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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第2回 地名の表記と変遷(2)

2007年03月09日

漢字の受容と地名表記

日本書紀

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 地名は言語であり、言語が音韻変化を免れないように、地名もまた転訛を繰り返す。すでに『日本書紀』にも、浪速(なみはや)は浪花(なみはや)とも言ったが、今は訛って難波(なには)と言う(神武天皇即位前紀戊午年二月一一日条)とか、盾津(たてつ)が蓼津(たでつ)(同年四月九日条)、鵄(とび)が鳥見(とみ)(同年一二月四日条)、挑河(いどみ)が泉河(いずみ)(崇神天皇一〇年九月九日条)、堕国(おちくに)が弟国(おとくに)(垂仁天皇一五年八月一日条)、浮羽(うきは)が的(いくは)(景行天皇一八年八月条)に訛ったとある。訛る以前の地名に起源説話が付会されているので、説話に整合性を持たせるために訛ったことにしたのかもしれないが、当時、原音が伝えられていたことも否定できず、このような転訛は音韻学的にも自然であるという。

 転訛の問題と同時に日本の地名を考える際に最も留意しなければならないのは、それが外来文字である漢字で表記されたということである。中国で発明された漢字が日本に伝来したのは一世紀ごろといわれる。一般に文字が理解されるようになったのはずっと後世のことであろうが、それまで口承されてきた地名が、漢字という表音性を持つ表意文字で記録されるようになった。そして日本人が国語の表記文字として漢字を駆使するようになったとき、地名は様々な漢字を充てられ、さらに変転することになるのである。

 五~六世紀ごろとみられる隅田八幡宮人物画像鏡(和歌山県橋本市隅田八幡神社蔵)に「意柴沙加宮」がみえ、埼玉県行田(ぎょうだ)市稲荷山古墳出土鉄剣に「斯鬼宮」と刻まれており、これらが漢字を使用した日本語表記の初期の例となる。前者は奈良県桜井市忍坂(おつさか)付近、後者は同市岩坂(いわさか)か黒崎(くろさき)付近とみられている。『日本書紀』履中天皇四年八月八日条に「始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す」という記事がみえ、風土記のような地誌的記録を上進せしめたものと解する説(平田篤胤『古史徴開題記』)もある。記事の真偽は不明だが、履中期といえば隅田八幡宮人物画像鏡や稲荷山古墳出土鉄剣とほぼ同時期、いわゆる倭の五王の時代である。この頃、日本語に文字が充当され、各地の地名が漢字で表記され、記録として残されるようになった可能性もある。

字音の借用、字訓の利用

 隅田八幡宮人物画像鏡にみるように、当初の地名表記には他の固有名詞と同様、漢字を表音のために仮借するという方法が採られた。いわゆる万葉仮名表記である。この段階では漢字の表意性は全く無視され、単なる音符のようなものではあったが、充当文字には一定の法則性があり、当時の音韻に極めて忠実であったとみられている。しかし一字一音の万葉仮名的用字法では冗長に過ぎるきらいがあり、より短縮化するためにもその後は漢字を日本語にあてた和訓が主に用いられるようになった。このような表記傾向がいつごろから始まったか明らかではないが、日本における漢字使用の歴史と連動したと推測される。大阪府柏原(かしわら)市松岳(まつおか)山から出土した戊辰年(六六八)の船首王後銅板墓誌には、「乎娑陀宮」「等由羅宮」「阿須迦宮」という一字一音の宮名とともに「松岳山」という和訓表記の地名が記されている。

 志摩国「嶋郡」(藤原宮跡出土木簡)、美作国勝田郡「塩湯郷」(平城宮跡出土木簡)、大和国「小墾田」(『日本書紀』欽明天皇一三年一〇月条)などは、地名の音・原義に相応した表記といえよう。しかしハリマを「針間」、アハチマを「味蜂間」、スズカを「鈴鹿」(以上、藤原宮跡出土木簡)と書くように、多くの地名は音を伝えるために漢字の字訓を利用しているだけで、使用された漢字の意味と地名の意味とに直接関連性はなく、その意味で文字の役割は万葉仮名の時代と大差はない。この時代までに日本の地名は様々な漢字を与えられ、当時すでに本来の意味が分からなくなったものも多かったに違いない。イカルガの地名の場合、大和国イカルガは地名と同名の鳥の名前に充当された文字「斑鳩」が主に使用され、丹波国イカルガは現在までのところ「伊看我」(藤原宮跡出土木簡)、「伊干我」(兵庫県丹波市山垣遺跡出土木簡)、「何鹿」(平城宮跡出土木簡)の表記が確認されるなど、充当文字は判読可能である限り自由であったと考えられる。「明日香」の地名表記は、すでに定着していた暦日「アス」の表記「明日」を援用したもので、地名は暦日とは無関係であったろう。地名表記の工夫を窺わしめるものの、そこに原義に対する配慮はない。ましてアスカにかかる枕詞「飛ぶ鳥の」によったとみられる「飛鳥」の表記に至っては、地名の意義はおろか読みさえ想像するのは難しいといえる。

 『日本書紀』には「春日、此をば箇酒鵝と云ふ。(中略)率川、此をば伊社箇波と云ふ」(開化天皇元年一〇月一三日条)というように、茅渟に「智怒」(神武天皇即位前紀戊午年五月八日条)、香山に「介遇夜摩」(同年九月五日条)、畝傍山に「宇禰縻夜摩」(同己未年三月七日条)、など、訓註が付された地名がみられる。難読とみたか、誤読を恐れたか不明だが、奈良時代、すでにこのような地名表記は定着していたらしく、表記と読み方には十分な注意が払われた。太安万侶は『古事記』撰録の際、帝紀・旧辞を討究し、上古の質朴な言意を損ねることのないよう表現に努めたが、「日下」と書いて「クサカ」と読む類のものは、すでに因襲化しているので、従来の慣用に従って書き改めなかったと序文に記している。

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