和歌山市から紀ノ川北岸沿いに東へ約五〇キロで、紀北の小都市橋本市に至る。紀ノ川の形成する段丘上をほぼ東西方向に走る川沿いの道は、橋本市からさらに東進して真土峠を越え、奈良盆地南部に至る。大和朝廷の朝鮮半島進出の要路として、また大陸文化摂取の道として大きな役割を果した古代の紀路―南海道である。紀ノ川流域に点在する白鳳から奈良時代にかけての寺院跡から先進地域としてのかつての様子がうかがわれる。しかし宮都が平城京・平安京と遷るにしたがい、これらの寺院も一、二を除いて姿を消してしまう。
弘仁七年(八一六)空海により紀ノ川南部に高野山が開かれると、流域は再び息を吹き返し始めた。西国に分布する高野山領荘園からの年貢米は、河口の紀伊湊から川を溯行して、伊都郡九度山町慈尊院にあった高野山政所へ運ばれた。いっぽう高野山と膝下の村村とを結ぶ道も山の四周に放射状にのび、山上には高野七口と称する連絡口があった。これらの道は高野山への年貢搬入路であるとともに、行者の修行道であり、人々の参詣道であった。
紀ノ川南岸、慈尊院東方の橋本市学文路は、七口のなかでも代表的な不動坂口に至る不動坂道入口に位置する。この道は、学文路から南へのびる谷に沿って九度山町河根峠に至り、高野町神谷を経て不動坂から女人堂に通ずる。険峻な道ではあるが、橋本方面から高野山へ登る近道で、近世には表参道となり、登り口の学文路には旅宿が軒を並べていた。しかし不動坂越えの古い記録は少なく、甘露寺親長の文明一一年(一四七九)の高野参詣の記録(『親長卿記』)、天文二二年(一五五三)の三条西公条の『吉野詣記』ぐらいである。
平安・鎌倉期の天皇や貴族の高野参詣は、京都から大和経由で紀ノ川を下って政所に至るか、逆に和泉山脈西部の雄ノ山峠を越え、紀ノ川を溯って政所に着くのが常であった。政所から高野山壇上までの道には一町ごとに町卒塔婆があり、町石道とよばれた。紀和国境に横たわる和泉山脈の険しい山々が、このような迂回路をとらせたといえる。ようやく南北朝ごろになって和泉山脈東部の紀見峠が開かれたといわれるが、この峠越えの史料は極めて乏しい。ただ紀見峠南の橋本市御幸辻は、院の御幸にちなむという伝承がある。しかし御幸道とても、まっすぐ南行して橋本に出るのではなく、西へ曲って高野口町名古曽から対岸の慈尊院へ渡ったといわれる。
学文路は文治四年(一一八八)七月一六日の僧頼実処分長帳(続宝簡集)に「禿前出口」とみえ、高野山領官省符庄に属していた。地名について『紀伊続風土記』には「村名は禿の義にして少童の事か、高野山の麓なれは古は此地に男色を鬻くものありしならん」とみえるが明らかではない。この地が高野参詣の宿所として賑うようになったのは、紀ノ川対岸の橋本町が成立してからと考えられる。
天正一三年(一五八五)高野山の僧木食応其は、紀見峠に発する橋本川が紀ノ川に流入する地に橋本町を開いた。次いで町助成のための塩売買の特権が豊臣秀吉から許可され、塩市を中心に町が形成された。それとともに紀見峠も整備され、峠には慶安元年(一六四八)和歌山藩の伝馬所が設置された。橋本から対岸の清水には、高野山や町民などの負担による無賃の横渡船もかけられた。京・大坂からの高野参詣が容易となり、不動坂道が町石道にとってかわって主要道となるのである。町石道の町卒塔婆と同じく、不動坂道には六つの地蔵堂が建てられた。『紀伊続風土記』によれば清水を第一とし、学文路、茂野(九度山町)、河根峠、作水・神谷辻(高野町)の六ヵ所であった。
中世以来、唱導文芸をもって全国を遊行した高野山の萱堂聖が、学文路を説経『かるかや』の一舞台とした背景には、高野表参道としての不動坂道の確立があったと思われる。『かるかや』は高野聖苅萱道心と彼を尋ねるその妻千里、子石童丸の親子の恩愛、聖の道心、女人禁制の掟をめぐる悲劇を見事にからませて諸人の心をとらえた。母子が滞留したのが学文路宿の玉屋とされ、『紀伊国名所図会』にも三階建ての玉屋の繁昌ぶりが描かれる。女人禁制のため母は玉屋に残り、石童丸だけが「かむろが宿を打すぎて、登れば一り上薬師、かねの町家もすぎぬれば、悪魔も恐るゝ不動坂」を越えて入山した。母は待ちかねて玉屋で死ぬが、学文路の仁徳寺(苅萱堂)境内には、玉屋の庭から移したという千里の墓がある。高野山への入口らしく、学文路には高野山に関連する伝説や名所が多い。
現在、南海電鉄高野線が大阪市の難波から紀見峠―橋本―不動坂下の極楽橋に至り、高野山までケーブルカーが通ずる。その学文路駅の入場券は、時代を反映して進学への道を開く切符として受験生に人気があり、シーズンには橋本管区で月に六〇〇‐七〇〇枚が売れるという。
(K・H)
初出:『月刊百科』1983年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである