標題は享和元年(一八〇一)成立 『
戯財録』(入我亭我入著)からとった。その「序」には作者道に権威のあることを説き、次の「作者差別之事」では狂言作者道に規矩式法を定めたいことを説いている。次に作者を「草紙物語作者」「浄瑠璃作者」「歌舞伎作者」の三部に分け、「浄瑠璃作者」では近松を最初に立て、その評伝の一節がこの標題である。その前後は次のようにある。
貞享三年(一六八六)、大坂竹本義太夫坐に頼まれ、出世景清と云ふ新物を書きしより、竹本の書き始めにて、生涯数百番の新物を書作して(確実なところは不明、実際は百冊内外)、日本に名を発する。是より看板または板本に、作者の名を印す元祖となりぬ。元来、近松は衆生化度せん為の奥念より書作するゆへ、是までの草子物とは異なり、俗談平話を鍛錬して、愚痴闇昧の者どもに人情を貫き、神儒仏の奥義も残る所なくあらはし、俗文は古今の名人、遖れ古今一派の文者といふも更なり。近松の浄るり本を百冊よむ時は、習はずして三教(上記の神儒仏)の道に悟りを開き、上一人(天皇のこと)より下万民に至るまで、人情を貫き、乾坤の間にあらゆる事、森羅万象弁へざる事なし。真に人中の竜ともいふべきものか。
近松を賞揚することしきりであるが、注目したいのは浄瑠璃本を上演台本としてだけでなく、読む本としても認識していることである。近松の浄瑠璃本を読めば「三教の道に悟りを開き」、「人情を貫き」、「森羅万象弁へざる事なし」と言い、そのまとめとして近松は「真に人中の竜」と言うのである。
現代では中村幸彦氏が浄瑠璃史上の近松の役割を的確かつ簡潔に叙述された
(『日本文学史』久松潜一編、有信堂、一九六〇年刊)が、それをまとめてみると次のようになる。
一、作中人物に演劇的性格を与えた。類型的ともいえるが、よく元禄人化することで普遍的人格を描出した。
二、浄瑠璃構成で時代物五段、世話物三段の定型を作り、演劇として完成した。
三、三味線、太夫、人形遣いが三位一体となるべき詞章を完成した。それは作者が人形遣いや太夫に従属するのではなく、よい意味で三者が競争することである。近松は浄瑠璃の詞章を向上させ、当時から読物としても鑑賞されていた。
四、近松は、自分の文学は芸であり、芸は看客相手の慰みと認識し、第一流の文学を志向していた。
五、文学の根底には、作品と看客の両方に共通する人情を考えており、その裏付けに義理を取り上げた。人情は古今和漢雅俗に共通する人間の情、義理は人情を理論的な面から考えた条理、即ち内面の至上命令、換言すれば公的な人情のことである。
以上のような特質を持つ浄瑠璃本は、当時から現代のこの全集本に至るまで、読物になって鑑賞されているのであるが、ここでは江戸時代における読物としての諸相を概観してみることにしたい。
近松の浄瑠璃本制作は、彼の言説を記録した『
難波土産』
(穂積以貫著、元文三年〈一七三八〉刊)の中に書き留められている。昔の浄瑠璃は今の
祭文同然で、花も実もないものであったが、自分(近松)が出て宇治
加賀掾から竹本
筑後掾(義太夫)へ移って作文してから、文句に心を用いることが一等高くなり、例えば公家より以下皆それぞれの格式を分ち、威儀の別よりして
詞遣いまで、その身分相応を専一とした。このために同じ武家といっても大名、家老、禄の高下など格によって差別した。「是も読む人のそれぞれの情によくうつらん事を肝要とする」ためである、と聞いたと記している。
このことについては、穂積以貫自身も「発端」の別条に同じことを書いていて、近松が出てから浄瑠璃本を見るのに恥もなくなり、
専ら世上に流行することになったという。
その近松の浄瑠璃本が読まれている様子は、近松没後間もない享保十二年(一七二七)『
今昔操年代記』に、既に記録されている。
近松門左衛門は作者の氏神也。年来作り出せる浄るり百余番。其内当り当らぬありといへども、素読するに何れか悪しきはなし。今作者と云るゝ人々、皆近松の行き方を手本として書き綴る物也……又あるまじき達人、敬ひ畏るべし畏るべし。
「素読するに何れか悪しきはなし」とあるのが読物の証明になる。享保十九年『
本朝世事談綺』には「近世作者と
極めて産となせるは、近松門左衛門に始る。此人
博学碩才にして、百余番の浄瑠璃、
悉言妙不思議を綴る……世俗、作者の
仙と称せり」とあり、宝暦六年(一七五六)『
竹豊故事』には要約して、世間の世話を飲み込んで浄瑠璃を作り、世上作者の元祖と言っている。この記述は『
嬉遊笑覧』や『
守貞謾稿』などの百科事典類にも引き継がれていて、江戸時代の近松理解の常識になっている。
それでは近松浄瑠璃本に何が読み取られているのであろうか。寛政九年(一七九七)『はなけぬき』では、近松を禅僧出身とするなど現在では認められぬ記述もあるものの、次の一文などは近松浄瑠璃本の特質を見事にとらえている。すべての作文は
嘘を誠に書くのが当然であるが、「近松が作は
掻いて
退くほどの嘘なれども、人形の貴賤男女の情、真実に聞へて見物の心にひしひしと当る。是れ人情を
能く書きたる故なり」とある。文化六年(一八〇九)『
卯花園漫録』には近松遺愛の
硯が近松半二に伝えられ、その硯の
蓋に
漆で「事取
二凡近
一而義発
二勧懲
一」の九字が記されていたという。それは『
笠翁伝奇』の序の「昔人之作
二伝奇
一也事取
二凡近
一 云々」という語から取ったもので、近松が小説(想像により世事人情を叙べた文章)に心を寄せていたことがわかり、近松は実に日本の
李笠翁(明末清初の文人。戯曲、小説を書く)である、と記している。
一方、安永八年(一七七九)『
荒御霊新田神徳・
跋』には、近松は世を
戯場に避けて、数多くの浄瑠璃を作ったが、筑後掾と
播磨掾の名人がいて広く世間に行き渡り、「勧善懲悪、世を教るの一助たる事、
是近松氏の本心なり。中頃、
千前軒、
文耕堂が類も、
亦近松氏の意を請けて作れる所正しければ、
此道
甚だ盛ん」になったが、いつの頃からか衰えたとある。近松は『心中天の網島』などではしきりに義理の語を使い、義理を強調しているのであるが、「勧善懲悪」は文学思潮として、義理の言い換えである。享和二年の
曲亭馬琴の『
羇旅漫録』には、「すべて近松が作は、勧善懲悪をむねとし、衆生化度の方便をこめたり」とあり、文化四年『
竹豊雙弁抄』には、いま語り
翫ぶ浄瑠璃は近松流のものであり、もとは「仁義孝貞忠信の道、勧善懲悪の
理を柔らかにして、愚俗の
禁とするもの」であるとする。文学受容の精神が変化しているのである。
次に近松の浄瑠璃制作の技量について、天明四年(一七八四)『
翁草』では、近松は草子(物語小説)を書くことができず、其磧は浄瑠璃を書くことができぬと、その特質を見抜いている。また『嬉遊笑覧』には、世情によく通じて、浄瑠璃において近松のようなものは「古今独歩と称すべし」と言い、近松に並ぶのは
紀海音としている。そのため近松のひいき筋も現れている。例えば安永六年『
儀多百贔屓』では、これは言うまでもなく贔屓がまくし立てるのが趣向なのであるが、次の会話、「
むだ『
此頭取はきつい近松贔屓だの』
三国贔屓『どふでも近松だ。悪い物は
壱ツもない』」とあるのは、近松贔屓の極致である。文化八年『
客者評判記』には、「近松が浄瑠璃本の名文などを切り抜きに覚えられた」という記述もある。近松と海音の特質の比定は、文化年間(一八〇四―一七)初め頃の『
反古籠』に「門左衛門は人麻呂の如く
孔明の如し。海音は赤人の如く
仲達の如し」とある。人麻呂と赤人は古くから並称される万葉歌人であるが、人麻呂は抒情歌人、赤人は叙景歌人とされており、叙景を叙事とすれば、近松と海音の認識は的中している。
愛好する近松の作品についても記録されている。例えば宝暦九年『
倒冠雑誌』には「世話事は、天満やお初(曾根崎心中)のかな
本ぞはじめ也」とあり、その『曾根崎心中』については天明八年『
俗耳鼓吹』に
荻生徂徠が名文に嘆息したという話を伝えている。このことは文政三年(一八二〇)『
一話一言』にもあって有名である
(→三八 ページ注九)。『俗耳鼓吹』にはほかに『
嫗山姥』『
百合若大臣野守鏡』『
淀鯉出世滝徳』の紹介もある。寛政七年『
莘野茗談』には、「謳曲の作者多けれども、近松氏に過たる者なし。並木氏(宗助)これにつぐ……近松が宵庚申、紙屋治兵衛(心中天の網島)、梅川(冥途の飛脚)、
反魂香、
其外人情を
演べたる所、奇妙な
る辞多し」とあり、現在に至る名作の評価ができている。
時代物では『
国性爺合戦』が足かけ三年のロングランを取ったことが『今昔操年代記』などに記録されていて有名であるが、近松老功の一作で、力瘤を出し、文句のはだえうるわしく、筆勢もおもしろく、見物ばかりでなく口真似せぬ人なしとあり、『
役者色茶湯』にも「うすうすうさすはもう、さきがちんぶりかくさく金ないろ、きんにやうやう(第二段の中国語風の訳もない会話の所)とは、近松門左衛門が
発腑奇妙の文法」とある。近松の文章は
素語や
素読にも適しておもしろく、人々に親しまれていたことがよくわかるのである。
浄瑠璃本の読書風景の描写も多い。
〇とれまあちつときせるはなしやれ
正本屋九兵衛と読仕廻ふ (宝永元年〈一七〇四〉『千枚分銅』)
正本屋九兵衛は、竹本座の近松の浄瑠璃本を専属で刊行する山本九兵衛。これに対抗する豊竹座の紀海音の浄瑠璃本は、西沢九左衛門が専属で刊行した。
〇はづかし はづかし はづかし はづかし はづかし
京学に浄るり本を見て帰り (元文〈一七三六‐四〇〉中『雲鼓評万句合』)
京学は地方から京都へ留学して、儒・仏・神・医・歌学などを修学すること。
〇又市当分の部屋に入り、瓦灯かゝげて浄瑠璃本見ながら寝所に居られし (宝暦四年『世間御旗本形気・四・三』)
〇かやうの義理詰は義太夫本又芝居の狂言に見るに (『同・五・二』)
前者は浄瑠璃本に熱中、後者は内容を義理詰めととらえている。
〇道行を抜いて義太夫本をよみ (『柳多留・一七』)
読物なので、いま道行の景事は飛ばし読みしたところでかまわない。愛唱するのは、道行や景事。
人々が浄瑠璃本を買い求めるには、都市部にあっては、早くから専門の浄瑠璃本屋があった。貞享三年『
雍州府志・土産門下』には浄瑠璃本屋として、二条鶴屋と九兵衛店を示し、浄瑠璃本でないものはないと注記している。元禄二年(一六八九)『
江戸総鹿子・六』には大伝馬町三丁目に山本九右衛門と
鱗形屋三左衛門、長谷川町横丁に
松会三四郎、
通油町に鶴屋喜右衛門と山形屋市郎右衛門の五軒を示している。元禄五年『
万買物調方記』には以上を集成する形で、当時営業中の京都、江戸、大坂三都の浄瑠璃本屋を出している。
中期以後にもなると、「正本おろし所、布屋源平衛」(『
摂陽奇観・五』)のような本屋も出現した。語り本ではあるが、「五行
床本/大字六行」の
江戸積問屋
、卸本屋が大坂には六軒もあった(文政七年『
買物独案内』)。
浄瑠璃本の普及には貸本屋の役割が大きかった。『
恋娘昔八丈』の場合、江戸中は言うにおよばず、近国の在々浦々まで「ソリヤ聞へませぬが流行して、抜き本のできぬ内に中山佐七という貸本屋が床本を借りて、その夜の内に写し、それをすぐに抜き本にして、紙数十五枚を
壱匁ずつに写して売り出し、
銭儲けしたという記録がある(文政二年『義大夫執心録』)。
貸本屋では、明和四年(一七六七)から明治まで営業した名古屋の大野屋惣八の場合、総部数二万一千四百一部のうち浄瑠璃本は五百五十二種、千二百五十八部もあった。その
見料は十日間で三
分から五、六分であった。また城ノ崎温泉で入湯客相手に享和二年から明治まで営業した中屋甚左衛門の場合、浄溜璃本は廃業時には百八十一種(営業期には三百点あったとの記録がある)あり、これは全蔵書の五二パーセントである。見料は七日間(一日一夜でも同断)で二分五
厘から三分五厘位であった。どちらの貸本屋にも「近松物」としての分類があり、中甚には二十四種もあった
(以上、拙著『近世貸本屋の研究』東京堂出版)。
近松の出現によって読物にもなった浄瑠璃本は、嘉永九年頃成立『浄瑠璃道しるべ』に記す、「いま深山幽谷津々浦々迄も、浄るり本あらざる所もなし」と表現する意図は、汲み取ってもよいように思われる。「山林幽谷に住居の者は、
能き師もなく、学ばざ
る輩多かるべし。さ
有れば五常忠孝貞女之道も
弁へがたかるべし。
其仁達に教導」するのが浄瑠璃本の性格で、俗談平話をもってする
狂言綺語ながら、善悪・諸礼を弁える
早学問にされていたと、理解することができるであろう。(長友千代治)