頼山陽は、その著『新策「輿地略」』で、「南北の送運は河に由り、東西の送運は海に由る。これ立国の大勢なり」と述べて、日本の地勢を論じている。道路・鉄道網の発達する以前、わが国の交通・運輸に占める舟(船)運の地位は、今日一般に想像されるより、はるかに高かった。沿岸を廻る海船のよき寄港地であった大河の河口は、内陸へと延びる河川輸送網の基点ともなり、物資流通の扇の要として、多くの湊町が栄えるところとなった。
現新潟市域で日本海へと注ぐ
永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(米良文書)には「ヌツタリノミナトノ旦那」との記述があって、すでにその頃より、沼垂は湊としての性格を帯びていたことがうかがえる。もっとも、信濃川・阿賀野川の流路が、今日の姿に大筋で定まったのは享保一六年(一七三一)のことで、それまで両河川は、幾度も川筋をかえてきた。永禄年間(一五五八‐七〇)には、信濃川は現在の関屋分水口(西方に五、六キロ)あたりで日本海へ注ぎ、現信濃川河口付近には、阿賀野川が注いでいたと思われる。この頃、両河の間には半島状に陸地が張り出していて、西方の信濃川左岸に新潟津(湊)、半島状の地に
幾筋もの新潟砂丘列を生んだ、南西から北東に向かう強い潮の流れは、信濃・阿賀野両川より押し出された土砂を河口に堆積させる。このため両川の河口は、少しずつ、あたかも首を振るように東進する。これに歩調をあわせて、河口の左岸(西岸)には新しい土地がつき、一方、右岸(東岸)は常に川欠け(洪水や水流で堤防などが壊れ、田・屋敷などが潰れること)の危機にさらされることになった。しかも、寛永年間(一六二四‐四四)頃には、二つの河川を結んでいた細流がいつしか阿賀野川の本流となる。この結果、阿賀野川は海寄りで西へ大きく迂回して信濃川へと流れ込み、両大河は河口を一つにするようになった。
こうした流路変遷に伴って、「延喜式」に越後国唯一の公津として記載され、平安期より栄えてきた蒲原津は湊としての機能を失った。沼垂は先祖伝来の地
この沼垂移転の原因は、いずれも激しい川欠けによるものであった。この頃の沼垂町を描いたと思われる「四度目沼垂町割王瀬山崩西川会河新潟川端堀口両湊絵図」(新潟市郷土資料館保管)によると、川縁に南から北へ本町が一ノ町から六ノ町と町並を連ね、五ノ町中ほどから北東に延びる道沿いには通一ノ町‐通六ノ町が並ぶ。しかし、この頃早くも川欠けに襲われる。町並の一部は薄青色に塗られ、すでに水没していることを示していた。
延宝八年(一六八〇)湊町としての再興を図った沼垂町は、町発祥の地王瀬に、当時の
その後も幾度となく、信濃川河口の湊の権益や、川の中洲の帰属をめぐって沼垂・新潟両町は争うが、ことごとく沼垂側の敗訴となる。これは当時、新潟町の領主が譜代大名長岡藩牧野家であったのに対し、沼垂町の領主である新発田藩溝口家が外様大名であったことが影響したとされる。以後、新潟湊には多くの廻船が寄港し、遠く松前(北海道)や瀬戸内海沿岸の物資も集まった。さらに信濃川・阿賀野川の両水系に発展した長岡・蒲原・栃尾・津川などの各
種々経緯のあった両町が合併したのは大正三年(一九一四)のこと。その後、旧沼垂町地区を含む信濃川右岸周辺は、前述新潟西港の各埠頭や上越新幹線新潟駅などが設けられ、再び交通の要地となった。現在、河口(湊)とともに盛衰した沼垂や蒲原の町と、そこに住んだ人々の面影をたどる一つの
(H・O)
初出:『月刊百科』1986年7月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである