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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第56回 野沢
【のざわ】
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湖底から生まれた宿場町
福島県耶麻郡西会津町
2011年09月30日

福島県郡山市と新潟県新津市とを東西に結ぶJR磐越西線は、郡山駅で東北本線・東北新幹線に接続して、会津地方と首都圏とを繋ぐ貴重な交通路となっている。同線のうち郡山―会津若松・喜多方間は沿線に磐梯山ばんだいさん猪苗代湖いなわしろこなど著名な観光拠点があって賑うものの、喜多方以西の利用客は滅法少なくなる。ところで、観光客のほとんどいなくなった喜多方駅を過ぎた頃から、下り列車は阿賀川あががわ(福島県側の呼称で新潟県側では阿賀野川とよび、古くは揚川と記した)に寄り添うように走り始め、新潟県の津川つがわ駅・三川みかわ駅あたりまで同川の渓谷美を堪能する山中の旅が続く。ただ、喜多方―津川のほぼ中程、野沢駅付近では野沢盆地・野沢平などと称される小平地が開け、この間、路線も少し阿賀川から離れる。

野沢駅のある福島県耶麻郡西会津町大字野沢は江戸時代には野沢原町のざわはらまち村・野沢本町のざわもとまち村の二村を中心とする六ヵ村からなり、陸奥国河沼かわぬま郡に属して会津藩領であった。原町村・本町村の二ヵ村は、会津藩の城下町若松わかまつ(現会津若松市)から越後方面へ向かう主要道、越後街道の宿場町として繁栄した。現在、西会津町など阿賀川中流域の各町村はいずれも過疎の問題を抱えているが、江戸時代には越後街道をはじめとする阿賀川沿いの山道を利用して会津藩の年貢米が上方へと運び出され、逆に山国には貴重な塩や海産物がもたらされた。いわば会津地方の経済を支える大動脈であり、人の往来も盛んであった。
ところで、この野沢地区を中心とする野沢盆地が、かつてうし海とよぶ湖の底であったとの伝承が残されている。文化六年(一八〇九)に成立した会津藩の官撰地誌『新編会津風土記』には次のような記載がある。

相伝ふ、此地往古揚川の水道塞り、其水数里の外に洋溢して遂に一大湖となり、平衍の村落民業を失ひ、漸々に山陵に登り、各自に家居をなせしが何の頃にか下野尻村の北銚子口と云山隘の口決し、其水大に潰て忽平地となりしとぞ、今猶山中に水の湛へし跡往々残れり。

西会津町の西端、新潟県境に位置する阿賀川の峡谷、銚子口ちょうしのくちが堰止められて水が溢れ、上流の野沢盆地まで湛水したというのだ。

盆地状の低地が古く湖底であったとする話は各地に残されている。熊本県阿蘇地方では筑紫平定のため阿蘇国に下った健磐龍命たけいわたつのみことが、国中が水海となっているのを見て、阿蘇外輪山の西側を蹴落として白川しらかわの流れをつけ、水を落として国造りを始めたと語り継がれている。実際に数多くの盆地で、湖の時代に形成された地層(湖成層)が確認されている。しかし、会津若松や喜多方の市街地がある会津盆地の湖成層が七〇〇万‐一八〇万年前と推定されるように(『山都町史』)、ほとんどの場合、水底であった時代は有史以前の気が遠くなるような昔のことであり、だからこそ阿蘇地方のような神々の活躍する言い伝えとなるのであろう。
しかし、野沢盆地では趣がいささか異なる。たとえば水が溢れ始めたとき、人々は大同年中(八〇六‐八一〇)の創建と伝える如法寺にょほうじの山中に逃げ込んだという。また、野沢熊野神社の縁起書によれば野沢原町村の草分け六家によって文亀―大永年中(一五〇一‐二八)頃までに現街区の原形となる町割が行われ、人々は水を避けて散居していた山腹から低地に移ったとされる。野沢が水底にあったのは明らかに歴史時代のことであった。そして、その期間は最長で九世紀から一六世紀までの七〇〇年間ということになる。だが、慶長一六年(一六一一)会津地方を襲った大地震で、野沢の上流山崎やまざき村(現喜多方市)付近で阿賀川が塞がれ、二三ヵ村を水没させて東西三五町余・南北二〇町余の山崎新湖が生じた際、同湖は寛文(一六六一‐七三)頃までに消滅しており(『会津旧事雑考』など)、野沢盆地が水を湛えていたのも数十年ほどと推定するのが妥当といえようか。では、それはいつ頃のことであったのだろうか。

『愚管抄』の著者として知られる天台座主慈円(一一五五‐一二二五)の家集『拾玉集』には注目すべき次の二首が収められている。

あづまぢやのざはのかつみけふばかりあやめの名をもかりてけるかな

のざはがた雨ややはれて露おもみ軒によそなる花あやめかな

『新編会津風土記』と同時代の地誌『会津鑑』では前者の「のざは」を当地に比定している。もちろん野沢という地名は「あづまぢ」(東国)に限っても温泉で高名な信州野沢など幾つかあり、また、この「のざは」は地名ではなく単に野辺の沢をいう一般的な詞ともとれる。しかし仮に、『会津鑑』の比定が正しく、また「あやめ」の花を仲立として後者が前者と同一の地を詠んだものであったとすれば、野沢盆地が「のざはがた」であったのは慈円が生きた平安末期から鎌倉初期ということになる。もちろん、あくまでも推測の域を出るものではないが、東京大学地震研究所編の『新収日本地震史料』によると嘉応元年(一一六九)一二月、会津地方に強い地震があったという。

 

(H・O)


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初出:『月刊百科』1992年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである