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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第47回 水無瀬川
【みなせがわ】
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礫砂の下に歴史を刻む
大阪府三島郡島本町
2011年01月07日

水と神と人との関わりを伝える地名のひとつに水無瀬川(皆瀬川・水無川)がある。
例えば『播磨国風土記』揖保いぼ郡の記事に「美奈志みなし川」がみえる。現在、兵庫県龍野市を流れる中垣内なかがいち川に比定されているが、同書はその川名由来を、石龍比古命と石龍比売命の兄妹が水田用の水を争っているうち、兄の理不尽な行いに怒った妹がひそかに密樋したび(地下に水を通すようにした樋)を築き、自分が引こうとしていた泉村に引水してしまった。そのため川の水は絶え、所謂水無川となったことによるとしている。また岐阜県大野郡南端の川上かおれ岳に発するみや川は、同郡宮村の飛騨一宮水無みなし神社近くで水無川と呼ばれている。『飛州志』は「山澗ノ流水此宮ノホトリニテハ河原ト成ツテ水無シ、暫ク神祠ノ境ヲ過ヌレバ流水又元ノ如シ」と記し、口碑にその理由を水無神が流水の音で法楽の声が妨げられるのを嫌い水流を底に移したからと伝える。ちなみに同神社は古くから雨乞信仰で知られている。
これらのほかに、ある日旅僧が訪れ村人に法衣を洗ってほしいと頼んだが、川に水がないからと嘘をつき洗わなかったため、以後その村の川に水が流れなくなったと伝える水無川などその例は多い。

淀川の支流のひとつに、京都府と大阪府の境釈迦しゃか岳に発し、天王てんのう山の南西麓を流れる全長九・四キロの水無瀬川がある。この水無瀬川は山間地から出て淀川に注ぐまでは一・五キロと短く、その間に扇状地性地形を発達させ、度重なる氾濫を窺うことができる。
この氾濫原は平安時代には水無瀬野と呼ばれ、小動物や野鳥の棲息する自然豊かな地であった。そのため天皇・貴族等の絶好の遊猟地となり、延暦一一年(七九二)二月六日の桓武天皇の遊猟をはじめとして、嵯峨天皇・淳和天皇などたびたび訪れている(『日本紀略』)。またこの地は、東南方を望むと、淀川の向うに、石清水いわしみず八幡宮の鎮座する男山おとこやまを扇の要として山城平野・枚方ひらかた丘陵が広がる景勝地でもあった。
この水無瀬川に形づくられた自然や、そこからの景観は多くの歌に詠まれ、特に水無瀬川は歌枕にもなっている。

事にいでていはぬ許ぞみなせ川
したにかよひて恋しき物を
とものり【古今集】
人心何を頼みて水無瀬川
せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ
藤原基俊【千載集】
見渡せば山もと霞む水無瀬川
夕は秋となにおもひけむ
太上天皇(後鳥羽上皇)【新古今集】

平安時代以降、水無瀬野に別業べつぎょうを営む者が多かった。例えば『伊勢物語』八二段には惟喬親王の宮があったことと、辺りの情景が詳細に描かれている。
正治元年(一一九九)頃、水無瀬川と淀川の合流点近くに後鳥羽上皇の離宮、水無瀬殿が営まれた(『明月記』)。この離宮は建保四年(一二一六)六月二八日の大雨で流失してしまった(『百錬抄』建保五年正月一〇日条)。しかし翌年には源通光によって旧地の北西方、ひゃく山の麓に新たに水無瀬殿が建てられた。この新離宮は「土木惣尽海内之財力」といわれるほどに贅をつくしたものであった(『明月記』)。後鳥羽上皇は水無瀬の地を好んだようで、藤原定家の日記『明月記』に記されるだけでも水無瀬御幸は三〇回程に及んでいる。前掲後鳥羽上皇の和歌は、こうした御幸のなかで詠まれたものといわれる。ちなみに定家は水無瀬殿をたびたび訪れ、上皇から和歌の詠進・評定を命じられている。
承久三年(一二二一)鎌倉幕府打倒に失敗した後鳥羽上皇は山陰隠岐島に配流され、延応元年(一二三九)再び都にもどることもなく配流地で没した。上皇の遺言は配流後の水無瀬殿を守っていた藤原(水無瀬)信成・親成父子に伝えられた。この父子は遺言に従って水無瀬殿の旧地に上皇の菩提を弔う御影堂を建立し、その祭祀をおこなうこととなった。今の水無瀬神宮である。
贅をつくして営まれた新水無瀬殿も、主なきあとは荒れるにまかされたのか、弘安八年(一二八五)頃には往時の姿を偲べないほどになっていた。『中務内侍日記』(同年九月条)は「これなんむかし御所にていみしかりしも、いまかくなりぬる。あはれに侍ると」と記し、さらに「あさからぬ昔のゆへを思ふにもみなせの川に袖そぬれぬる」と記している。

都に近接していたためか、この水無瀬川に刻まれた歴史は華やかにいろどられている。しかし、その底には頻繁に洪水を起し人々を苦しめたり、反面谷川の水車を動かす力や農業用水の源となり人々に恵を与えるなど、人々の生活に密着した姿があった。現在、工場と団地の間を完全補強されて流れる水無瀬川に、その刻んできた歴史を見出すのはむずかしい。ただ支流にある水無瀬滝に祀られた八大竜王に、水無瀬川にかけてきた人々の願いをうかがうことができる。

(M・K)

淀川西岸にある水無瀬神宮。水無瀬川はその北側を東へ流れ、淀川に注いでいる


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初出:『月刊百科』1984 年12月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである