土佐初代藩主山内一豊の妹合姫の孫として生れた野中兼山が、藩政を担う奉行職となったのは寛永八年(一六三一)一七歳の時であった。その後、失脚する寛文三年(一六六三)までの約三〇年間、藩の政治・経済確立のため多くの政策をうち出し、独裁とも称されるほどの強い姿勢で実行した。その政策は南学の奨励・法制の整備・新田開発・港湾修築・殖産興業・商業振興から旧領主長宗我部氏の遺臣の取り立てと登用などに及び、近世、土佐藩が藩政確立のために行った政策のほとんどが兼山によって手掛けられている。
このうちの商業振興策の一つに在郷町建設があった。現在、南国市のほぼ中央に位置する後免町もその一所であった。
後免町は肥沃な
ところが、稲吉村の東北部は未開地で荒地のままであったといわれ、この未開地に開発の手が入れられたのは、兼山執政期の慶安年中(一六四八‐五二)に入ってからである。
野中兼山の政策実現を助けた藩の仕置役小倉少助らが、慶安五年と推定される三月二二日付で福留五郎右衛門に宛てた書状(御免町根元書『皆山集』所収)によると、この新開の地に出て来た者に対しては一人宛二五代(一代は六歩)の屋敷地を永代無年貢で与える、諸売買には課税しない、百姓並みの諸役夫も永代免許、また貢租御免で少しの味噌や麹ならば作ってよいなどの特典を与え、商人たちの移住を勧めるよう指示しており、新開地への町作りの様子が窺われる。この諸役御免こそが町名の由来であった。ちなみに、町の形成当初は稲吉新町、のちに御免町、元禄年中(一六八八‐一七〇四)に後面町と定められた(『南路志』)。後免の字を用いるようになったのは近代に入ってからのことである。
町の発展は、宝永初年成立の『土佐州郡志』に「今戸凡一百、毎月期六日成市、販魚塩茶薪等物」と見え、文化一二年(一八一五)成立の『南路志』には「町屋弐百軒内外」とあり、家数の増加がわかる。しかし、在郷町としての存続が危ぶまれる時期もあった。寛文元年、この新町を廃止し水田にするとして移住命令が出されたのである。この命令に対して稲吉村新庄屋らは、町屋も並び安定しかかった時で迷惑であるとし、貢物納入を条件に存続を願い出た。その結果、三ツ成(反別三斗)の貢物を納めることで願いが認められ、危機を脱している。なお二年後の寛文三年、兼山失脚という政変を機に新町の者は旧に復することを願い出、再び貢物も免除の「御免」の町となった(寛文三年九月一九日付藤田利左衛門覚書『皆山集』所収)。
万治元年(一六五八)、野中兼山の計画で、現在の香美郡土佐山田町にある物部川山田堰から後免町を経て浦戸湾を結ぶ
舟入川はまた運河として用いられ、物部川流域の米・雑穀・木材・薪炭などを輸送する動脈となった。後免町も近隣で生産される特産物を集荷して城下に送り出す商港として、重要な役割を担うこととなった。また各地の産物が舟入川で後免町にもたらされ、町は周辺地域へこれらを売り捌く基地ともなった。『土佐藩商業経済史』によると販売許可品目は、元禄五年には鎌・鍬などの農具をはじめとする最低限の生活必需品三六品に限られていたが、享保一三年(一七二八)に一二品目、延享三年(一七四六)には菅笠・白粉・紅粉など五品目、さらに天明二年(一七八二)には鉄はがね・なまり・そろばん・針・錠がね・やかん・麦うす・焼物・はんど・さわら・火入・油・手瓶・皿・槇はだ縄・醤油かす・ぬき出しわた等が追加許可されている。
この販売許可品目の増加からもわかるように、舟入川の商港として、また広大な香長平野の諸村を市場とする商人の町として、後免町は発展した。
現在も後免町は南国市の商業・経済の中心であるが、その基を開いた野中兼山は、失脚した寛文三年の一二月に急逝した。翌年には野中家も改易、遺族は現在の
(M・K)
初出:『月刊百科』1984年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。