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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第96回 葛城長田楲、 能登・岩井両河用水
【かつらぎながたのひ、のといわいりょうがわようすい】
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用水に刻まれた歴史
奈良県御所市・奈良市・大和郡山市
2014年01月10日

土地を治める者にとって農業用水の確保・管理は常に重大関心事であった。水不足に悩まされがちであった大和国では古く「日本書紀」にも池や溝を築造した記事が見られるが、「新撰姓氏録」右京皇別上には

 巨勢楲田朝臣

雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後、男荒人、天豊財重日足姫天皇諡皇極、御世、遣佃葛城長田、其地野上、漑水難至、荒人能解機術、始造長楲、川水灌田、天皇大悦、賜楲田臣姓也、日本紀漏、

とある。「葛城」は葛城山東麓、古代の葛城国南半、「和名類聚抄」の葛上かずらきのかみ郡の地で、ほぼ現在の御所ごせ市域に相当する。この地域の中央を北流する葛城川は天井川であり、葛城山から葛城川沿岸にかけては水利に恵まれた土地であるため特に大規模な灌漑工事の必要は認められない。従って七世紀中葉に荒人が長楲を造り、川水によって田を潤したとされるのは、葛城地方の東縁を北流して大和川に注ぐ曾我そが川流域での水利事業を示すものと推定される。

また曾我川の上流部分、現御所市大字古瀬こせ付近一帯を巨勢こせ谷と称するので、巨勢楲田朝臣の名もここから起ったものと考えられる。「楲」は水門・通水管を意味する文字であるから、荒人は低地を流れる曾我川の水を土木工事によって川面より高い耕地に導入したのであろう。

ところで、この荒人が造営したとされる葛城長田楲ではないかと考えられる水路が曾我川西方に存在している。この水路は鎌田かまだ川とも呼ばれ、現御所市大字戸毛とうげ羽生井はぶい堰で曾我川から分れ、大字今住いまずみあたりからは古代条里の葛上郡三五条一里の基準線を北に直進したのち大字柏原かしはらで西に流れを変えて二町、さらに北流して三町、再び西に向って二町、以下北流し、もう一度わずかに西流してから永田ながた池よりの水路と出会って満願寺まんがんじ川に合流し、すぐに曾我川に注いでいる。

このように鎌田川は極めて計画的に造られた水路であり、土地の古老は弘法大師が開削したものと伝えているが、おそらく条里制と同時に整備されたものであろう。鎌田川は現在でも全長約三キロを流下する間にほぼ四〇町の狭長な耕地を涵養し、「長田」の名にふさわしい水路であるが、集落内では人家の洗い場ともなっており、古代から現在に至るまで人々の暮らしとともに流れ続けた川と言えよう。

現奈良市の高円たかまど山東方より西流して佐保さほ川に注ぐ岩井川、その支流で春日山中に発して岩井川の北を西流する能登川はともに奈良盆地に出る地点で扇状地を形成し、小さな天井川となっているが、古くから重要な灌漑用水であった。

両川の周辺には越田尻こしたしり庄・三橋みつはし庄(以上現大和郡山市)、神殿こどの庄・四十八町しじゅうはっちょう庄・波田杜新はたのもりしん庄・京南きょうなん庄(以上現奈良市)などの興福寺領荘園が形成されていたが、これら荘園の耕作者、また領主である興福寺にとって農業用水をどのように配分するかは重要問題であり、建久二年(一一九一)六月二二日の興福寺公文所下文(鎌倉遺文)に

公文所下 京南庄四十八町作人等
 可早任御下文旨、宛漑能登岩井両河用水、令耕作荒田等事
右、京南庄七箇日夜分水者(下略)

と見えるほか、興福寺の荘園経営の実態を知る上での基本史料である「経覚私要鈔」「大乗院寺社雑事記」「多聞院日記」「蓮成院記録」にもしばしば両河用水をめぐる各荘園の争いに関する記事が出ている。

「経覚私要鈔」の「能登岩井河用水記」によれば応永二七年(一四二〇)の場合、四月三日から始まった第一次番水は越田尻庄四昼夜→三橋庄五昼夜→神殿庄七昼夜→四十八町庄七昼夜→波田杜新庄七昼夜→京南庄七昼夜の順で五月一六日まで行われ、一八日からは神殿庄を先頭として第二次番水が始まっている。

「大乗院寺社雑事記」文明一七年(一四八五)六月の「能登岩井両河用水相論条々」には「神殿庄ハ両川之根本之水主也、三橋准之」などと見え、各荘園間には水利に関して潜在的な優先順位があったらしいが、実際には毎年のように番水順序をめぐって各荘園の申入れが興福寺に対して行われ、興福寺では荘官となった在地武士の勢力の消長なども考え合わせて適宜処理していったものであろう。

「多聞院日記」文明一六年七月六日条にも神殿庄→四十八町庄→三橋庄→波田杜新庄→京南庄→越田尻庄(取水日数は応永二七年と同じ)の番水順序が記され、「蓮成院記録」天文二年(一五三三)一二月条に「能登・岩井川両河用水之決判巻物別会之櫃奉納」とあるところを見れば、用水の管理、各荘園間の利害の調節が荘園領主にとってもいかに重要な問題であったかが知れよう。

鎌田川も能登川も岩井川も決して大河川ではないが、その小さな流れ一つにも長い歴史の重みが刻みつけられているのである。

曾我川の上流部、用水路の鎌田川は今住付近から古代条理の基準線に沿って北流する


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初出:『月刊百科』1981年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである