歌人の塚本邦雄氏が義兄に手紙を書くとき、いつも恍惚感を味わったという話が、「読売新聞」のコラム「編集手帳」(二〇〇四・七・二〇) にみえる。義兄の住所「京都市伏見区深草極楽町」ゆえである。塚本氏は地名の喚起力に鋭敏な人で、つぎの歌も作っている。
『出雲国風土記』から選んだ十の地名を一首の短歌に仕立てたもので、「日本歴史地名大系」刊行に寄せた推薦文の中にみえる。新撰和漢朗詠集などを編んで山水の部にでも入れたいほどの美しさだと述べている。
この歌が作られてから四半世紀、本大系の編纂は営々と続けられ、いま五十巻完成の時を迎えようとしている。おりしも、政府の掛け声による市町村の大合併が進み、飴と鞭に踊る拙速さで、すでに珍奇な新名称もいくつか誕生した。かかる時こそ民族の歴史と伝統に学ぶ必要があり、この大系の存在意義を主張しうるのである。
地名は、ある時ある人々によって大地に刻まれた名前である。名前は言葉である。その考察には、地理学・歴史学・民俗学・地質学などの知見を援用する必要があることはもとよりであるが、地名が言葉であるからには、まず言語の学の視点から合理的に説明できなくてはならない(工藤一九九〇)。かく考えるわたしは、日本語史学のたちばから地名を考える論を書き続けてきた。ここでは編集部の需めに応えて主題を設定し、『和名抄』の地名を主な対象にして、その地域性について三つの見解を披露したい。
古代地名を現代地名と同じように考えることは容易でない。そもそも資料の制約から、量も質も比較・検討に耐えられないのである。現代地名なら、大は都道府県から、小は山間の集落、僻村の岬まで、無数といえるほどある。一方、古代の地名についていうと、郡郷を網羅した和名抄以外は寥々たるものである。風土記には小さな地名もみえるが、完本は出雲国風土記だけである。あとは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』や木簡類、『延喜式』などから拾うほかない。かかる制約下の考察ゆえ、一部に『吾妻鏡』を援用することもある。
日本列島は面積のわりに方言が豊かだといわれる。南北に長く、地形が細かく入り組んでいるゆえであろう。地名の数も多く、地域差の大きいことも指摘される。その地域差は主に現代に残る地名についていえることだが、一千年をさかのぼる古代の地名にも該当する言説だろうか。地域による地名の変異や偏りが古代にも指摘できるだろうか。
上のような問いを発したら、すぐに返って来ると予想される回答がある。万葉集の歌にみえる「まま」(『国歌大観』四三一・三三六九ほか)であり、「あず」(三五三九・三五四一)である。これらは本来地形語であって、「まま」は主に東国で用いられて固有名詞に転じた用例(四三一ほか)もあるが、「あず」の二例はそうではなく、厳密にいうと万葉集では地名とはいえない。「あず」はまた、『新撰字鏡』の「」に「崩岸也、久豆礼、又阿須」とあることから分かるように、畿内で行われることもあったようだ。かくて、上に設定した問いに対して的確な回答を与えることは容易ではない。 東国の歌に対して、西国の歌にもその地の言葉を探す人があっても不思議ではない。桜楓社版万葉集では、次の歌の「湯原」に「ゆのはる」と付訓している。
北部九州の方言では畿内日本語の「原(はら)」がハルで出現する事実を重んじての処置だろう。いかにも九州人らしい編者、鶴久・森山隆両氏の態度である。和名抄に香春(豊前・田河)があり、逸文豊前国風土記に「河原」の訛りとある。それなら「湯原」もユノハルと訓じてよいとの判断であろう。だが、万葉歌において「原」を定訓ハラならぬハルと訓ずることをいかにして保証するのか。
先にみた東国語に戻ってこの問題を考えるために、山部赤人の長歌の中ほど四句を引く。初めの二句は原文である。
この歌の題詞には「東の俗語にかづしかのままのてごと云ふ」と読める注記がある。畿内語の論理に基づいて定着した漢字の訓によっては東国の歌を表記できないので、この注記が必要だったのだと思う。万葉歌で西国の地名の「原(はる)」をそのまま歌に書けるなら、この歌で「崖」と書いて「まま」と読むことを求めるに等しい。よって、湯原を西国語で読む蓋然性はきわめて小さい、とわたしは考えるのである。
それでは地域差が指摘できる例はないのかといえば、そうではない。和名抄郡部に塩屋(下野)があり、〈之保乃夜〉の訓によって、シホノヤの語形が確認できる。『色葉字類抄』には「シヲヤ」で載る。この郡名は万葉集の防人歌(四三八三)の左注のほか、奈良時代の文献に散見する。それは天平勝宝四年(七五二) 十月二十五日の造寺所公文にみえる下野国の「塩谷郡」に当たるので、「谷」の訓「や」が認められるのである。このたぐいで時代を少し下ると、なおいくつかの事例が拾える。吾妻鏡の養和元年(一一八一)八月二十七日条の「渋谷下郷」は相模国高座(たかくら)郡の郷名と考えられる。同条には「渋谷庄司」もみえ、現藤沢市域に求められる。これによっても、「谷」がヤの訓を負うて用いられたことが分かる。榛谷駅(常陸・信太)は、延喜兵部式、高山寺本駅名にみえ、後世ハリガヤとよばれている地である。和名抄には記載しないが、吾妻鏡にみえる熊谷郷(武蔵・大里)は、当地の開発領主熊谷氏の名字の地である。後にクマガエに変わるが、当初はクマガヤとよばれたことが分かる。大屋郷(常陸・鹿島)が平安時代末の文献に「大谷郷」、鎌倉時代の文献に「大谷村」で出てくることがある。
上の諸例のうち表記に揺れのないもの、すなわち「渋谷」が地質と地形に、「榛谷」が植生と地形による命名とみて大きく誤らないだろう。すなわち「谷」が「や」とよばれたことを語るものである。「大谷」と「大屋」では、前者が当初の形の蓋然性が大きいと思うが、「塩谷」と「塩屋」に関してはその判断を留保せざるをえない。
西方に目を転ずると、備後国に三谷〈美多尓〉郡、讃岐国山田郡に三谷〈美多邇〉郷があり、「谷」がともに「たに」の訓を負うていることが分かる。さかのぼって出雲国風土記の熊谷(飯石)は後世クマタニとよばれ、寛弘五年(一〇〇八)十月二十七日の金剛峰寺帖案にみえる長谷(紀伊・那賀)は中世以来ナガタニとよばれ、大治二年(一一二七)八月十七日の紀伊国在庁官人等解案にみえる伊都郡大谷郷はオホタニとよばれる。
和名抄を基準にして「谷」「谿」のごく少数の確かな例をみただけだが、東と西で「や」と「たに」に分かれていることがはっきり分かる。この住み分けともいうべき実態は現在まで受け継がれているが、その淵源は古代までさかのぼるものだったのである。新撰字鏡の「渓」に「澗也、谿也、太尓、佐波」とあるだけで、「や」の訓はみえない。畿内の人に無視された東日本の俚言だったのだろうか。『日本国語大辞典』第二版は、越谷吾山『物類称呼』(一七七五)の「谷 江戸近辺にてやと唱ふ」を初出とするが、米沢文庫本『倭玉篇』の「谷」字の訓に「タニ ヤシナウ キワマル ヤ」とある。この写本の成立の経緯は知らないが、ヤが、四つの訓の最後にあげられていることもあり、興味ぶかい事実だとだけはいっておこう。
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