岐阜県は、北陸三県などとともに真宗寺院の多い県である。とりわけ中濃から西濃には濃密に分布しており、総寺院数の七~八割をこえる市町村も珍しくない。
尾張・美濃における真宗の伝播は、嘉禎元年(一二三五)、葉栗郡
戦国時代、現在の岐阜県下で、本願寺教主より本尊を下付されたことが確認される寺院・道場は、蓮如の代二四、実如の代四九、証如の代二二、顕如の代二二といわれ、この時代、急激に真宗が民衆の間に広まったことがわかる。また、天文一〇年(一五四一)西美濃多芸一揆が起こったとき、斎藤道三が破却した新道場は三〇〇余カ所といわれるから、いかに西濃の真宗道場の分布が濃密であったかが知られよう。
通勝(専称坊)らが開いた木瀬の草庵は、やがて河野道場とよばれるようになり、ここに拠る門徒集団は河野門徒・河野九門徒(のち十八門徒)と称され、尾張・美濃での真宗の教線拡大や門徒集団形成に大きな役割を果たした。
河野門徒が史料の上に登場するのは、本願寺存如が「葉栗郡上門間庄本庄郷笠田村」(現川島町)の妙賢に下付した、阿弥陀如来絵像の裏書写(妙性坊文書)に「河野門徒」とあるのが早い例で、寛正五年(一四六四)五月、蓮如が善性に下付した十字名号(新潟県佐渡本龍寺蔵)の裏書は「羽栗郡河野道場本尊也」と記されている。また同じ月に道宣に下した十字名号の裏書写(善龍寺文書)には「羽栗郡河野門徒」とみえ、この頃、善性・道宣などによって門徒集団が結成されていたことが知られる。
河野九門徒の称は、『第八祖御物語空善聞書』にみえ、蓮如が山科本願寺南殿へ隠居する延徳元年(一四八九)以前に九門徒として組織されていたようである。その時期は、「河野惣門徒」の安置物として親鸞絵伝や親鸞絵像を下付した文明二年(一四七〇)頃と推定されている(親鸞絵伝は岐阜県河野六坊蔵)。この時期は蓮如が尾張巡錫の折、九門徒の一人巧念から木瀬草庵の由緒を聞き、それを再建したと伝える時期とほぼ一致しており、河野九門徒の組織化とその中心となる河野惣道場の成立がこの頃であったことをうかがわせている。この河野惣道場へ阿弥陀如来絵像が下付されたのは文明一八年九月であった(絵像は河野六坊蔵)。
河野惣道場は河野門徒の各道場主の輪番制で守られていったが、内部紛争もあった。天文五年、前述の親鸞絵伝や絵像などの什宝安置場所をめぐって、門徒内で対立が起こったのもその一例である。この紛争はそれら什宝の願主、すなわち河野惣門徒の中心的存在であった善性を先祖とする勝賢らが独占したことによって起こったもので、勝賢らは河野十八門徒から追われたが、同一〇年、証如の仲介で再加入している。河野門徒は毎年、本願寺に灯明料五〇〇疋を献納、また直参衆として実如忌などには上番勤仕した(以上『天文日記』)。
天文期以降、河野惣道場がどのような歴史をたどったかはよくわかっていない。一説には、専福寺住持忍悟が石山合戦に参加して討死、跡目は忍勝が継いだが(円覚寺文書)、忍悟の死を悼んだ教如が忍勝を惣道場の常輪番とし、のち河野惣道場が専福寺の寺号を名乗るようになったという。
忍悟・忍勝は河野通勝の系譜を引く者と伝え、河野氏が開いた道場の発展したものが専福寺と考えられている。専福寺は天文一六年、証如が勝賢に下付した阿弥陀如来絵像(加納専福寺蔵)の裏書に「河野専福寺常住物」とみえ、現在知られている裏書などのなかで河野を冠した寺号の初出とされている。元亀三年(一五七二)から天正一四年の間は、専福寺は現笠松町円城寺にあり、同一四年十月の池田照政判物(加納専福寺文書)によると、「円乗寺市場」が専福寺寺内と定められ、六斎市が保障されている。前述の忍勝はこの専福寺の住持職を継いだものであるが、同一四年段階で河野惣道場と専福寺が合一していたかどうかはわからない。
専福寺はその後移転を繰り返し、その過程で複数の同名寺院に分立していった。現在羽島市にある
(K・T)
初出:『月刊百科』1989年9月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである