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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第27回 岩蔵
【いわくら】
20

近世に消えた地名
石川県輪島市
2009年05月15日

能登半島の北岸部、輪島市の東部に旧町野まちの町地区と呼ばれる地域がある。
町野町は昭和一五年(一九四〇)‐同三一年の間に存在した行政地名で、現在は存在しない。町野の名は『和名抄』に載る鳳至ふげし待野まちの郷に淵源すると考えられ、中世には町野庄が成立しており、旧町野町地区はこの町野庄域の大部分にあたると推定されている。同地区の北端にある岩倉いわくら山の麓一帯は、かつて岩蔵と呼ばれていた。
『太閤記』の作者、小瀬甫庵に「算勘にしわき男」と評された豊臣秀吉は、儒教の仁政の理念に覆われる以前のむき出しの近世を具現化した人物といえる。太閤検地・刀狩・身分統制令などの彼の施策は、全国を貫くスケールの統一を企図し、在地領主制の解体、兵農分離、石高制に基づく統一的な知行などを目指すものであった。事がスケールの統一である以上、ここ岩蔵にもその網の目はかけられることとなった。

岩倉山の西麓にあたる南時国みなみときくにの上時国家には天正四年(一五七六)の下町野之庄岩蔵の「年貢算用状」が伝わっている。この文書は当時の領主仁岸氏を通して七尾の長氏宛に納めた年貢に関するもので、差出人として「惣百姓中」「寺家中」の文言が残るなど、中世後期の色合いを止めている。これによれば岩蔵は時国・成正・鈴屋のさらに細かい単位に分かれていたことがわかる。
時国家は戦国期末、畠山五人衆に与し、上杉方の長景連との戦いに参じており、有力名主層として成長、町野川下流域に影響力を及ぼしていた。前掲の算用状によれば「時国蔵納仕候」とあるように自らの管理する蔵を持ち、そこに納められる年貢米を運用して領主の財政の一端を支えていたらしい。時国のほかにも鈴屋紺屋、鈴屋行友、成正九郎右衛門、曾々木そそぎ孫三郎などの請負人がいたが、役割の上からみても岩蔵における時国の上位は動かなかった。時国はこの岩蔵にあって下人を使役して湊(港)を拠点とする廻船業を営む商人の顔をもち、江戸時代初期には南志見なじみの鉱山に手を出すなど、多角的な経営をもって湊を拠点とする物流の鍵を握っていた。

霊山として仰がれた岩倉山を背に日本海に面する曾々木海岸には、現在も千体地蔵・権現岩・行者穴などと称される岩が残る。曾々木の地名は「みそぎ」に因むとも伝えられている。
曾々木の北東、岩倉山の中腹に『延喜式』神名帳に載る「石倉イハクラノ比古神社」に比定される石倉比古神社と同社の別当寺であったという岩倉寺がある。岩倉寺本尊の千手観音棟札によれば、永正四年(一五〇七)同寺の再建に際しては、恐らくは曾々木の湊を出入する交通に媒介されたのであろう、のちに守護畠山氏の重臣に成長する温井氏を大旦那として、旧町野町地区ばかりでなく、現在の輪島市西部や、珠洲すず市、能都のと町、柳田やなぎだ村など東南西方の近隣各地域の衆徒・百姓らが奉加に加わっている。

石倉比古神社に残る永禄一三年(一五七〇)の「大塚連家寄進状」によれば、久亀屋くきや村(現柳田村)の百姓二名が三〇〇文を岩倉寺に寄進しているが、その但書に「但此代米五斗入壱俵、升は町野之うりかい也」とある。この「町野之うりかい」の枡は下用枡と呼ばれるもので、戦国末から江戸初期に基準枡が決定されるまで在方で通用していた。「うりかいの枡」と称される程であるから、当然、商人が使用していたものと考えられる。先に述べた天正四年の「年貢算用状」においても、時国や行友などの年貢請負人たちは領主に納める以前にこの枡ではかり、さらに領主が指定する一俵三斗入の「定の枡」で統一している。
加賀前田氏も公定枡の導入をめぐって、寛文年間に新京枡(江戸の京枡)の導入に踏みきるまでには天正一六年、慶長一三年(一六〇八)、元和二年(一六一六)と、度々公定枡を変えねばならなかった。とくに天正一六年には一俵五斗入の枡に戻しており、在方の意を汲まざるを得ない事情があったことが推察される。

商人枡が駆逐され新京枡が採用されるようになった頃、加賀藩領では以後の村切りが確定された。惣百姓・寺家中の文言に象徴される在地の領主制下での地名である岩蔵はすでに姿を消し、以後も明治二二年(一八八九)に岩倉村が成立するまで公的文書に現われることはない。
寛永(一六二四‐四四)の頃、土方氏と加賀藩の狭間にあって、珠洲郡の南山氏、北山氏のように、かつての土豪が闕所となり取り潰されていく中、時国家は家を分かつ(庵室分家)形で生きのびた。戦国期には戦さにも参じたと伝えられる同家であったが、土方家領に属した上時国家は庄屋をつとめ、加賀藩領に属した下時国家は十村とむらに準ずる代官をつとめるようになった。また万治二年(一六五九)の洪水によって町野川の水路が変わり、湊の機能が低下したため、この頃には廻船業も下火となっている。
「算勘」それ自体がしわきものでないことを示すかのように『世間胸算用』が世に問われたのは、その直後であった。

(S・K)

 


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初出:『月刊百科』1991年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。