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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第31回 弓浜半島
【きゅうひんはんとう】
24

島根半島を引いた綱
鳥取県境港市・米子市
2009年09月04日


美保みほ湾に臨む皆生かいけ温泉と美しいゆみヶ浜(夜見ヶ浜)、米子空港、それに全国第二位の年間漁獲水揚量(平成二年度)を誇る境港を擁する弓浜半島は、西は中海、北は境水道に限られて、名のごとく弓状に延びる半島である。半島の北西端、境港市外江とのえ町の西岸沖、中海の沖合にある西灘にしなだ遺跡からは縄文時代早期以降の生活用具、骨製の釣針、石錘などが出土しており、境水道に面した同市の北灘きたなだからは同時代後期の遺物が検出されている。また境水道を隔てて指呼の間にある島根半島の島根県美保関町森山もりやま には、国の史跡に指定されている縄文時代の権現山洞窟住居跡やサルガ鼻洞窟住居跡があり、一帯では縄文時代から人々が生活を営んできたことをうかがわせる。

この弓浜半島は奈良時代には島で、『出雲国風土記』島根郡の条に「伯耆の国郡くにの内の夜見よみ島」と表現されており、同書意宇郡の条の国引き神話のなかでは、「三穂みほの埼」(島根半島美保関の地塊)を引き寄せたときの「持ち引ける綱は、夜見島なり」と叙述されている。先の引用は「蜈蚣むかで島」の項にあるもので、この島は弓浜半島北部の境港市わたりの沖合、中海に浮かぶ島のこととされ、風土記は、蜈蚣島から「夜見島にいたるまで磐石いはあり。二里ばかり、広さ六十歩ばかり。馬に乗りても猶往来かよふ。塩満つる時は、深さ二尺五寸ばかり、塩る時は、すで陸地くがの如し」と、当時の中海の一情景を描いている。
奈良時代の夜見島は平安時代になると、日野川の流砂が美保湾の潮流によって東岸に堆積し、米子地方と陸続きとなって半島を形成したらしい。応永五年(一三九八)成立の『大山寺縁起絵巻』には半島の姿として描かれている。弓浜の地名がいつ頃から使われるようになったかは不明だが、永禄六年(一五六三)一一月二〇日の「毛利元就感状」(『萩藩閥閲録』)に、「弓浜」で合戦のあったことが記されているので、これ以前であることは確かであろう。なお夜見の名は、江戸時代の夜見村に名残りをとどめ、いまも米子市の町名として用いられている。

砂地で良田に乏しい弓浜半島北部の村々では、戦国時代から島根半島森山村の宇井太夫らと契約して稲の苗代田を開いてもらい、そこで育苗する慣行があった。これに関する永禄六年の「売券」(稲賀家文書)や天正九年(一五八一)の「ほりあげ状」(佐々木家文書)が残されており、前者によると上道あがりみち村(現境港市)の「浜の松下 五郎左衛門」が森山村の「うひの大夫 八郎左衛門」から同村長島ながしまにある苗代田を買い入れており、後者は八郎左衛門が「東の 五郎左衛門」(「東の」は「道野」とも書かれ、のちの中野村のこと)の依頼によって苗代用田地を掘上げたというもので(代金は御公用南京銭三〇〇文)、八郎左衛門は「彼なわしろハ山つゑ候て年々あれ申候をしんぼう仕候てほりあげ申候」と述べている。
こうした慣行は江戸時代にも引き継がれ、慶長年間(一五九六‐一六一五)頃、森山村と弓浜半島の外江村・竹内たけのうち村・道野村・境江(境)村・上道村(いずれも現境港市)との間で、苗代田利用などに関する証文が取り交わされている。この証文は「御運上差立て山海之稼、苗田共仕来りに相成候儀定書」(「稲賀貞次郎見聞録」稲賀家文書)として関係諸村に伝えられ、慣行は文化(一八〇四‐一八)から天保(一八三〇‐四四)に至る一時期を除いて幕末まで守られていた。

文久三年(一八六三)他国越しの口として境村・渡村・上道村・外江村などにも番所が置かれ、出入国が厳しく取締られることになったが、両半島に住む人々の交流が密であり、島根半島の人々にとって境村などは「用弁調へ候村柄」であったため、元治二年(一八六五)自村の村役人の許可を得たものは上陸できるように緩和された(『在方諸事控』)。
江戸時代中期以降の弓浜半島は、綿・葉藍・甘藷の一大生産地として知られるようになっており、また境湊は西廻海運の盛況にともなって鳥取藩の諸施設が設けられて重要性が増加、とくに天保六年(一八三五)鉄山融通会所が設けられてからは、伯耆では米子湊に比肩する湊となり、明治初年にかけて凌駕していった。番所が置かれた頃、入津船は年に一千艘近くにのぼり、諸国から様々な物資がもたらされ、「陸商人共入込、諸売買ひ取組之便利宜敷場所」であった(『在方諸事控』)。島根半島の人々にとってもまさしく「用弁調へ候村柄」であり、幕府・藩の方針をもってしても、交流を断ち切ることはできなかったのであろう。

国境や領主・藩の違いを越え、境水道を越えて古くから続いてきた両半島間の交流は、日中戦争から太平洋戦争、さらに戦後の混乱期のなかで実施されていた物資の配給制度などのために翳りをみせたことはあったものの、昭和四七年(一九七二)の境水道大橋の架橋もあって、今も盛んである。

(H・M)


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初出:『月刊百科』1992年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである