琉球列島には保栄茂(びん)(豊見城市)、北谷(ちやたん)町、今帰仁(なきじん)村など難解な読みの漢字表記をもつ地名がおおい。漢字がひらがなやカタカナなどの表音文字と異なり、表意文字であり、さらに中国語の漢字とは異なり音と訓の二つの読みをもつなど複数の読みをもっているうえに、熟字訓や地名特有の慣用的な読みがあるからである。それにくわえて、琉球語のばあい、はげしい発音の変化のために、地名の発音がもとの表記からは想像もできないくらい変わってしまったのに、表記がそのままになっているからである。保栄茂、北谷、今帰仁などもそれぞれボエモ、キタタニ、イマキジンから変化したものである。
中城(なかぐすく)村や豊見城(とみぐすく)市、名護市東江(あがりえ)や与那国島の東崎(あがりざき)、竹富町の西表(いりおもて)島や具志川市西原(いりばる)なども難解な地名に属するものである。城をグスクと読んだり、東をアガリ、西をイリと読んだりすることは本土の人には想像もつかないにちがいない。琉球語で城や聖地をグスク、東をアガリ、西をイリといっていて、意味から漢字を使用し、読みを方言読みにしたためである。
琉球語は、日本語とのあいだに規則的な対応があり、日本語と共通の祖先から分岐した姉妹語で、日本語との親族関係が言語学的に証明されている。琉球語は、日本語の地域的な変種として認識され、「琉球方言」ともよばれる。しかし、琉球語が琉球列島の島々に広がっていき、そこで発展を遂げていくなかで激しい変化がおきたために、結果として本土諸方言とは大きく異なる形になり、本土の人にはまったく理解できなくなってしまったのである。
琉球列島北端の喜界(きかい)島(鹿児島県)を仙台市あたりに位置させると、那覇市は長野県松本市あたりで、列島最西端の与那国島は岡山市と広島市の中間くらいに位置する。約九〇〇キロにおよぶ広い海域に島々が点在していて、列島の北の端と南の端とではことばがまったく通じない。語彙的にも音声的にも文法的にも変異の幅は大きく、琉球語はじつに多様なのである。
佐敷(さしき)町兼久(かねく)、嘉手納(かでな)町兼久(かねく)、西原(にしはら)町兼久(かねく)、名護市大兼久(おおがねく)、大宜味(おおぎみ)村大兼久(おおがねく)など、沖縄には「兼久(かねく)」の地名がいくつもある。そして、北に目を転ずると、奄美諸島(鹿児島県)にも奄美大島の笠利(かさり)町中金久(なかがねく)、同町外金久(そとがねく)、名瀬市金久(かねく)町、大和(やまと)村大金久(おおがねく)、徳之島には天城町兼久(かねく)など、同系の地名がみられる。沖縄方言のカニクも奄美方言のカヌィクも砂地をさす一般名詞としてつかわれていることばで、それから派生して集落内の砂地の土地をあらわす小地名になり、さらに集落名として使用されるようになったのである。
沖永良部(おきのえらぶ)島(鹿児島県)南西部の知名(ちな)町住吉(すみよし)はかつて「島尻(しまじり)」とよばれていた。一方、一番の北の集落が「国頭(くにがみ)」である。沖縄本島の一番北の村を国頭村といい、南部地域の総称が「島尻郡」である。久米(くめ)島にも伊平屋(いへや)島にも南に島尻という集落がある。また、宮古島にも島尻という集落がある。
琉球列島には本土には見なれない地名があり、島ごと、地域ごとに特有の地名もあるが、その一方で、列島内で共通する地名もあって、地名の面からみても琉球列島には統一的なものがあることが確認できる。
一九八四年(昭和五九年)、与論(よろん)島(鹿児島県)へ方言調査にいったとき、与論島にも沖縄の「勢理客」と同じ地名があったらしく、それがどこなのか話題になり、地図や資料を見たり聞き取りをしたりしたが、わからずじまいだった。あとになって与論町立長(りっちょう)が古くは「瀬利覚」と表記されていたことをしった。瀬利覚なら勢理客と同系の地名である。そして、立長と瀬利覚ではずいぶんちがうものだとおもった。
一九八八年、方言調査のために沖永良部島をおとずれた。そこで知名町瀬利覚の方言形が「ジッキョ」であることをしった。それ以前に、その漢字の表記から浦添市勢理客(じっちゃく)と類似の地名だということは認識していたが、実際の発音は予想していたのとちがっていて、前半分は同じだが、後半分が似ておらず、あれっとおもった。そして、瀬利覚(じっきょ)の発音に接したとき、与論の「立長」は漢字表記のうえでは「瀬利覚」とはことなるものの、ふたつが同系の地名の表記であること、そして「瀬利覚」から「立長」への道筋がみえてきた。
瀬利覚(じっきょ)、勢理客(じっちゃく)と同系の地名には今帰仁村勢理客(じっちゃふ)、伊是名(いぜな)島勢理客(じっちゃく)がある。その漢字表記と方言形からその地名の祖型を「ゼリカコ zerikako」と推定できる。ゼリカコからジッキョ、そしてリッチョーまでの変化をみることにする。
今帰仁で、ジッチャフのように末尾が「フ」になっているのは、末尾のhが脱落しなかったからである。今帰仁方言では蛸をタフあるいはタフーという。与論島と沖永良部島で末尾がキョになっているのは、(二)で述べたように先行する母音iの影響でコ[ko]が拗音化してキョ[kjo]になったからである。
これらのことを総合すると、ゼリカコ → ゼリカク → ゼリキャク → ゼリキャフ → ジリキョホ → ジッキョという変化の過程をかんがえることができる。
与論町立長のばあいは、語頭のジがディ、そしてリへと変化し、末尾のキョーがチョーへと変化したのである。天保(一八三〇~四四)頃の滝家文書に出てくる与論島の「瀬利覚」は、発音が変化する前の段階の発音に基づく表記で、「立長」は変化が終了したあとの表記なのである。浦添市勢理客は、カクがキャクに変化したあとの、しかもチャクに変化する前の段階の表記であり、今帰仁村勢理客は、この表記がなされたあとに、語末のクがフに変化したとかんがえられるのである。
一九八四年に与論島で出された宿題からやっと解放された。しかし、あらたな課題がのこった。ゼリカコの語源は何だろうか。
一九八八年の沖永良部島では知名町下平川(しもひらかわ)を方言ではヒョーというのも知った。漢字表記と方言形が大きく異なり、両者には共通するところがまったくないようにみえた。これは立長(りっちょう)と瀬利覚(じっきょ)以上の難問だった。知名町久志検(ぐしけん)の方言調査では「虱」をシャーニ、「白」をシューということを知った。そして、だいぶ経ってから、はげしい発音の変化の結果、方言形のヒョーはヒラカワから次のような過程を経て変わったものであると確信した。
沖永良部方言では粟(あわ)をオー、縄(なわ)をノーというように、後半部の「川(かわ)」はコーとなる。また、蛸をトーというのと同じで、両側を母音のaとoに挟まれたkはhに変化し、さらに脱落してしまい、中の部分のラコー[rako]はロー[ro]になる。そして、白をシュー[sju]、「広さ」をヒューサ[hjusa]というのとおなじで、ヒョー[hjo]となる。現在の方言形のヒョーは、上に示したようにヒラカワから変化したものであることがわかる。平川(ひらかわ)は、その古い語形の発音を反映した表記なのである。
ところで、平川の「平(ひら)」は「平らなところ、平坦なところ」を連想させるのだが、「平」は平らなところを意味しているのだろうか。奄美沖縄地域の多くの方言で「ヒラ」は坂、あるいは傾斜地をさす一般名詞である。沖永良部方言でも、坂をあらわす単語はヒャーであるが、これもヒラから変化したものである。「平(ひら)」は字義ではなく、読みだけを万葉仮名風に利用したものだろう。また「川」は水の流れる川なのであろうか。奄美沖縄の多くの方言のカワは、水が流れる「川」ではなく、湧泉あるいは井戸をさすことばである。これらのことは、平川の語源を考えるとき考慮しなければならないことだろう。
琉球語の地名をかんがえるとき、琉球語が激しい音韻変化にみまわれていることを念頭にいれ、それぞれの地域でおこった発音の変化を考慮しつつ、類似の地名の比較をとおして祖型をみちびきだし、その祖型をもとに語源の探求をおこなうことが大事である。そして、そのとき、集落名だけでなく、小字名や地形などの一般名詞なども参考にする必要がある。集落名だけでなく、小字名や地形、地質に関する方言とそれに関する情報収集が不可欠であることはいうまでもない。
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