日より盲目の筆を染め、伊勢物語を書き了んぬ。其の字、鬼の如し。(寛喜三年八月七日の条、七十歳)
などとあり、苦労しながらの筆写だった。それでは定家は晩年になってからやっと物語類に親しむようになったのかというと、決してそうではない。わりに早くから物語には接していて、自身、物語の創作にまで携わったこともあったようなのである。
物語作家としての藤原定家
『松浦宮物語』という作品は、その定家の作と考えられている。鎌倉時代初期の成立とされる物語評論の書『無名草子』に、
また、定家少将の作りたるとてあまたはべめるは、まして、ただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどもにはべるなるべし。『松浦の宮』とかやこそ、ひとへに『万葉集』の風情にて、『うつほ』など見る心地して、愚かなる心も及ばぬさまにはべるめれ。
とする記述があり、定家の作とされる物語作品が「あまた」という点にやや疑問があるものの、『松浦宮物語』の作者が定家であることはまず間違いないと思われるからである。
『無名草子』の成立は、定家の少将在位時、またその他いくつかの条件から、正治二年(一二〇〇)か、あるいは翌建仁元年(一二〇一)のころで、作者は定家に近い人物、と推定されているが、彼は当時まさに四十歳になろうとしていた。当然ながら『松浦宮物語』はその時点ですでに成立していたわけであるから、年齢でいえば、三十歳代か、早ければ二十歳代にもこの作品は手がけられていたということになる。和歌の面での活躍は比較的早くから目立っているが、この方面でも意外に若いころから活躍していたらしい。和歌の習練のかたわら、あるいは物語の制作にも精を出した時期があったのだろうか。『無名草子』には、「ただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどもにはべるなるべし」と非常に厳しい評価がなされている。もしかしたら習作とも呼ぶべき作品群が「あまた」あって、今は散逸してしまっているのかもしれない。同じく定家の撰とされる『物語二百番歌合』は、成立時期については諸説あるが、やはり比較的若いころのものという点では一致している。定家自筆本の奥書に、後京極殿
良経の仰せによって、後白河院皇女宣陽門院が所持されていた物語を借り、撰進した旨が記されている。『源氏物語』や『狭衣物語』をはじめ、全十二点の作品がここでは取り扱われているのだが、まだそれほど多くの典籍類を彼自身は所持していなかったと考えられる。こうした物語歌の選定作業には、当然ながら作品の深い読みが要求されるはずである。若年時の物語への関心、接触が、後年の熱心な書写、収集に確実に結びついていったのであろう。
藤原俊成と御子左家
定家ほどではないが、定家の父俊成も、物語に関しては多大の関心を持ち、一家言を持っていた。むしろ定家はそうした父の強い影響下にあったと考えた方がいいのかもしれない。『六百番歌合』の
判詞の中で、
紫式部、歌詠みのほどよりも、もの書く筆は殊勝なり。その上、花宴の巻は、殊に艶なるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり。
と言っているのはあまりにも有名だが、すでに『千載集』恋四で、俊成は、
寄二源氏物語一恋といふ心を詠みはべりける 詠み人知らず
見せばやな露のゆかりの玉かづら心にかけてしのぶけしきを
逢坂の名を忘れにし仲なれど堰きやられぬは涙なりけり
という二首の歌を採っている。作り物語を題材にした歌を採ることは勅撰集でははじめてで、そうしたところにも俊成の指向するところがはっきりと見てとれるだろう。
俊成、定家を中心とする御子左家は、平安末から鎌倉初めにかけて、清輔、顕昭らの六条家とはいわばライバルの関係にあったが、どちらかというと御子左家は創作至上主義で、六条家は歌学を重視するという傾向にあった。六条家の顕昭が「歌はやすきものなりけるよ、寂蓮ほど無才学なれども、歌をよく詠む」と言ったのに対し、御子左家の寂蓮は「歌は大事のものなりけるよ、あれほど大才なれども、歌は下手なりける」と言ったとかいう話は(
兼載雑談)、説話としてもあまりに出来すぎているとは思うが、両者の関係が非常によく表れている話ではあると思われる。ところがこと物語に関しては、御子左家の方が遙かに優越感を持っていたらしい。『正治二年俊成卿
和字奏状』は、正治百首の際に歌人選定をめぐって書かれた俊成の後鳥羽院宛書状だが、息子定家を強く推挙し、教長、清輔らを非難する中で、
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜を」と申す歌を、「夏の夜」と知りて、夏の部に入れて候ひき。その歌は、源氏物語に、二月の花宴の巻に、内侍督に「朧月夜」と言はせて候ふを、教長も清輔も源氏を見候はず、まして文集と申す文も見候はで、(中略)夏の部に入れて候ふ。教長、清輔ともにうたてしきことに候ふなり。
とまことに手厳しく批判しているのである。『源氏物語』については熟知しているという自信が俊成にはあり、それがこうした強い発言を生み出しているのであろう。
『うきなみ』という物語を書き、定家と同様「むげにこのごろ出で来たるもの」として『無名草子』にも取り上げられている藤原隆信は、一方では似せ絵(肖像画)の名手としてきわめて有名であったが、歌人でもあった。その家集である『隆信朝臣集』に、
母の、紫式部が料に一品経せられしに、陀羅尼品をとりて
夢のうちもまもる誓ひのしるしあらば長きねぶりをさませとぞ思ふ
の一首がある。「母」は若狭守藤原親忠女、鳥羽天皇皇后に仕えて
美福門院加賀とも呼ばれたが、これはその母が紫式部のために一品経供養をした折に詠んだ歌である。親忠女は、はじめ藤原為経(寂超)と結婚し、隆信を生み、のち俊成と再婚して定家らを生んでいるので、実は定家にとっても母親ということになる。『新勅撰集』釈教部(六〇二)に、
紫式部ためとて、結縁経供養しはべりけるところに、薬草喩品送りはべるとて 権大納言宗家
法の雨に我もや濡れむむつましき若紫の草のゆかりに
とある歌も、おそらく同じ折のものであろうと言われているが、それは作者宗家が定家と同腹の姉、八条院
按察の夫だからである。紫式部のために行われた結縁経供養とは、いわば源氏供養のことであるが、親忠女がいかに『源氏物語』の熱心な読者であり、紫式部に心酔していたかが分ろうというものである。その行事には当然のことながら周辺の者たちも参加していたであろう。物語に親しむ環境としてはこれ以上にないほど整っていた。定家はそうした雰囲気のなかで育ったのである。
物語に対する意識の変革
『無名草子』の作者かと推定されている俊成卿女と呼ばれる女性も、実は定家の長姉八条院三条の娘である。彼女が本当に作者であったかどうかの認定はなかなかむずかしいが、状況的に十分あり得る話だとは思われる。少なくとも作者が御子左家に非常に近い人物と考えることは、それ自体甚だしい誤りとはならないであろう。その『無名草子』が批評の対象としている物語作品は、全部で二十八点、『竹取物語』『うつほ物語』『大鏡』など、名のみ記されている作品も含めると、都合三十三点に及ぶが、当然ながら当時出まわっていた物語の数はそんな程度のものではなく、『無名草子』の中で、
げに、『源氏』よりはさきの物語ども、『うつほ』をはじめてあまた見てはべるこそ、
と言い、
これよりしも、人々しからぬ物語も、少し我はと思ひたるも、数も知らず多くはべれど、
あるいは、
また、むげにこのごろ出で来たるもの、あまた見えしこそ、
などと言っているように、非常に多くの物語が存在していたはずである。しかもそれらは時代による特徴をおのおの持っていた。『源氏物語』以前の物語を「古物語」、比較的新しい物語を「今様の物語」、そして「むげにこのごろ出で来たるもの」を「今の世の物語」とする区別が、やはり『無名草子』にははっきりと存する。それぞれの時代には、それぞれの時代にふさわしい、それぞれの物語のありようがあるという考え方が、そこには歴然とあったとみるべきであろう。物語を、単なる読みものと見る意識からの脱却である。「女の御心をやるもの」(三宝絵詞・序)としての、いわば女子供の慰みものでしかなかった物語が、歌のために重要な意味を持つとされるようになり、やがてそれ自体が意味を持っていると認められてくる過程において、おそらく御子左家の人たちが深くかかわったのである。俊成や定家やそれらにつらなる女性たちが、それぞれの資質や立場において、多大な関心を物語に寄せた。その結果が、文芸としての物語の価値を高め、和歌に匹敵する地位を与えることにつながっていったと考えられる。(久保木哲夫)