小浜市街の南、南川の左岸
後瀬山は『万葉集』巻四の坂上大嬢と大伴家持の贈答歌に
かにかくに人は言ふとも若狭道の | 後瀬の山の後も逢はむ君 | 坂上大嬢 |
後瀬山後も逢はむと思へこそ | 死ぬべきものを今日までも生けれ | 大伴家持 |
と歌われ、『枕草子』の「山は」の段も「後瀬の山」をあげる。歌枕でもあり、また謡曲「氷室」には「我丹後の九世の戸に参り、既に下向道なれば、これより若狭路にかかり、津田の入江青葉後瀬の山をも一見し、それより都に帰らばやと存じ候」と謡われる。「丹後の九世の戸」とは天橋立の南端に向かいあって建つ智恩寺(九世戸の文殊堂)を指し、「青葉」は若狭・丹後の国境にそびえる青葉山をいう。「津田の入江」は「津田の津」として歌学書『能因歌枕』に載る名所で、伏原の字津田辺りに比定される。
なお、山の椎の実は後瀬山の代名詞にもなった名産で、『御湯殿上日記』に武田氏より椎の実を献上する記事が散見され、三条西実隆に次の歌がある。
をろかなる跡も後せの山におふる | しゐて千とせのかたみとをみよ |
後瀬山城は大永二年(一五二二)武田元光の築城になる(若狭郡県志)。元光の父元信の代まで、武田氏は若狭・安芸および名目上は丹後守護も兼ねるかなりの勢力であったが、永正四年(一五〇七)の丹後侵攻で敗退、同一四年に一族の重臣逸見氏が丹後守護代と語らい反乱を起こすなど、元光が家督を継いだ頃は内外ともに緊迫した状況にあった。従来の防備では対処できず、より強固な要害として当城を築いたものであろう。『若狭国伝記』は「数千人の人数を以て石垣を築、櫓を建て要害を構え玉ふ、是は武田殿居城平城なるに依て軍用のため今如是」と記している。城主は元光・信豊・義統と続き、その子元明が永禄一一年(一五六八)朝倉氏によって越前へ拉致されるまで、四代四六年間守護の本城として存続した。その後天正元年(一五七三)以降、若狭国主として入部した丹羽・浅野・木下氏と受継がれたが、慶長五年(一六〇〇)京極高次が若狭に入部するに及んで小浜城が築かれ、廃城となった。
城は山頂に主郭を置き、南北五〇〇メートル、東西三五〇メートル、主郭から先端郭までの比高一一八メートル。東西斜面はかなり急で、とくに伏原に面した東側が険しい。したがって城郭は西側に集中し、東では竪堀が一条みられるのみで郭はない。
武田氏の若狭守護職は永享一二年(一四四〇)信栄の時に始まるが、信栄の弟信賢が若狭支配を固め、そののちは弟国信が相続した。彼は連歌師宗祇と親交があり、また飛鳥井栄雅を小浜に招いており、宗祇も小浜を訪れている。国信の孫元信は歌道を三条西実隆より学び、『古今集』等古典を蒐集、蹴鞠の飛鳥井雅康との交渉もあった。在国中永正一二年(一五一五)には宗長が越前より上洛の途、小浜の元信館の連歌会に列している。元光も実隆と交流があり、武家故実書の作成に努めている。信豊の代にも連歌師宗養・周桂らが当地を訪れた。
応仁の乱後多くの守護大名は本国に帰ったが、武田氏は乱後も在京が多かった。信豊のあとを継いだ義統が将軍義輝の妹を妻に迎えているように幕府とのつながりも深かった。それだけ京都の文物受容に熱心であり、それへの憧憬も強いものがあったようだ。
後瀬山の枝峰北側の山裾に、元信が文亀二年(一五〇二)創建したと伝える福応山
同じく後瀬山東側山裾には元光の創建と伝える霊松山
(H・M)
初出:『月刊百科』1981 年12月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである