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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第15回 雀森・更雀寺 
【すずめのもり・きょうしゃくじ】
8

変遷する地名説話
京都市中京区
2008年04月18日

 更雀(きょうしゃく)寺は浄土宗西山禅林寺派に属す寺で、山号は森豊山という。現在は京都市左京区静市市原(しずいちいちはら)町にあるが、昭和五二年(一九七七)まで中京区錦大宮(にしきおおみや)町、四条通の北を通る錦小路通と南北の大宮通の交差する南西側にあった。
 『京都坊目誌』によると、桓武天皇の勅願により延暦一三年(七九四)僧賢璟が建立した。万寿二年(一〇二五)に焼失したが、永長二年(一〇九七)に再興され(『山城名跡巡行志』)、文和年中(一三五二‐五六)および応仁の乱で類焼したと伝える。寛永年中(一六二四‐四四)に至って、浄春という勧進僧により再興、以来浄土宗寺院となったという(『山州名跡志』)。

 貞享元年(一六八四)成立の『雍州府志(ようしゅうふし)』は更雀寺について「四条ノ西雀森ニ在リ。始メ姉小路大宮ノ西ニ在リ。相伝フ其地古へ勧学院之有リシ所也、近世斯ノ処ニ移ル」と述べ、寺の所在地を「雀森」とし、創建の地を三条の北の東西通りである姉小路(あねやこうじ)通と、大宮通との交差する西側の、かつての勧学(かんがく)院の地とする。
 一方「雀杜」の項では「四条大宮西ニ在リ、古藤氏勧学院之在シ所也」と記す。雀森の位置については更雀寺の項とほぼ同じであるが、勧学院の旧地も同じ場所とする。また、ここに集まる雀の囀りは『蒙求(もうぎゅう)』(五代の後晋の李瀚の著書で、古人の逸話の類集。子供が記憶しやすいように、四字句の韻語を配列してある)の題目を唱えるのに似ていたという話を載せる。

 勧学院は平安時代に藤原氏出身の学生の為に設けられた教育機関である。平安時代前期、有力貴族は子弟の教育を奨励する為に大学寮に学ぶ学生の寄宿施設を設けた。勧学院は弘仁一二年(八二一)に藤原冬継が一族の大学生のための寄宿舎として建てた。やがてこれらは大学寮の公認寄宿施設である大学別曹(べっそう)となった。
 大学寮の南、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』によれば「三条北壬生西」にあり、南曹(なんそう)とも氏院とも呼ばれた。藤原氏出身の大学生は勧学院で宿舎・学資・書物などの便宜を与えられて勉学に励んだ。勧学院は藤原氏の勢力に支えられて他の氏族の大学別曹のなかでも随一の隆盛を誇り、学生の数も多数に上った。なかには元服前の幼少の小学生もいた。「三条北壬生西」の壬生(みぶ)通は大宮通の二本西の通りで、『雍州府志』が更雀寺の項で言及している勧学院の位置とは近い。しかし、近世の地誌類の多くは同書の「雀杜」の項で記された説、四条大宮の西説を踏襲している

 『山州名跡志』は雀森について次のように記す。かつてこの地に大樹があり、多くの鳥が集まっていた。ある時更雀寺の観智法印の夢中に雀がきて、「吾是一条帝ノ侍臣中将実方也。於陸奥卒ストイヘエドモ、想帰洛鬱意妄執ノ故ニ、飛鳥トナッテ帰来ス。先程ノ余縁ヲ以テ遊当院森。師為吾斎戒シテ、抜苦破罪ノ為持念仏寺ヲ勤修セバ苦輪ヲ脱レナント」と告げた。
 中将実方とは平安時代中期の歌人藤原実方のことで、中古三十六歌仙の一人に数えられる。激しい性格で知られ、藤原行成と殿中で口論となり、行成の烏帽子(えぼし)を庭に投げ捨てた事が、陸奥守に任じられた原因とする説(『古事談』)もあった。彼地で没した実方の帰洛の思いが妄執となり、雀となって帰来したと言うのである。雀は古くから他の生物との転生がイメージされており、近縁種のニュウナイ雀は実方の亡魂との俗信があった。ここでは更雀寺の雀森と実方の伝説が結びついている。
 更雀寺の寺号について『山州名跡志』は、寺中に勤学修道のための勧学院という一宇があり、院内に居た童子が学士らの唱える文言を聞き覚えて暗唱するようになった。人々はこれを賞して雀童と呼んだとする。勧学院は更雀寺の一宇とされている。

 明徳の乱(一三九一年)の顛末をそれほど下らない時期に記した『明徳記』に、「赤松ノ上総介ハ其勢一千三百余騎、冷泉ノ西大宮ノ雀森ニ陣ヲ取」とある。雀森の位置は冷泉(れいぜい)小路つまり、二条通の北側を東西に通る現在の夷川(えびすがわ)通と大宮通の交点の西、現在の二条城北西部分辺りで、地誌類のいう雀森の位置とは異なる。『明徳記』の記述が正しい位置を示しているとすれば、大宮通の西側に北から中世の雀森、勧学院の旧地ともとの更雀寺、近世の更雀寺が並ぶ。
 藤原氏の勧学院は一三世紀末には退転しており、後に更雀寺の寺地となった。近世に寺は四条大宮の西に移り、寺名の由来になったとも考えられる勧学院、寺名や勧学院と結びつけられた雀森の位置が、いつの頃か更雀寺の移転に従って移動した可能性もある。あるいは更雀寺の位置は元来四条大宮の西で変わらず、寺名からの連想によって旧地が勧学院の故地との説が生じたのかもしれない。
 『内裏雛』は勧学院について、かつて四条通西にあり、同院の鎮守の森の雀が『蒙求』を囀る故事と、雀となった(藤原氏出身の)実方が勧学院の森に住んだことから、この森を雀森と呼ぶとする。地名同士が互いに影響を与え、複雑に絡みあう説話が生み出されていった。

(K・T)


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初出:『月刊百科』1997年2月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。