古代北陸道は越中国
近世北陸道の宿駅制は江戸時代初期に確立したが、市振―青海間には外波・歌に
神済とは越中国と越後国の境をなす境川の古名で、『越後名寄』堺川の項に「国堺ニテ、川ヲ越レハ越中ノ国也。船ニテ渡ル。流レ早ク、矢ヲ突斗也。(中略)常サヘ洪水ノ時ニハ甚危シ、容易ニスヘカラズ。河近クニ玉ノ木杓有。程近ク御関所有、市振ノ駅也」とある。その市振関所は市振集落の西はずれ、南には山が切立ち、北には日本海が迫る関所には恰好の地に設置された。慶長三年(一五九八)堀秀治が春日山城(現上越市)城主となった時に設け、加賀藩境番所に対したという(『西頸城郡史』)。天和三年(一六八三)の市振村検地帳によると、御番所屋敷として二五間に二四間、二反歩、遠見御番所として二三間半に九間、七畝一歩の二つが併記されている。
越中側の境番所について『越中志徴』によれば、関所を設けたのは上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いのころ、武田方へ塩が渡らぬように守ったのが起こりという。慶長一九年(一六一四)に関所が設置されたといわれ、境川を隔て東へ一千五〇〇メートルで市振関所である。現在、市振小学校にあるエノキの大木が市振関所の名残である。
市振から西に、
浄土崩は親不知難所の西口にあたり戦略上の要衝である。『承久記』に「市降浄土」とあり、越中にいた朝廷軍宮崎左衛門尉定範の先手が市振浄土に屯したことがみえる。また寛正六年(一四六五)善光寺に詣でた尭恵の『善光寺紀行』に「ゆきゆきて越後国の海づら。山陰の道嶮難をしのぎ。浄土といふ所に至りぬ。(中略)爰を去てゆけば。すなはち親しらずになりぬ」とある。その親不知は波除観音・大フトコロ・波除不動・走り込み・大崩れ・避難岩などの名があり、海賊部落の伝説が残る。源平合戦のとき、京都から落ちのびてきた池大納言平頼盛の妻が子供を大波にさらわれ「親しらず子はこの浦の波まくら越路のいそのあわと消えゆく」と詠んだのが地名の由来という。
長享三年(一四八九)親不知を越えた京都相国寺の僧万里集九は『梅花無尽蔵』に「有父不知子不知之嶮難、余平生所耳而已、待波瀾之回急走過、波吼崖崩頑石欹、伝聞父子不曾知、扶桑第一嶮難地、今日初嘗摩脚皮」と記し、波を除けて海岸を通り抜けるのに足をすりむいた様子が伺える。親不知を越えると外波集落があり、承元元年(一二〇七)越後国府へ流罪となった親鸞は道中親不知の難所を越え、外波浦から船に乗ったとする説もある。集落の南東に
元禄二年(一六八九)七月一二日『奥の細道』の途次にある芭蕉は「越中の国一ぶりの関に到」り桔梗屋という宿に泊まった。「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」身を横たえ、新潟の遊女二人のあわれな語らいをもれ聞く。翌日同行を懇願されたが断り、「哀さしばらくやまざりけらし」として「一家に遊女もねたり萩と月」と詠んだ。
(K・O)
初出:『月刊百科』1986年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである