岡山市
備前岡山藩三一万五千石の城下町として栄えた岡山は、天正元年(一五七三)岡山(石山)城に入城した宇喜多直家と嗣子秀家の居城時代(慶長五年まで)に町の骨格が形成された。直家入城以前は「岡山・石山・天満三峰そばたち、南は海にのぞみ、東西は広野也。北にわづかの里民有て出石村也朝夕の煙たつばかり也」という辺鄙な地で、城の周辺にも「定まれる町数もなく、所々に五軒十軒の家並で日を極めて市を立たり」という有様であったが(和気絹)、直家の入城後は家臣も移り住んで繁華になったという。直家を継いだ秀家は、旭川を城下北方で二流に分けて洪水に備え、山陽道を南に付替えて城下を通過させるなどの整備を推し進めた。「秀家岡山城外を拵、備前・美作両州之大身之侍とも呼出し」(備陽記)と領内武士のさらなる城下集住を図り、商人や職人の城下移住を促進させるため、町人町では開発者の名や住人の出身地名を町名とすることを許している。
関ヶ原の役で西軍に属し敗走した秀家に代わって、慶長六年(一六〇一)小早川秀秋が岡山に入部。しかし秀秋はわずか二年で病没し、同八年池田忠継が備前に封ぜられる。以後、幕末に至るまで池田家が代々岡山藩主であった。
近世の城下町は極めて計画的に造られた都市である。軍事・行政・経済など様々な目的のために、城主の家臣団や領内外の商工業者たちを農村から切り離して城下に集め、武家・町人の身分や各業種別ごとに居地を区切った。現在の県庁所在地をはじめとする地方中核都市の多くは、江戸時代の城下町を母胎としている。これらの都市に御徒士町・千石町・鍛冶町・肴町など身分や職種を冠した共通の地名(町名)が見出されることは広く知られている。また周辺の町・村名と同じ町名が幾つもある城下町も類例を挙げればきりがない。岡山城下の
文久三年(一八六三)の備前岡山地理家宅一枚図(池田家文庫)は肉筆彩色の家中屋敷割図で、町屋の町名も記載される。同図では城下と美作国を結んで南北に走る街道(津山往来)と旭川に挟まれた区域がほぼ出石町で、南から下・中・上の三町に区切られている。下・中の二町は街道の西側が武家屋敷となっている片側町で、上出石町は両側町。町内には二、三の武家屋敷もみえ、中出石町と御後園の間には仮橋が架けられている。かつてこのあたりは前掲「和気絹」で「出石村也」と注記のある「わづかの里民」が住する地であった。しかし、藩士大沢惟貞により編まれた岡山藩の総合資料集ともいうべき「吉備温故秘録」などによれば、宇喜多直家の時代に一帯に町立がなされ、下出石村の地に下出石町、上出石村の地(前掲一枚図では中出石町付近)に上出石町が生まれたという。その後も町勢は衰えず、寛永(一六二四‐四四)末から正保(一六四四‐四八)の初め頃、上出石町の北側に新たに上出石町を開き、従来の上出石町を中出石町と改めている。御後園に渡る
一方、退転を余儀なくされた上・下の両出石村は、出石町町立と同時に西南方向に約六〇〇メートルほど離れた地にそれぞれ集落を移す。上出石村は前掲一枚図の城下
出石は古い地名である。承平年間(九三一‐九三七)に成立したとされる「和名抄」には備前国
(H・O)
初出:『月刊百科』1988年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである