日蓮宗総本山の身延山
身延市街のはずれから北に向かう参道を進んで巨大な三門をくぐると、杉林の先に「高齢者や心臓の弱い者は、石段両側の男坂・女坂を利用すべし」と記された看板の立つ二八七段の石段がある。
日蓮が身延山に入ったのは、文永一一年(一二七四)のこととされる。文化一一年(一八一四)に成立した地誌『甲斐国志』は、ミノブの地名は古くは「蓑夫」と記したが、日蓮がこの地に来住して「身延」に改めたと記す。『西行法師家集』に「雨しのぐみのぶの郷のかき柴にすだちはじむる鶯のこゑ」の歌が載り、この詠歌を収録する『夫木和歌抄』は「みのぶのさと 甲斐」としており、日蓮来住以前にミノブの地名が存在したことは確かなことと思われる。ただし、その表記が「蓑夫」であったという確証はない。
文永一一年二月、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰った日蓮は、鎌倉幕府に自らの意見が受け容れられなかったため、甲斐国波木井郷(現身延町)の地頭波木井六郎実長(甲斐源氏の一流南部光行の子)の招きに応じ、五月一七日に波木井郷で実長に対面した。日蓮が身延の地に足跡を刻んだはじめである。翌六月一七日には身延山中に草庵が完成、身延での隠遁生活が始まった。
日蓮は身延から数多くの書状を弟子たちへ発している。そのうち身延入山の翌年、文永一二年のものと推定される二月一六日付の書状(日蓮聖人遺文、以下書状はすべて同遺文所収)に「身延の嶺と申大山あり、東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり、高き屏風を四ついたてたるかことし」とあるように、「身延の嶺」=身延山を自らの草庵の位置を示す北界の指標として表現している。ちなみにこの書状に「西は七面の嶺」とみえる
ところで、日蓮が身延での草庵生活を始めて六年後、弘安三年(一二八〇)正月二七日付の日蓮書状には「庵室を結て天雨を脱れ、木の皮をはきて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし」などと記されており、草庵での生活は相当厳しかったようである。なお前掲の二月一六日付書状には「峯に上てみれは、草木森森たり、谷に下てたつぬれは、大石連連たり、大狼の音山に充満し、猨猴のなき谷にひひき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひひきかまひすし」とも記されており、日蓮の隠遁生活は身延山の自然に抱かれたものであった。
最初の草庵は建治四年(一二七八)頃には老朽化し、「なをす事なくて、よるひをとほさねとも、月のひかりにて聖教をよみまいらせ」るというような有様であった(建治年間「日蓮書状」)。「庵室を結て天雨を脱れ……」と記される正月二七日付書状はその二年後ということになる。しかし、翌弘安四年に波木井実長とその一族によって一〇間四面の新坊が建立され、その新坊は身延山久遠寺と命名されたという。
弘安五年九月八日、日蓮は養生のため常陸国に向けて出立した。ところが、旅中の一〇月一三日に武蔵国
本堂の西方、日蓮祖廟がある
(A・K)
身延川の左岸、身延山の南東麓に久遠寺はある
初出:『月刊百科』1995年12月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである