加賀・越前・美濃の三国にまたがる霊峰
白山の開創には諸説あるが、「泰澄和尚伝記」によると、養老元年(七一七)「越の大徳」とよばれた泰澄が山頂に登り、神々を拝したのが開山と伝えられる。天長九年(八三二)には白山三馬場が開かれ、白山信仰の拠点となるが、白山の縁起である「白山之記」は「三ヶ馬場者、加賀馬場・越前馬場・美乃馬場ナリ、加賀ノ馬場ハ本馬場也」と記し、加賀馬場の優越性を強調している。これが「加賀の白山」とよばれる由縁である。馬場とは白山禅定道(登山道)の起点、すなわち里宮(遥拝所)の所在地のことで、加賀馬場は白山本宮・白山寺(現石川県鶴来町の白山比神社)、越前馬場は白山中宮
牛首・風嵐両村にも、泰澄にまつわる伝承がある。幕末の成立とされる白山麓十八ヶ村留帳(織田文書)によると、泰澄は養老元年に風嵐村を、同二年に牛首村を開いたとされ、古刹
白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐる対立が顕在化し、長期にわたる白山争論と江戸時代初期の白山麓十八ヶ村の成立を招くことになる。天文一二年(一五四三)平泉寺の寺衆と結んだ牛首・風嵐両村は、権現堂造営を行ったが、これは白山山上のものと思われる。これに対し、白山本宮長吏が異議を唱えたのに端を発し、争いは両村と尾添村(現石川県尾口村)との間の白山諸堂造営に関わる杣取(木材の伐採)権争いへと発展した。
その一方で、加賀・越前の一向一揆を鎮圧した織田信長の家臣柴田勝家の手によって、手取川沿いの牛首・風嵐・
明暦元年(一六五五)加賀藩前田家の白山山上堂社建立発願により尾添村に杣取が命じられ、再び牛首・風嵐両村との争いが勃発し、加賀藩と福井藩との藩境争いに拡大していった。「白山争論記」は、「十六ヶ村之者を相催シ、弓・鉄砲を持、石倉をつき、はり番を置、加州より之建立ヲ妨可申由、理不尽之裁許ニ御座候」と、加賀藩が越前側の行為を幕府に訴えた様子を記している。争論はその後も決着せず、寛文八年(一六六八)幕府は前記十六ヶ村と尾添・荒谷の二村を収公することで、解決を図った。これが幕府直轄領の白山麓十八ヶ村の成立で、加賀藩は「加賀の白山」の名称を失うことになった。
しかし争いは止まず、牛首・風嵐側は比叡山延暦寺・平泉寺と、尾添側は高野山金剛峯寺・白山寺との関係を強め、争論はたびたび繰り返された。寛保三年(一七四三)幕府は改めて裁定を下し、白山山頂の支配権をすべて平泉寺に与え、「加賀の白山」の呼称は名実ともに失われた。白山争論は、境界や寺社の利権などをめぐる問題が複雑に絡み合った争いであったが、実質的には杣取をめぐる村々の生活権に関わる問題でもあったといえよう。
越前国所属の十六ヶ村は廃藩置県を経て、のち福井県所属となるが、石川県側の強い誘いによって、明治五年(一八七二)石川県
(A・K)
初出:『月刊百科』1991 年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである