『京都坊目誌』によると、桓武天皇の勅願により延暦一三年(七九四)僧賢璟が建立した。万寿二年(一〇二五)に焼失したが、永長二年(一〇九七)に再興され(『山城名跡巡行志』)、文和年中(一三五二‐五六)および応仁の乱で類焼したと伝える。寛永年中(一六二四‐四四)に至って、浄春という勧進僧により再興、以来浄土宗寺院となったという(『山州名跡志』)。
貞享元年(一六八四)成立の『
一方「雀杜」の項では「四条大宮西ニ在リ、古藤氏勧学院之在シ所也」と記す。雀森の位置については更雀寺の項とほぼ同じであるが、勧学院の旧地も同じ場所とする。また、ここに集まる雀の囀りは『
勧学院は平安時代に藤原氏出身の学生の為に設けられた教育機関である。平安時代前期、有力貴族は子弟の教育を奨励する為に大学寮に学ぶ学生の寄宿施設を設けた。勧学院は弘仁一二年(八二一)に藤原冬継が一族の大学生のための寄宿舎として建てた。やがてこれらは大学寮の公認寄宿施設である大学
大学寮の南、『
『山州名跡志』は雀森について次のように記す。かつてこの地に大樹があり、多くの鳥が集まっていた。ある時更雀寺の観智法印の夢中に雀がきて、「吾是一条帝ノ侍臣中将実方也。於陸奥卒ストイヘエドモ、想帰洛鬱意妄執ノ故ニ、飛鳥トナッテ帰来ス。先程ノ余縁ヲ以テ遊当院森。師為吾斎戒シテ、抜苦破罪ノ為持念仏寺ヲ勤修セバ苦輪ヲ脱レナント」と告げた。
中将実方とは平安時代中期の歌人藤原実方のことで、中古三十六歌仙の一人に数えられる。激しい性格で知られ、藤原行成と殿中で口論となり、行成の
更雀寺の寺号について『山州名跡志』は、寺中に勤学修道のための勧学院という一宇があり、院内に居た童子が学士らの唱える文言を聞き覚えて暗唱するようになった。人々はこれを賞して雀童と呼んだとする。勧学院は更雀寺の一宇とされている。
明徳の乱(一三九一年)の顛末をそれほど下らない時期に記した『明徳記』に、「赤松ノ上総介ハ其勢一千三百余騎、冷泉ノ西大宮ノ雀森ニ陣ヲ取」とある。雀森の位置は
藤原氏の勧学院は一三世紀末には退転しており、後に更雀寺の寺地となった。近世に寺は四条大宮の西に移り、寺名の由来になったとも考えられる勧学院、寺名や勧学院と結びつけられた雀森の位置が、いつの頃か更雀寺の移転に従って移動した可能性もある。あるいは更雀寺の位置は元来四条大宮の西で変わらず、寺名からの連想によって旧地が勧学院の故地との説が生じたのかもしれない。
『内裏雛』は勧学院について、かつて四条通西にあり、同院の鎮守の森の雀が『蒙求』を囀る故事と、雀となった(藤原氏出身の)実方が勧学院の森に住んだことから、この森を雀森と呼ぶとする。地名同士が互いに影響を与え、複雑に絡みあう説話が生み出されていった。
(K・T)
初出:『月刊百科』1997年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。