日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第77回 牛首・風嵐
【うしくび・かざらし】
70

白山争論と白山麓十八ヶ村
石川県石川郡白峰村
2013年03月22日

加賀・越前・美濃の三国にまたがる霊峰白山はくさんは、「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山三国一じゃよ」と民謡に歌われる。白山信仰でも名高く、その名が示すように神々が座す白きたおやかな峰として知られ、その西麓に白山にちなんだ村名をもつ白峰しらみね村が広がっている。現在の石川郡白峰村の中心は、かつて東洋一のロックフィルダムとして偉容を誇った手取川てどりがわダムの貯水湖上流部に位置する大字白峰である。この地には、古くから牛首うしくび風嵐かざらしという二つの村が成立していた。

白山の開創には諸説あるが、「泰澄和尚伝記」によると、養老元年(七一七)「越の大徳」とよばれた泰澄が山頂に登り、神々を拝したのが開山と伝えられる。天長九年(八三二)には白山三馬場が開かれ、白山信仰の拠点となるが、白山の縁起である「白山之記」は「三ヶ馬場者、加賀馬場・越前馬場・美乃馬場ナリ、加賀ノ馬場ハ本馬場也」と記し、加賀馬場の優越性を強調している。これが「加賀の白山」とよばれる由縁である。馬場とは白山禅定道(登山道)の起点、すなわち里宮(遥拝所)の所在地のことで、加賀馬場は白山本宮・白山寺(現石川県鶴来町の白山比口へんに羊神社)、越前馬場は白山中宮平泉へいせん寺(現福井県勝山市)、美濃馬場は白山本地中宮長滝ちょうりゅう寺(現岐阜県白鳥町)であった。

牛首・風嵐両村にも、泰澄にまつわる伝承がある。幕末の成立とされる白山麓十八ヶ村留帳(織田文書)によると、泰澄は養老元年に風嵐村を、同二年に牛首村を開いたとされ、古刹林西りんさい寺(現白峰村)の縁起などは、泰澄が白山麓に牛頭天王を祀る薬師堂を創立、同地を「牛頭」と称したとする。一方、浄光じょうこう寺(現白峰村)に伝わる「白山禅定本地垂迹之由来」は、同年泰澄が岩根いわね宮を建立、この地が風も嵐も激しかったので、風嵐と名付けられたとしている。さらに興味深いのは、天平宝字八年(七六四)の朝廷内のクーデターで敗れ、近江国三尾みお崎(現滋賀県高島町)で斬罪に処せられた(「続日本紀」同年九月一八日条)はずの恵美押勝が脱出に成功、越前の越知おち山で泰澄に出会って出家し、牛首に身を隠して林西寺を開いたという伝承である(林西寺縁起)。しかし牛首・風嵐の地は、白山本宮から尾添おぞう川に沿って登る加賀馬場禅定道、平泉寺から越前・加賀国境を経て手取川最上流部のいち(現白峰村)に至る越前馬場禅定道のルートからはずれており、泰澄との関連を強調する伝承は、むしろ白山争論において、自らの立場を有利に導こうとする意図のもとに生み出されたものかもしれない。

白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐる対立が顕在化し、長期にわたる白山争論と江戸時代初期の白山麓十八ヶ村の成立を招くことになる。天文一二年(一五四三)平泉寺の寺衆と結んだ牛首・風嵐両村は、権現堂造営を行ったが、これは白山山上のものと思われる。これに対し、白山本宮長吏が異議を唱えたのに端を発し、争いは両村と尾添村(現石川県尾口村)との間の白山諸堂造営に関わる杣取(木材の伐採)権争いへと発展した。
その一方で、加賀・越前の一向一揆を鎮圧した織田信長の家臣柴田勝家の手によって、手取川沿いの牛首・風嵐・しま下田原しもたわら(現白峰村)、深瀬ふかぜたに釜谷かまたに五味島ごみしま二口ふたくち女原おなはら瀬戸せと(現尾口村)、大日だいにち川上流部の新保しんぽ須納谷すのだに丸山まるやまつえ小原おはら(現石川県小松市)の十六ヶ村は、加賀国から越前国の所属へと変更された。江戸時代に入り、この十六ヶ村が親藩の越前福井藩領から幕府領福井藩預地へと推移したのに対し、尾添・荒谷あらたに(現尾口村)の二村は外様大名の加賀藩領となった。

明暦元年(一六五五)加賀藩前田家の白山山上堂社建立発願により尾添村に杣取が命じられ、再び牛首・風嵐両村との争いが勃発し、加賀藩と福井藩との藩境争いに拡大していった。「白山争論記」は、「十六ヶ村之者を相催シ、弓・鉄砲を持、石倉をつき、はり番を置、加州より之建立ヲ妨可申由、理不尽之裁許ニ御座候」と、加賀藩が越前側の行為を幕府に訴えた様子を記している。争論はその後も決着せず、寛文八年(一六六八)幕府は前記十六ヶ村と尾添・荒谷の二村を収公することで、解決を図った。これが幕府直轄領の白山麓十八ヶ村の成立で、加賀藩は「加賀の白山」の名称を失うことになった。
しかし争いは止まず、牛首・風嵐側は比叡山延暦寺・平泉寺と、尾添側は高野山金剛峯寺・白山寺との関係を強め、争論はたびたび繰り返された。寛保三年(一七四三)幕府は改めて裁定を下し、白山山頂の支配権をすべて平泉寺に与え、「加賀の白山」の呼称は名実ともに失われた。白山争論は、境界や寺社の利権などをめぐる問題が複雑に絡み合った争いであったが、実質的には杣取をめぐる村々の生活権に関わる問題でもあったといえよう。

越前国所属の十六ヶ村は廃藩置県を経て、のち福井県所属となるが、石川県側の強い誘いによって、明治五年(一八七二)石川県能美のみ郡に越県編入され、再び「加賀の白山」が甦った。なお、白峰村が能美郡から現在所属の石川郡に編入されたのは、昭和二四年(一九四九)のことである。

 

(A・K)

江戸時代には牛首村、風嵐村とよばれていた白峰地区

<
Googleマップのページを開く

初出:『月刊百科』1991 年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである