水と神と人との関わりを伝える地名のひとつに水無瀬川(皆瀬川・水無川)がある。
例えば『播磨国風土記』
これらのほかに、ある日旅僧が訪れ村人に法衣を洗ってほしいと頼んだが、川に水がないからと嘘をつき洗わなかったため、以後その村の川に水が流れなくなったと伝える水無川などその例は多い。
淀川の支流のひとつに、京都府と大阪府の境
この氾濫原は平安時代には水無瀬野と呼ばれ、小動物や野鳥の棲息する自然豊かな地であった。そのため天皇・貴族等の絶好の遊猟地となり、延暦一一年(七九二)二月六日の桓武天皇の遊猟をはじめとして、嵯峨天皇・淳和天皇などたびたび訪れている(『日本紀略』)。またこの地は、東南方を望むと、淀川の向うに、
この水無瀬川に形づくられた自然や、そこからの景観は多くの歌に詠まれ、特に水無瀬川は歌枕にもなっている。
事にいでていはぬ許ぞみなせ川 | したにかよひて恋しき物を | とものり【古今集】 |
人心何を頼みて水無瀬川 | せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ | 藤原基俊【千載集】 |
見渡せば山もと霞む水無瀬川 | 夕は秋となにおもひけむ | 太上天皇(後鳥羽上皇)【新古今集】 |
平安時代以降、水無瀬野に
正治元年(一一九九)頃、水無瀬川と淀川の合流点近くに後鳥羽上皇の離宮、水無瀬殿が営まれた(『明月記』)。この離宮は建保四年(一二一六)六月二八日の大雨で流失してしまった(『百錬抄』建保五年正月一〇日条)。しかし翌年には源通光によって旧地の北西方、
承久三年(一二二一)鎌倉幕府打倒に失敗した後鳥羽上皇は山陰隠岐島に配流され、延応元年(一二三九)再び都にもどることもなく配流地で没した。上皇の遺言は配流後の水無瀬殿を守っていた藤原(水無瀬)信成・親成父子に伝えられた。この父子は遺言に従って水無瀬殿の旧地に上皇の菩提を弔う御影堂を建立し、その祭祀をおこなうこととなった。今の水無瀬神宮である。
贅をつくして営まれた新水無瀬殿も、主なきあとは荒れるにまかされたのか、弘安八年(一二八五)頃には往時の姿を偲べないほどになっていた。『中務内侍日記』(同年九月条)は「これなんむかし御所にていみしかりしも、いまかくなりぬる。あはれに侍ると」と記し、さらに「あさからぬ昔のゆへを思ふにもみなせの川に袖そぬれぬる」と記している。
都に近接していたためか、この水無瀬川に刻まれた歴史は華やかにいろどられている。しかし、その底には頻繁に洪水を起し人々を苦しめたり、反面谷川の水車を動かす力や農業用水の源となり人々に恵を与えるなど、人々の生活に密着した姿があった。現在、工場と団地の間を完全補強されて流れる水無瀬川に、その刻んできた歴史を見出すのはむずかしい。ただ支流にある水無瀬滝に祀られた八大竜王に、水無瀬川にかけてきた人々の願いをうかがうことができる。
(M・K)
初出:『月刊百科』1984 年12月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである