能登半島の北岸部、輪島市の東部に旧
町野町は昭和一五年(一九四〇)‐同三一年の間に存在した行政地名で、現在は存在しない。町野の名は『和名抄』に載る
『太閤記』の作者、小瀬甫庵に「算勘にしわき男」と評された豊臣秀吉は、儒教の仁政の理念に覆われる以前のむき出しの近世を具現化した人物といえる。太閤検地・刀狩・身分統制令などの彼の施策は、全国を貫くスケールの統一を企図し、在地領主制の解体、兵農分離、石高制に基づく統一的な知行などを目指すものであった。事がスケールの統一である以上、ここ岩蔵にもその網の目はかけられることとなった。
岩倉山の西麓にあたる
時国家は戦国期末、畠山五人衆に与し、上杉方の長景連との戦いに参じており、有力名主層として成長、町野川下流域に影響力を及ぼしていた。前掲の算用状によれば「時国蔵納仕候」とあるように自らの管理する蔵を持ち、そこに納められる年貢米を運用して領主の財政の一端を支えていたらしい。時国のほかにも鈴屋紺屋、鈴屋行友、成正九郎右衛門、
霊山として仰がれた岩倉山を背に日本海に面する曾々木海岸には、現在も千体地蔵・権現岩・行者穴などと称される岩が残る。曾々木の地名は「みそぎ」に因むとも伝えられている。
曾々木の北東、岩倉山の中腹に『延喜式』神名帳に載る「
石倉比古神社に残る永禄一三年(一五七〇)の「大塚連家寄進状」によれば、
加賀前田氏も公定枡の導入をめぐって、寛文年間に新京枡(江戸の京枡)の導入に踏みきるまでには天正一六年、慶長一三年(一六〇八)、元和二年(一六一六)と、度々公定枡を変えねばならなかった。とくに天正一六年には一俵五斗入の枡に戻しており、在方の意を汲まざるを得ない事情があったことが推察される。
商人枡が駆逐され新京枡が採用されるようになった頃、加賀藩領では以後の村切りが確定された。惣百姓・寺家中の文言に象徴される在地の領主制下での地名である岩蔵はすでに姿を消し、以後も明治二二年(一八八九)に岩倉村が成立するまで公的文書に現われることはない。
寛永(一六二四‐四四)の頃、土方氏と加賀藩の狭間にあって、珠洲郡の南山氏、北山氏のように、かつての土豪が闕所となり取り潰されていく中、時国家は家を分かつ(庵室分家)形で生きのびた。戦国期には戦さにも参じたと伝えられる同家であったが、土方家領に属した上時国家は庄屋をつとめ、加賀藩領に属した下時国家は
「算勘」それ自体がしわきものでないことを示すかのように『世間胸算用』が世に問われたのは、その直後であった。
(S・K)
初出:『月刊百科』1991年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。