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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第50回 沼垂町
【ぬったりまち】
43

河口に息づく町
新潟県新潟市
2011年03月25日

頼山陽は、その著『新策「輿地略」』で、「南北の送運は河に由り、東西の送運は海に由る。これ立国の大勢なり」と述べて、日本の地勢を論じている。道路・鉄道網の発達する以前、わが国の交通・運輸に占める舟(船)運の地位は、今日一般に想像されるより、はるかに高かった。沿岸を廻る海船のよき寄港地であった大河の河口は、内陸へと延びる河川輸送網の基点ともなり、物資流通の扇の要として、多くの湊町が栄えるところとなった。

現新潟市域で日本海へと注ぐ信濃しなの川・阿賀野あがの川の両河川は、どちらも背後に有数の豪雪地が控えていて、豊富な水量を誇る。この両大河の河口周辺にも、幾つかの湊町が生まれ、消長を繰り返してきた。現在、佐渡島と新潟を結ぶフェリーが発着する港(新潟西港)は信濃川の河口右岸(東岸)に設けられている。この新潟西港の位置する信濃川右岸一帯は、江戸時代、沼垂町と呼ばれ、新発田しばた藩の年貢米を大坂へ廻送するための津出し湊として賑わった。

永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(米良文書)には「ヌツタリノミナトノ旦那」との記述があって、すでにその頃より、沼垂は湊としての性格を帯びていたことがうかがえる。もっとも、信濃川・阿賀野川の流路が、今日の姿に大筋で定まったのは享保一六年(一七三一)のことで、それまで両河川は、幾度も川筋をかえてきた。永禄年間(一五五八‐七〇)には、信濃川は現在の関屋分水口(西方に五、六キロ)あたりで日本海へ注ぎ、現信濃川河口付近には、阿賀野川が注いでいたと思われる。この頃、両河の間には半島状に陸地が張り出していて、西方の信濃川左岸に新潟津(湊)、半島状の地に蒲原かんばら津があり、沼垂津は阿賀野川の右岸にあって最も東方に位置し、三津ともに湊として栄えていたと考えられている(新潟市史読本)。

幾筋もの新潟砂丘列を生んだ、南西から北東に向かう強い潮の流れは、信濃・阿賀野両川より押し出された土砂を河口に堆積させる。このため両川の河口は、少しずつ、あたかも首を振るように東進する。これに歩調をあわせて、河口の左岸(西岸)には新しい土地がつき、一方、右岸(東岸)は常に川欠け(洪水や水流で堤防などが壊れ、田・屋敷などが潰れること)の危機にさらされることになった。しかも、寛永年間(一六二四‐四四)頃には、二つの河川を結んでいた細流がいつしか阿賀野川の本流となる。この結果、阿賀野川は海寄りで西へ大きく迂回して信濃川へと流れ込み、両大河は河口を一つにするようになった。
こうした流路変遷に伴って、「延喜式」に越後国唯一の公津として記載され、平安期より栄えてきた蒲原津は湊としての機能を失った。沼垂は先祖伝来の地王瀬おうせ(現在の新潟市上王瀬町付近)を棄て、承応三年(一六五四)には合流していた信濃・阿賀野両川の河口にできた大きな中洲(大島)に移転する。さらに寛文四年(一六六四)には、大島よりいくぶん上手の、当時の新潟町の川向いにあたる信濃川の右岸へと移った。
この沼垂移転の原因は、いずれも激しい川欠けによるものであった。この頃の沼垂町を描いたと思われる「四度目沼垂町割王瀬山崩西川会河新潟川端堀口両湊絵図」(新潟市郷土資料館保管)によると、川縁に南から北へ本町が一ノ町から六ノ町と町並を連ね、五ノ町中ほどから北東に延びる道沿いには通一ノ町‐通六ノ町が並ぶ。しかし、この頃早くも川欠けに襲われる。町並の一部は薄青色に塗られ、すでに水没していることを示していた。

延宝八年(一六八〇)湊町としての再興を図った沼垂町は、町発祥の地王瀬に、当時の河渡新田こうどしんでん(現新潟市河渡付近)から阿賀野川の水をひく堀割を通して船入とする計画をたて、工事にも着手した。しかし新興の新潟湊は、新堀割による信濃川の減水を恐れて故障を入れ(不服を申し立て)、この争論は江戸訴訟に持ち込まれた。翌年の裁許は、新潟町の主張を全面的に認めるものであった。沼垂町は止むなく、信濃川支流の栗ノ木くりのき川(現在の栗ノ木バイパス)に沿って町割を行い、貞享元年(一六八四)最後の総移転を敢行した。これが現在の沼垂地区の原型となっている。

その後も幾度となく、信濃川河口の湊の権益や、川の中洲の帰属をめぐって沼垂・新潟両町は争うが、ことごとく沼垂側の敗訴となる。これは当時、新潟町の領主が譜代大名長岡藩牧野家であったのに対し、沼垂町の領主である新発田藩溝口家が外様大名であったことが影響したとされる。以後、新潟湊には多くの廻船が寄港し、遠く松前(北海道)や瀬戸内海沿岸の物資も集まった。さらに信濃川・阿賀野川の両水系に発展した長岡・蒲原・栃尾・津川などの各船道ふなとう(船統)による舟運によって、蒲原平野はもとより、会津地方などの他国内陸部とも繋がり、新潟町はその結節地として繁栄することになる。一方、度重なる敗訴によって湊の権益を失った沼垂町は、新発田藩の年貢米集散基地及び小規模の舟運による商業町へと姿をかえていった。

種々経緯のあった両町が合併したのは大正三年(一九一四)のこと。その後、旧沼垂町地区を含む信濃川右岸周辺は、前述新潟西港の各埠頭や上越新幹線新潟駅などが設けられ、再び交通の要地となった。現在、河口(湊)とともに盛衰した沼垂や蒲原の町と、そこに住んだ人々の面影をたどる一つのよすがとして、新潟駅から西港にかけ、沼垂東、沼垂西、蒲原町、古湊町などの町名が残る。

(H・O)

新潟西港付近は、江戸時代には沼垂町という湊町であった。


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初出:『月刊百科』1986年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである