日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第6回 琉球語と地名研究の可能性(2)

2007年07月06日

音読みから訓読みへ

 糸満市波平(なみひら)も読谷(よみたん)村波平(なみひら)も方言ではハンジャという。ナミヒラからハンジャへの変化は想定しにくく、「波平(なみひら)」とハンジャは結びつけにくい。しかし、「波平」をハビラと読んだと仮定すると、疑問は氷解する。「油」を方言でアンダといい、「脹脛(ふくらはぎ)(こむら)」をクンダというように、波平(ハビラ)のばあい、「ビ」(イ段の母音)は後続する音を破擦音化させる。そしてそのあとで、ビは撥音になるので、ハビラからハンジャとなるのは自然な変化である。しかし、波平を音読みから訓読みに変えた結果、方言形とつながらなくなったのである。
 西原町坂田(さかた)は、漢字表記から「坂道や斜面にある田んぼ」が語源なのかと考えてしまった。しかし、この地名の方言形がハンタで、「坂」の字の音読みを利用して「坂田(ハンタ)」と漢字表記したのだが、後になってそれを訓読みにしたらしいことを知った。ハンタは方言では「切り立った崖や崖っぷち」そして「端、端っこ」という意味の単語である。類似の地名には那覇市繁多川(はんたがわ)、具志川市繁多原(はんたばる)などがあるが、これも方言のハンタと関係する地名であろう。
 波平や坂田の漢字表記は字義がもとになっているのではなく、読みを利用した万葉仮名風の表記である。そして、漢字の読みを音読みから訓読みに変えることによって方言形から離れてしまった。漢字の字義に引きずられると、その地名の原義がわかりにくくなってしまう。
 琉球における地名の漢字表記は、字義と読みが結びついていきているばあいもあるが、万葉仮名風に読みだけが利用されることも少なくない。地名の漢字表記は、当時の発音を反映しているばあいがあり、それと方言形とをつなげることが大切である。語源を考えるとき方言形は重要な手がかりを与えてくれるのである。

歴史言語学への寄与

 琉球語では「せま母音化」とよばれる大きな変化がおきている。オ段の母音oがuに変化し、エ段の母音eがiに変化する現象などである。せま母音化の影響は、当然、地名表記にもみられる。そして、地名表記は歴史言語学的に興味深いことをおしえてくれる。

行政区画変遷・石高一覧

瀬利覚

※ 画像をクリックすると別ウィンドウが開き、画像が表示されます

 瀬利覚(じっきょ)、勢理客(じっちゃく)などの地名の祖型をゼリカコと推定したのだが、その表記は語頭の漢字に瀬(せ)、勢(せ)が使用されていることからエ段がイ段に変化する以前のものであり、末尾の漢字に覚(かく)、客(きゃく)が使用されていることからオ段がウ段に変化したあとのものであることがわかる。そのことはエ段のせま母音化よりもオ段のせま母音化が先におこったことを示唆している。また、沖永良部島や奄美大島では、前述のように母音のaとoに挟まれたkがhに変化してコがフになるのだが、瀬利覚(じっきょ)、勢理客(じっちゃく)などの表記は、その変化がオ段のウ段への変化のあとだったことを示唆している。歌手の元ちとせの故郷として広く知られるようになった鹿児島県瀬戸内町嘉徳(かとく)は、方言でカドホというが、この地名も「徳」の字を用いたあとに「ク」のkがhに変化したことを裏付けている。
 浦添市勢理客に「勢理客」の漢字をあてたとき、それがその当時の発音をある程度正確に反映していたとするなら、カがキャに変化したのはそれ以前であり、キャがチャに変化したのは、それ以降である。また、沖永良部方言で語中のkがhに変化するのは、知名町瀬利覚の表記がなされた以降のことである。地名表記と現在の方言語形の検討をとおして、それぞれの変化のおこった年代が推定できないだろうか。
 琉球語にはたくさんの音韻変化があるが、複数の異なる地域の表記を詳細に検討することによって、琉球語におこった音韻変化を順序づけることができるし、その変化のおこったおおまかな年代を特定することが可能になる。実際の発音と表記とのあいだにはずれのある可能性もあるし、実際の発音はすでに変化しているのに文字表記が保守的で古い表記を踏襲していることもあるので、そこは慎重におこなわなければならないのだが、地名の表記が琉球語の歴史言語学的研究の重要な材料になるのはまちがいない。

琉球列島の基層語

 琉球列島からは約三万年前の人骨が発見されている。沖縄本島南部の具志頭(ぐしかみ)村港川(みなとがわ)の一万八千年前の「港川人」と名付けられた人骨は、日本人の起源を解明するうえで重要なものとして有名である。その一方で、琉球語が日本祖語から分岐したのが弥生時代末期から古墳時代にかけての時期だと想定する研究者は多い。もし、琉球語が弥生時代以降に日本祖語から分岐し、南下して琉球列島にひろがったとするなら、港川人たちが話していたのは日本語ではなく、日本語とは別の基層語を想定しなければならない。
 一〇世紀以前の宮古・八重山諸島の遺跡から出土した遺物は、南方に起源をもつものであるといわれ、この地域の土器文化は縄文、弥生文化の影響をうけていない。この地域が沖縄・奄美諸島と同じ文化圏に属するようになるのは、一〇世紀以降だという。それ以前に宮古・八重山諸島にすんでいた人々はどんなことばを話していたのだろうか。
 琉球列島にすむ我々は、港川人たちの直接の子孫なのか。本土から南下してきた日本語を話す人々の子孫なのか。それとも、ふたつの血が混じっているのだろうか。残念ながら、現在の琉球語研究は琉球人の起源をめぐる議論の入り口にすら到達していない。これまでの琉球語研究は基礎語彙を収集したり、『類聚名義抄』に由来する語のアクセントを調査したりしてきた。その結果、きわめて多くの日本語との規則的な対応が見いだされた。それは琉球列島の島々の方言で確認されていて、琉球語研究のおおきな成果である。しかし、これまでの研究では基層語を特定することはできなかった。
 基層語はどんな言語で、現在の琉球語にどんな影響をあたえ、どのような形でのこっているのか。南下した人々が持ち込めなかった亜熱帯に固有の植物や小動物、貝類や魚の名称にその痕跡を残していないか。あるいは、その民族誌的な情報のなかに手がかりがないか。詳細な語彙の調査と研究が必要である。
 そして、地名は基層語の特定にとって重要な手がかりを与えてくれるものである。東北地方にのこる蝦夷・アイヌ系言語起源の地名のように、琉球列島の地名に基層語の痕跡は残ってはいないだろうか。琉球列島の基層語を特定するための地名の調査、研究、地形や地質にかかわる語とそれに関する情報の収集と研究の仕事は緊急を要する。性急な日本化と近代化によって、伝統的方言を記憶する人が加速度的に減少しているからである。
 いま、琉球列島の基層語の特定はできていない。しかし、二一世紀中には可能になるかもしれない。科学の発展は、他領域のおもいがけない発見に触発されて飛躍的におこなわれることがある。偉大な発見は地道な研究の上になされ、その発見がつぎのあたらしい方法論をうみ、不可能とおもわれていた仮説の検証を可能にする。
 地名研究も地道な作業であるが、夢のようなことを考えながら地図をながめ、「日本歴史地名大系」の頁をめくるという楽しみができた。

初出:『歴史地名通信』<月報>50号(2005年・平凡社)

1|2|

前のページへ



該当記事は存在しません