古典への招待

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人物造型について

第24巻 源氏物語(5)より
 薫という人物は、一方で現世離脱の理想を標榜ひようぼうしながら、また一方では現世執着の現実に生き続け、しかもその二極の間で分裂しないどころか、かえって調和的に生きる人間として造型されている。そのような薫がやがて、宇治の大君とかかわるようになるが、それはいかにも似つかわしい格好の相手であった。なぜなら、道心深い父八の宮に養われ、隠棲的な人生をさえ方向づけられている彼女は、薫と同じように、世俗的なるものに背を向けようとする姿勢を保っているからである。薫の八の宮への親交が深まるにしたがって、ときおり、薫と大君も、女房を介したり几帳で隔てたりしながらも、和歌や言葉をとり交すようになる。次は、薫がはじめて姉妹をかいま見た後の贈答歌である。
(a) 薫 橋姫の心をみて高瀬さすさをのしづくにそでれぬる
  ながめたまふらむかし。
(b) 大君 さしかへる宇治の川長かはをさ朝夕のしづくや袖をくたしはつらん
  身さへ浮きて。
(橋姫一四九~一五〇ページ)
(a)では薫が、宇治の姫君の気持を察して、浅瀬をゆく舟の棹のしずくに舟人が袖を濡らすように、私も涙で袖を濡らしてしまった、と詠んで、さぞかし物思いに沈んでいるだろう、と同情する。互いが憂愁をかかえているとして、相手に親交を求める趣である。これに対して(b)の大君は、棹をさしかえては往来する宇治の渡し守が、朝夕のしずくに袖を朽ちさせてしまうように、この私の袖も涙に朽ち果ててしまうだろうか、と詠んで、涙で身までも浮くばかりだ、とする。大君は、薫の言う「袖ぞ濡れぬる」を、自分は「袖をくたしはつ」と大げさに切り返して、こちらの悲しみは比較にもならぬほどだと反発したことになる。この薫の同情と大君の反発は、男と女の典型的な贈答歌の呼吸によっている。
 また、八の宮の死後、宮の遺言もあったところから後見役のようになった薫は、いよいよ大君とも親密になっていく。恋情を抑えがたい薫が深夜大君のもとに押し入るが、何事もなく朝を迎える場面で、次のような対話をとり交している。
(a) 大君 「隔てなきとはかかるをや言ふらむ。めづらかなるわざかな」
(b) 薫 「隔てぬ心をさらに思しわかねば、聞こえ知らせむとぞかし。めづらかなりとも、いかなるかたに思しよるにかはあらむ。……」
(総角二三四ページ)
これより前に、薫が女房の弁を介して大君に「隔てなく聞こえて」親交したいと言っていたところから、大君は、突然入りこんできた薫について、先刻の彼の言葉をつかまえて「隔てなきとは…」と抗議したことになる。これに対して薫は、その大君の言葉じりをとらえ、「隔てぬ心を…」とか、「めづらかなりとも…」とか切り返そうとする。自分としては「隔てぬ心」が何かを分ってもらうために入りこんだと言い、また「めづらし」とはどんな気のまわしようか、自分には無理無体な行動などに出るつもりもないのに、と言う。こうした対話は、前掲の贈答歌の、男の懸想と女の切り返しのように、言葉じたいの自立するかたちになっている。その言い分が、理屈にもならぬ理屈として、しかしそれなりに成り立つゆえんである。
 薫の宇治行きが繰り返されるたびごとに、このような対話が繰り返されていく。こうした対話は、互いに理解を深めあうとか、相手を説得するとかの機能からみるかぎり、ほとんど無効の言葉であるといってよい。しかし対話じたいが成り立っているのは、心の実際から離れて言葉じたいが自立しながらみあっているからである。むしろ対話じたいとしては奇妙なほど噛みあっていて、あたかも入れ子型細工のような密着ぶりを思わせる。そして、言葉によるこのようなかかわり方が、じつは、薫の現世に対する否定と肯定の観念的な調和を促し、彼に安定した平衡感覚をさえもたらしているように思われる。大君の反省的な心性やそこから導かれる和歌や対話の言葉が、薫の観念の破綻をくいとめているともいえるであろう。こうして『源氏物語』第三部は、現世の栄光を享受しながら道心をもかかえこむ薫、そしてその薫にいかにも似つかわしい内省的な大君、というように、まったく新たな人間像を造型するところから出発するのである。
 もとより薫の宇治の人々との交渉は、彼が都における俗物性を排除しながら、道心をもつぱらとする貴公子として自ら宇治の聖地にのりこんでくる、という趣で展開しはじめる。薫はそのようなかたちで大君を相手に独自な和歌や対話をとり交す主体になりうるのであり、その限りにおいて、二人の微妙な平衡関係が保たれてもいるのである。その関係じたいは、互いに観念的な愛を培養しうる空間でさえある。ところが、遮断されているはずの都の俗物的なるものが、皮肉にもここに持ちこまれてしまうと、様相は一変してしまう。具体的には、匂宮の存在である。しだいに大君への思慕の情を抑えがたくなった薫は、匂宮と中の君とを強引に引き合せて大君を孤立させ、それによって彼女の心を自分にひきつけようとした。しかし大君は、容易に心を開かないばかりか、新婚の匂宮の不誠実な態度にかえって結婚への強い不信感をつのらせることになる。こうした匂宮と中の君の結婚あたりから、物語には都の現実的な状況がさまざまに持ちこまれ、都で繁栄する薫の世俗的な一面も見え隠れするようになる。そうした物語は、もはや薫と大君の観念的な愛をはぐくむような空間ではなく、大君はひとり物思う孤立した女君の風貌を呈しはじめる。薫ととり交してきた長大な対話の主体は、いつのまにか長々しい心内語の主体へと変質していくほかなくなる。
 宇治での紅葉もみじ狩りに中の君に逢うはずだった匂宮が、結局素通りしてしまう事態に際して、大君は当の中の君以上に悲嘆にくれる。その長大な心内語の一部である。
(匂宮とは)なほ音に聞く月草の色なる御心なりけり、ほのかに人の言ふを聞けば、をとこといふものは、そらごとをこそいとよくすなれ、思はぬ人を思ふ顔にとりなすこと多かるものと、この人数ひとかずならぬ女ばらの、昔物語に言ふを、さるなほなほしき中にこそは、けしからぬ心あるもまじるらめ、何ごとも筋ことなるきはになりぬれば、人の聞き思ふことつつましく、ところせかるべきものと思ひしは、さしもあるまじきわざなりけり、……ここにもことに恥づかしげなる人はうちまじらねど、おのおの思ふらむが人笑へにをこがましきこと、と思ひ乱れたまふに、……
(総角二九八~九ページ) 
匂宮はやはり月草の色のように移り気の男だったと確証を得た大君は、女房たちの話題にも改めて納得されるというのである。それによれば男とは、心にもないことをもっともらしく言い、恋してもいない女に言い寄っては言葉を尽して機嫌をとるものだともいう。また、高貴な血をうけた身分の間では、世間への遠慮からもそんな不埒ふらちな体の者などいるはずもないと思ってきたのに、今ではそうとも限らぬものだったと愕然たる思いである。また後半の叙述では、周囲の女房たちがこうした事態をなんと思っているのか、と想像するところから、世間のもの笑いになりかねない自分の愚かしさに苦悩するのである。
 ところで、このような大君の心内叙述の随所に、かつての紫の上の苦悩の思念が投影されている点が注意される。源氏との夫婦仲に自足してきた紫の上が、思ってもいなかった女三の宮降嫁という事態に、改めて己が悲運を思わざるをえなくなる。「人笑へならむことをしたには思ひつづけたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり」(若菜上[4]五四ページ)とあるが、これは、世間のもの笑いという最悪の事態を危惧するところから、苦衷を心内に封じこめ、他者に対しては平気をよそおい続けようとする処世態度を述べている。それというのも、第三者からなまじの同情をかけられるのでは、自分があまりにもみじめだと思われるからである。彼女はそのために、身近な女房にさえ心内を見透かされまいと、眠れぬまま空閨にあるわが身をさえ気づかうほかない。「ふとも寝入られたまはぬを、近くさぶらふ人々あやしとや聞かむと、うちも身じろきたまはぬも、なほいと苦しげなり」(若菜上[4]六八ページ)とある。
 こうして紫の上は、心内の苦悩は苦悩としながらも、平静をよそおう処世態度を持していく。夜離よがれの続きがちな彼女は、その孤愁を他人に気づかれまいと、周囲の女房たちに物語を読ませたりもするが、その物語を聞きながらこんなことを思う。世間にありがちな話として書かれている物語にも、移り気な男や色好みの男、あるいは二道かけた不誠実な男にかかわりあった女などがたくさん書いてあるが、それでも最後には頼る男のもとに落ち着くもののようだが、この自分はどうしたことか浮草のように過してきた身の上ではないか、と。
 前掲の大君の心内叙述によれば、匂宮の噂どおりの不誠実さに気づくところから、女房たちの語る男たちの頼りがたさに納得し、女であるがゆえのわが身の不幸を思い、ひいては周囲の女房にも心開いてはならぬとして「人笑へ」の最悪の事態を危惧するようになったとある。ここには明らかに、右の紫の上の心内と共通する面がある。これは、大君が薫という独自な人間像にみあうべく斬新な造型をされながらも、物語が人間関係を相対化していく過程において、おのずと女の身の究極のかたちへと収斂しゆうれんされていくほかなかったということではあるまいか。もちろん、単なる繰返しなどではない。もとより作中人物たちは、人物像としての類型性と個別性の両面から成り立つのではあるが、ここでは作者の斬新な創意にもとづく大君像もしだいに、物語世界のつくり出してきた類型の力にとりおさえられざるをえなかったということであろう。むしろ、そうであることによって大君の物語における現実性が証されることにもなる。大君が、匂宮と中の君の不幸な結婚を根拠に、「我も、世にながらへば、かうやうなること見つべきにこそはあめれ」として、薫との結婚を断念するほかないと思うのも、そうした物語の現実性に導かれた結果である。
 大君はやがて、現実の人間関係への絶望のうちに短い生涯を閉じてしまう。物語はその最期の無上の美貌を薫の目と心を通して語っているが、これまた紫の上の死の崇高な美の表現(御法巻)と酷似している。結婚を断念したころの大君が自らの容貌がやがて衰えることを思い、「恥づかしげならむ人(薫)に見えむことは、いよいよかたはらいたく、いま一二年ひととせふたとせあらば衰へまさりなむ」としている。こうしたきびしい現実感覚をかかえた大君であればこそ、物語は彼女の死における永遠の美をたたえざるをえないのであろう。ここにも類型の力が作用している。物語の作中人物たちは作者の創意と物語の類型の緊張関係のなかでこそ生彩に造型されることになる。それは、この宇治の物語にだけ限られるのではなく、物語の人物造型一般のあり方と思われる。
 
 本巻では、42匂兵部卿、43紅梅、44竹河、45橋姫、46椎本、47総角、48早蕨、49宿木の八帖を含む。最初の匂兵部卿巻では、源氏死後の世の中で、匂宮と薫が人気を二分する若き貴公子としてその栄えばえしさが語られる。しかし薫には内心、世をいとう気持もあるという。次の紅梅巻には、太政大臣(旧 頭 中 将とうのちゆうじよう)家の後日譚としての紅梅大納言家の動向が、また竹河巻には、鬚黒亡き後の玉鬘家の動向が語られる。いずれも話題の中心は姫君たちの結婚をめぐる動静にある。以上の三帖が、橋姫巻以下のいわゆる宇治十帖とどのように連接するかは、成立上の問題ともかかわって古来の難問となっている。話題のかかわり方など詳しくは、巻末の年立を参看されたい。
 橋姫巻は、宇治の八の宮が二人の姫君(大君・中の君)を養育しながら在家の仏道者として生きているところから開始する。俗世に背を向けて生きようとする薫が、その八の宮をのりの友として親交し、やがて大君とも話を交すようになる。薫の出生の秘事を知る女房の弁と出遭であうのも、そのころであった。
 椎本巻に移ると、八の宮が薫に自分の死後の姫君たちへの後見を依頼し、また姫君たちには生き方をきびしく戒めながら、山寺で修行のまま死去してしまう。総角巻では、薫が姫君たちの後見役として通ううちに、大君への抑えがたい思慕を強めるようになるが、大君は容易に心を開かない。薫は一計を案じて、妹の中の君のもとに匂宮を導いて、孤立した大君をわがものにしようとした。しかし大君は中の君と結ばれた匂宮の不誠実さに、いよいよ結婚拒否の思いを強め、絶望のうちに死を迎えてしまう。薫の悲嘆はいやしようもない。次の早蕨巻では、中の君が匂宮の京の邸に引き取られる。中の君を薫に、ともくろんだ大君の生前の言葉を思い起す薫は、改めて中の君を匂宮に譲ったことを悔むほかない。宿木巻では、都における匂宮と薫それぞれの栄えばえしさのうちに、大君を喪った薫の憂愁が語られる。匂宮が権勢家夕霧の娘、六の君と結婚することになるが、そのために苦悩を深める中の君に同情を寄せる薫の心の内には、大君の形代かたしろとしての中の君への執着をいかんともしがたい。その危機的な状況を打開すべく、中の君は異母妹のいることを薫に告げた。後の浮舟である。薫が今上帝の女二の宮と結婚するのもそのころであった。いやます栄華のうちにありながらも、大君喪失の憂愁はいよいよ癒しがたい。おのずと浮舟への関心も強まっていく。(鈴木日出男)
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