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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第45回 狄森古墳群
【えぞもりこふんぐん】
38

律令国家支配の北辺
岩手県紫波郡矢巾町
2010年10月29日

古墳時代は一般に六世紀頃までといわれるが、岩手県においては円墳によって構成される七世紀以降の群集墳が多い。これらの群集墳は北上川流域に集中するほか、同川に西から合流する雫石しずくいし川・和賀わが川流域の自然堤防や段丘上に点在している。一帯は北上盆地と呼ばれる平地で、現在岩手の穀倉地帯となっている。
狄森古墳群も北上川流域に分布する群集墳のひとつである。JR東北本線矢幅やはば駅の北東約二キロ、国道四号付近の微高台地上に位置し、周辺は水田である。県の史跡に指定されており、築造時期は出土遺物から奈良時代末期と考えられている。昭和四四年(一九六九)に古くから確認されていた三基の古墳のうち二基が発掘調査された。二基とも主体部は川原石を積んだ積石石室であったらしい。周湟は一基は不明、一基は南東部に開口部を有する馬蹄形状で、上幅一・五四メートル、深さ九四センチ。副葬品は一基から刀子が検出されたのみであった。
昭和五九年史跡指定外地域における調査の結果、新たに八基の古墳が確認され、当古墳群は合計一一基となった。八基のうち二号墳と五号墳が調査され、二号墳の周湟部から一七個の勾玉が出土し、五号墳主体部からは直径約三~四ミリのガラス玉約一二〇〇個、瑪瑙・翡翠の勾玉六〇個、ミカン玉一個が出土した。ミカン玉は皮をむいたミカンのような形状をなし、かなりの製作技術を要することから中央における製作と考えられている。

類似する名前をもつ群集墳として、北方、盛岡市上太田かみおおた太田蝦夷森おおたえぞもり古墳群と、同市黒石野くろいしの上田蝦夷森うえだえぞもり古墳群がある。太田蝦夷森古墳群は狄森古墳群と同様奈良時代末期の古墳群とされ、和同開珎・勾玉・管玉・ガラス小玉・植物種子などが検出された。上田蝦夷森古墳群は七世紀後半のものとされ、副葬品として土師器の小型甕・琥珀・環状錫製品・刀子と鉄製の胄を出土した。このうち鉄製胄は古墳時代のものとして県内初めての発見で、東北地方でも原形をとどめている例はないといわれている。
これらの古墳群が築造された時期、当地方は律令国家の領域、すなわち陸奥国に含まれてはいなかった。たとえば狄森古墳群がある紫波しわ郡は、九世紀に入っての弘仁二年(八一一)に和賀郡・稗貫ひえぬき郡とともに建置されたのであり(『日本後紀』同年一月一一日条)、遺跡名が示すように七~八世紀にはまだ蝦夷の世界であった。しかし、だからといって中央との接触が一切なかったわけではない。それは古墳の出土品からも、また六国史などの文献からもうかがうことができる。古墳の被葬者は、陸奥国の外部にありながら、律令政府と何らかの関係を結んでいたものと推定できよう。

律令政府による蝦夷進攻およびその経営は、陸奥国の領域拡大を意味した。八世紀初頭に多賀たが城(現宮城県多賀城市)が造営され、鎮守将軍・按察使などが任命された。神亀元年(七二四)頃には陸奥国府も同城に置かれ、蝦夷経営のための中枢機関となった。その後蝦夷経営は軍事的色彩を強くし、天平宝字二年(七五八)に桃生ものう城(現宮城県桃生郡河北町)、神護景雲元年(七六七)に伊治これはる城(現同県栗原郡築館町)が造営されるなど(『続日本紀』)、国家支配は北進していく。
『続日本紀』宝亀七年(七七六)一一月二六日条によれば「胆沢賊」を陸奥軍三〇〇〇人が攻めており、戦線が岩手県の胆沢いさわ地方にまで及んだことが知られる。延暦二一年(八〇二)末頃までに胆沢城(現水沢市)が、翌二二年には志波しわ城(現盛岡市)が坂上田村麻呂を造城使として造営され(『日本紀略』)、律令政府の前進基地はさらに北上した。弘仁二年、志波城は雫石川の水害などを理由に、文室綿麻呂によって廃城の建議がなされ(『日本後紀』同年閏一二月一一日条)、同四年頃までに、かわって徳丹とくたん城(現矢巾町)が造営されている。『日本後紀』同五年一一月一七日条には、徳丹城周辺などの「狄俘」を警戒し、非常用の米・塩を備えることなどとみえる。
現在、胆沢城・志波城・徳丹城とも発掘調査によってその跡地が確定されているが、志波城跡と太田蝦夷森古墳群、徳丹城跡と狄森古墳群はそれぞれ近接し、古代における城柵立地と先住古代集落との関連を考える上で、貴重な例を提供している。

なお狄森古墳群は江戸時代から人々の注目を集めていた。『雑書』寛文一二年(一六七二)四月二二日条に蝦夷えぞ塚とみえ、藤沢ふじさわ村(現矢巾町)の畑中藤三郎なる者が塚から太刀・金具を掘り出したという。また『増補行程記』には「ゑぞガ森」と記して塚が描かれ、寛政一二年(一八〇〇)の東山道中通道中行程記(盛岡市立図書館蔵)は、藤沢村のことを蝦夷森村とし、「左に稲荷の宮あり、右にケモノヘンに犬の字塚三つあり、民家の後にも二つあり、これ賊乱の夷狄を埋めたる塚なりといふ。或る農民密かにこの塚の傍を穿ちたるに武具の類、鎧、鉾、剣、鍬等その外骨髪出たりといふ」と記している。江戸時代、この地方の住民が蝦夷をどのように考えていたのか興味をそそられる。

(K・O)

狄森古墳群は、東北本線と北上川に挟まれた水田地帯にある。


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初出:『月刊百科』1990 年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである