戦国武将の「平家」享受
第46巻 平家物語(2)より
前巻に述べたように、軍記物語としては、『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』の四編が鎌倉時代に作られ、さらに南北朝時代の戦乱を記した『太平記』があったが、その後、室町時代にはいっても、日本の各地に戦いが何回となく起った。それぞれの戦いを描いた軍記も、『明徳記』『嘉吉記』(別に『嘉吉物語』)『結城戦場物語』(別に『結城合戦絵巻』)、『応仁記』(別に『応仁別記』『応仁略記』『応仁乱消息』)などがあり、応仁の乱以後もしばしば紛争が生じ、やがて戦乱の絶え間のない、いわゆる戦国時代へ突入する。
それらの戦いを描いた軍記は非常に多い。塙保己一の『群書類従』『続群書類従』の合戦部には、古代から江戸時代初期に至るまでの合戦を記した類の書を網羅してあり、たいそう調法である。その数は百九十一編に及んでいるが、そのうち十余編を除けば、すべて室町時代から江戸時代初期までの戦記であるといってよい。このような多数の軍記の中には、物語僧によって語られたり、絵巻物に仕立てられたものもあるけれども、『平家物語』をはじめとする前述の軍記物語と肩を並べるほどの作品は出なかった。その内容が、一つの地方に限られたり、家々の私的な争いであったり、短い一時期で決着するものであったりして、規模が小さく題材的に見劣りすることを否定できない。その上、それらの作品には、前代の軍記物語の影響、中でも『平家物語』のそれが甚だしく見られたし、文章も型にはまった書きぶりが多かったから、新しい表現で強い感動を盛り上げることも、極めて稀であった。
こうして室町時代におびただしく生産された戦記の類よりも、むしろ人々を引きつけたのは、南北朝乃至室町初期に出た『曽我物語』十二巻と『義経記』八巻とであった。曽我兄弟や不遇の英雄義経を、曽我伝説や義経伝説によりながら描いた物で、軍記物語から派生した長編の英雄伝記物語と称すべきものであった(なお、こういう伝記物語としては、江戸時代初期に至って太田牛一の『信長公記』、小瀬甫庵の『信長記』や太田牛一の『大かうさまぐんきのうち(太閤様軍記)』、小瀬甫庵の『太閤記』が作られて、多くの読者を得たことを付記する)。
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室町時代の人々がよろこんで見聞し鑑賞した芸能に、能や幸若舞があったが、そのほか、公家・武家ばかりでなく、ひろく大衆にもよろこばれたのは『平家物語』であった。
『平家物語』は読むこともあったが、むしろ一般に享受されたのは、盲人法師が琵琶の伴奏で語るもの、平曲であった。これを業とする平曲者は、検校・座頭とよばれたが、かれらは、貴人の邸に参上したり、武家のもとに赴いたりして、平曲の一曲を演奏した。あるいは貴賤多くの人を集めて寺院の広場などで語ったりしたらしい。
こういう平曲者たちは、年に何回か集会を行っている。「すずみ」(涼み)はその一つで、いつごろから始まったか明かでないが、六月十九日に定めて集まっており、一種の納涼会であった。
山科教言の書いた『教言卿記』の応永十二年(一四〇五)六月十九日条に「座頭・検校スヾミと号し会合。八十一人」とあって、この「涼み」には八十一人が集まったことを示している。また東福寺の禅僧の日記『碧山日録』を見ると、平家と平曲者のことが、度々出てくるが、寛正三年(一四六二)三月三十日条には、摠一という検校が昨日病死した旨を述べ、「盲者、城中に在り、平氏の曲を唱ふる者、五六百員、摠一を綱首となす」と記している。『平家勘文録』に付した「職代記」に想一総検校が寛正三年三月二十五日(二十九日の誤りか)逝去したとあるので、想一・摠一は同人であろう。それにしても平曲者の最高の地位をさす総検校の下に当時、京都では五、六百人の平曲者が居たというのであって、以てその盛況を知るべきであろう。
かれらは、京都のみならず、地方の大名などの豪族を頼って下り、時にはその下に長く滞留して、平曲を行い、あるいは種々の知識を主君に授けたようである。他の芸能人や文化人と同様に、都の文化を伝搬する役割を果していたのである。さらに時には、盲目で怪しまれないのを利して、間者の役を勤めたことも、いくつかの文献に見えている。
武将では、島津家の重臣上井覚兼が「平家」を語らせたり、自ら読んで人に聞かせたりしており(上井覚兼日記)、毛利輝元も愛好者であった(輝元上洛記)。徳川家康も晩年、平曲を折にふれて聞いており、『源平盛衰記』と『吾妻鏡』の異同を考えさせたりして、深い関心を寄せていたらしい(駿府記)。そういう中で戦国武士が『平家物語』を聞いてどのように感じていたかを、湯浅常山の『常山紀談』『雨夜灯』や室鳩巣の『駿台雑話』などから、あげておこう。前者(常山の書)は戦国時代の軍記や武勇談(武辺咄)を渉獵して、戦国武士の言行・逸話を集録したもので、三十冊に及ぶ大著である。後者は、自己の見聞を記して道義・学問などを説いたものであるが、戦国武士の例を引くことが少なくない。ともに江戸時代中期以降、長く人々から愛読された書である。
『常山紀談』巻一に次のような話がある。
上杉謙信が、ある夜、石坂検校に「平家」を語らせたが、鵺の段(巻四「鵼」)を聞いてしきりに落涙した。側近の者どもが変に思っていたところ、謙信は「わが国の武徳も衰えたものだ。昔鳥羽院の時、宮中に妖怪が出現したが、源義家の鳴弦に恐れて、妖怪は忽ち消え失うせたという。源頼政は鵺を射たが、それでも死なないで、郎等の井野隼人(平家「井早太」)がとどめをさしたという。義家鳴弦から頼政の鵺退治まで四十六年しかたたないのに、武徳の衰えは著しい。今は頼政の時代から四百五十年も後である。自分も頼政に遠く及ばぬと考えると、思わず涙がこぼれるのだ」と語った。
このように「平家」を聞きながら、古代の英雄の武勇を思い、世も末になった今、己の力では到底及ぶまいと考えて嘆いている。常に武勇を忘れず、かつ我が身に引きくらべているところに、戦国武将の平曲の一つの受け取り方があった。こういうところは、徳川家康が幸若舞の「高館」を聞いて弁慶が主(義経)を思い、奮戦して、勇壮な最期を遂げたのに感じ、「武蔵房弁慶はまことにすぐれた者だ。今の世には少ないだろう」と語ったのを、側に居た本多正信の弟の三弥(正重)が進み出て、「判官のような主君は容易にないと存じます。弁慶(のような家来)は居りましょう」と答えたという話(雨夜灯)とも似た、芸能の享受のしかたであった。
常山は先の話をした後、これと似た物語があるから付記するといって、次の話をしている。『駿台雑話』にも全く同じ話をあげているから、ここには同書を引いておく。
相模北条氏の家臣で、後に下野国佐野城主となった天徳寺という豪健な勇将がいた。ある時、琵琶法師に「平家」を語らせたが、前もって「ただ哀れなことを聞きたい」と注文をつけた。そこでその琵琶法師は「心得ました」といって、佐々木四郎高綱の宇治川の先陣(巻九「宇治川先陣」)を語ったところ、天徳寺は哀れがって、雨雫と涙を流して泣いた。そして「もう一曲、同様に哀れなことを聞きたい」とさらに所望したので、那須与市宗高の扇の的(巻十一「那須与一」)を語ると、一曲の半ばに至って、またも涙をぽたぽたと落した。後日、家臣の者どもに「先日の平家を聞いてどう思ったか」とその感想を尋ねたところ、かれらは「非常におもしろうございました。ただし一つだけ分らないことがございます。二曲とも勇烈なことで、哀れなことは少しも無いのに、御主君は感涙にむせんで居られた、これはどういうわけだろうか。今でも不思議だとみな申し合って居ります」と答えた。
天徳寺は驚いて、「今までお前たちを頼もしく思っていたのに、その一言でがっかりした。先ず佐々木の先陣をよく考えて見なさい。佐々木は、誰にも下さらなかった名馬を頂いたのだ。もしそのかいもなく、先陣できず、人に先を越されたなら、討死にして再び帰らぬ覚悟で、頼朝の御前を退出した(巻九「生ずきの沙汰」→一五九ページ)。その心情を察してみよ。哀れでないことがあろうか」と言って涙を流し、しばらくたって言うには「また那須与市も大勢の中から選ばれてただ一騎進み出て馬を海中に入れ的に向かうまで、源平両軍が見守っている時だ、『もし射損じたら、御方の名折れだ、馬上で切腹して海に入ろう』と決意して向かった、その心を察してみよ、武士の道ほど哀れなものはない。自分は戦場では、いつも高綱・宗高の心で戦う故、『平家』を聞いて、二人の心事を思いやり、涙を抑え切れなかったのだ。おのおのの武辺は時の勇気に任せたもので、真実から出たのではないのかと思われる。それでは頼もしくはない」と語ったので、家臣らは迷惑して言葉もなかったという。
前の謙信の例とあわせて、戦国武将の芸能を享受する際の態度、心構えをよく示している話である。単に勇壮なふるまいに喝采を送るばかりではない。晴れの舞台に立つ颯爽たる勇姿の奥には、失敗した際にとらなければならぬ悲壮な覚悟がつねに潜んでいたのである。そういう心裏を掘り下げて感慨を深くし、涙を流し、そして同時に我が身に引き寄せて考える。さらには、表面だけの花やかさに聞きとれるに過ぎない武士たちに、その心構えを教え悟らせようとしたのである。それが戦国武将の芸能鑑賞の一つの態度であった。