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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第99回 八軒家
【はちけんや】
92

大坂三郷屈指の河岸
大阪市東区
2014年02月21日

西南流してきた淀川から分れてほぼ南流する大川は、大阪のシンボル的存在である大阪城の北辺りで西に流れを転ずる。大川南岸の、天満てんま橋とその西の天神橋の間は、近世には八軒家とよばれる船着場で、名所図会や錦絵にその繁華な様子が描かれる。

この辺りは大坂城下の大坂三郷さんごうに含まれ、大川筋浜通に面した京橋三‐四丁目(現大阪市東区京橋二‐三丁目)にあたる。船着場は四丁目にあるので、四丁目を八軒家と通称する場合もあった。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図(大阪市立博物館蔵)や地誌『難波鶴』などには八軒屋・八間屋とも記され、地名の由来は八軒の旅籠があったためとも(『摂津名所図会』)、豊臣氏の大坂築城頃八軒の家があったことによるともいう(『浪華奇談』)。また、寛文一一年(一六七一)新板大坂之図(小泉家蔵)に「十四屋」、石山合戦図(大谷大学蔵)には「廿日宿」とみえ、古名とも思われるが、絵図類を根拠に「十日宿」を古名とする説(『淀川両岸一覧』)もある。

古代、上町うえまち台地上の大阪城南方には難波宮なにわのみやが置かれた。当時大和川と淀川は上町台地東方に広大な潟湖をつくり、西方には三角洲を形成して、多数の分流に分かれて大阪湾に注いでいた。船の着く津が各所にあり、総称して難波津とよんだ。欽明天皇一三年一〇月に百済の聖明王がわが朝廷に献じた仏像を、崇仏廃仏論争のすえ物部尾輿らの奏によって流棄したという説話(『日本書紀』)で知られる「難波の堀江」は、大川にあてられる。難波の堀江南岸は外交施設の難波館なにわのむろつみや摂津国衙が置かれるなど、重要な位置を占めていた。

古代から中世にかけては、天満橋付近を中心に、かつての大阪湾に面した広い地域を渡辺と称した。地名は、大江渡・大渡の「渡の辺」より起こったといわれ、渡部とも記し、九品くぼん津(『宴曲抄』)・くぼ津(『玉葉』文治三年八月二二日条)・大渡(同書同四年九月一五日条)ともよばれた。渡辺津は瀬戸内海交通の要衝として重視されたが、延暦二四年(八〇五)摂津国衙がここに移ってからは、国衙膝下の港として人の往来・船舶の出入がいっそう激しくなった。平安中期以降、京都の貴顕による四天王寺・住吉社・熊野・高野などへの参詣が盛んになるが、そのほとんどは船で淀川を下り、渡辺に上陸して南下、帰路はその逆であった。渡辺を本拠地として台頭した武士団渡辺党は、海陸にわたり多面的で遠隔地にまで及ぶ活動を展開した。

なお、歌枕としても知られる大江岸は渡辺津の一部で、近世には八軒家付近と考えられていた。

わたのべや大江の岸にやどりして
雲居に見ゆる生駒山かな

良暹法師(『後拾遺集』)

近世になると、それまで淀川と合流していた大和川が治水のため付替えられた。宝永元年(一七〇四)のことである。以降は、大阪城の北で大和川の残流である寝屋ねや川に、淀川左岸の低湿地帯の悪水排除のため掘削された鯰江なまずえ川が合流、淀川に流入するようになった。しかし、鯰江川は川床が低いため常に寝屋川や淀川の水勢に押されて流下が悪く、しばしば出水して被害を与えた。これを解消するため、安永三年(一七七四)鯰江川北岸の備前島びぜんじま町(現大阪市都島区)、西端の将棊島しょうぎじま(現東区)から西に向い、八軒家の前面に水分堤が築かれた。このため寝屋川・鯰江川は八軒家の前付近で大川と合流するようになった。

淀川の貨客輸送にあたった過書船は、江戸時代初期には山城伏見から大坂、伝法でんぽう(現大阪市此花区)、尼崎(現兵庫県尼崎市)を就航したが、のちには八軒家までとなっていた。延享版『難波丸綱目』によれば、京橋四丁目には三十石船の乗場が五カ所あり、八軒家旅籠屋一〇軒がある。また、五丁目にかけて伏見船大坂船番所もあり、京街道筋にもあたる浜通には諸商問屋が軒を連ねた。

八軒家は、『淀川両岸一覧』に「京師への通船は浪花市中所々にありといへども当舳岸を第一とす」とあるような過書船のほか、野崎参りなどの川筋小廻り船の発着で昼夜賑った。淀川を就航する天道船積送りの荷は、天満橋の下で上荷茶船に積替えて八軒家浜に荷上げするのが例であった。元文三年(一七三八)には、八軒家から一〇〇間足らずの天満橋で荷を積替え、小廻し賃をとられるのは不当であると町奉行所に訴えがあったが、却下されている(「諸川船要用留」大阪市史編纂所蔵)。

明治三年、伏見―八軒家間に淀川蒸気汽船が就航、従来の三十石船は次第に衰退した。同一〇年鉄道が大阪―京都間に開通し、さらに同四三年京阪電気鉄道が天満橋―京都五条間に開通するに及んで、淀川水運も貨物船のみとなって衰退し、八軒家もその役目を終えた。また、同四〇年、淀川の毛馬けま閘門こうもんの竣工により将棊島築堤も無用となり、昭和二年から七年の都市計画事業によって寝屋川と大川の合流点が現在地に移され、それより下流の寝屋川は埋立てられて八軒家の浜も地名も消滅した。

 

(K・T)

東区京橋2-3丁目は1989年の中央区誕生で同区北浜東、天満橋京町などになった


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初出:『月刊百科』1986年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである