この弓浜半島は奈良時代には島で、『出雲国風土記』島根郡の条に「伯耆の
奈良時代の夜見島は平安時代になると、日野川の流砂が美保湾の潮流によって東岸に堆積し、米子地方と陸続きとなって半島を形成したらしい。応永五年(一三九八)成立の『大山寺縁起絵巻』には半島の姿として描かれている。弓浜の地名がいつ頃から使われるようになったかは不明だが、永禄六年(一五六三)一一月二〇日の「毛利元就感状」(『萩藩閥閲録』)に、「弓浜」で合戦のあったことが記されているので、これ以前であることは確かであろう。なお夜見の名は、江戸時代の夜見村に名残りをとどめ、いまも米子市の町名として用いられている。
砂地で良田に乏しい弓浜半島北部の村々では、戦国時代から島根半島森山村の宇井太夫らと契約して稲の苗代田を開いてもらい、そこで育苗する慣行があった。これに関する永禄六年の「売券」(稲賀家文書)や天正九年(一五八一)の「ほりあげ状」(佐々木家文書)が残されており、前者によると
こうした慣行は江戸時代にも引き継がれ、慶長年間(一五九六‐一六一五)頃、森山村と弓浜半島の外江村・
文久三年(一八六三)他国越しの口として境村・渡村・上道村・外江村などにも番所が置かれ、出入国が厳しく取締られることになったが、両半島に住む人々の交流が密であり、島根半島の人々にとって境村などは「用弁調へ候村柄」であったため、元治二年(一八六五)自村の村役人の許可を得たものは上陸できるように緩和された(『在方諸事控』)。
江戸時代中期以降の弓浜半島は、綿・葉藍・甘藷の一大生産地として知られるようになっており、また境湊は西廻海運の盛況にともなって鳥取藩の諸施設が設けられて重要性が増加、とくに天保六年(一八三五)鉄山融通会所が設けられてからは、伯耆では米子湊に比肩する湊となり、明治初年にかけて凌駕していった。番所が置かれた頃、入津船は年に一千艘近くにのぼり、諸国から様々な物資がもたらされ、「陸商人共入込、諸売買ひ取組之便利宜敷場所」であった(『在方諸事控』)。島根半島の人々にとってもまさしく「用弁調へ候村柄」であり、幕府・藩の方針をもってしても、交流を断ち切ることはできなかったのであろう。
国境や領主・藩の違いを越え、境水道を越えて古くから続いてきた両半島間の交流は、日中戦争から太平洋戦争、さらに戦後の混乱期のなかで実施されていた物資の配給制度などのために翳りをみせたことはあったものの、昭和四七年(一九七二)の境水道大橋の架橋もあって、今も盛んである。
(H・M)
初出:『月刊百科』1992年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである