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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第14回 宇目 
【うめ】
7

豊薩両軍対決の地
大分県南海部郡宇目町
2008年03月21日

 宇目町は南西から北東に延びる九州山地の東端、旧豊後・日向の国境地帯に位置し、南から西を一四〇〇‐一六〇〇メートル級の(かたむき)山系に囲まれ、九州山地の主軸方向には六〇〇‐七〇〇メートルの山が連なる。日向へは標高約七〇〇メートルの(あずさ)峠を越えるのがメインルートで、このルートは、古代には豊後小野(おの)駅と日向長井(ながい)駅を結ぶ官道であったと考えられている。しかしこの峠越えは難路で、時宗の遊行上人が記した『遊行日鑑』の延享四年(一七四七)四月の記事には「九州大難所」とあり、「大衆歩行上り壱里半、下り壱里半」と記されている。
 地名宇目は南北朝期から史料にみえ、ほぼ現在の宇目町域を指す地名であったとみられる。応安六年(一三七三)四月四日の今川義範感状(『薩藩旧記雑録』所収)に「宇目長峯」とみえるのをはじめとして、地名の表記は宇目が多いが、梅と記したものもある。ただしこれは土地には不案内な島津家臣上井覚兼の日記なので、宇目が古くからの表記であったようだ。めずらしい地名で、他に例を知らない。

 国境の、しかも要路の通る土地であるため、九州にあって、ともに勢力を拡大しつつあった大友氏と島津氏の勢力が直接的にぶつかり合う場として宇目はあった。
 天正六年(一五七八)春、大友宗麟は嫡子義統を総大将として日向へ侵入するよう命じた。名目は、島津氏に接近した土持親成を討ち、姻族である日向伊東氏の旧領を回復するためというものであった。大友方の佐伯宗天(惟教)は三月九日に宇目表まで出陣することになり(三月二日「佐伯宗天書状」薬師寺文書)、同月二八日には義統はじめ諸軍が宇目村に結集した(「大友義統書状案」伊東文書)。義統の本営は宇目村酒利(さかり)に置かれた。全軍は七隊に分けられ、先鋒佐伯宗天は屋峯(やがみね)口、志賀親教は梓口(以上現宇目町)から日向に入り、四月一〇日土持親成の松尾(まつお)城(現宮崎県延岡市)を陥れた(『大友家文書録』)。
 宗麟は同じ年の秋に二度目の日向遠征を試みる。目的は、日向にキリスト教的理想国を建設することにあったという。大友軍の出陣は、天正六年九月四日(一五七八年一〇月四日)のサン・フランシスコの祭日であった。宗麟は夫人ジュリア、イエズス会宣教師と二人の修道士を随行させ、務志賀(むしか)(現延岡市)に本営を置くと仮会堂などを建設した(フロイス『日本史』など)。しかしこの時の遠征は島津軍の猛反撃にあって大敗、務志賀から宇目に退却したが、退路は梓峠越えをとったと思われる。なお大友氏の仮会堂建設などは島津方の印象に残るものであったらしく、同一三年八月二五日、島津家久らは川船で旧蹟を訪れている(『上井覚兼日記』)。島津氏との角逐のなかで同一二年一二月二四日、大友府蘭(宗麟)は義統に対し、島津軍の侵入に備えるため志賀道輝(親守)を宇目村に派遣するよう伝えており(「大友府蘭書状」大友松野文書)、これ以後道輝が宇目の皿内(さらうち)城(あるいは朝日岳城)に置かれたようである。

 同じ頃豊後攻略を目指す島津氏は、肥後口と日向口からの侵入を企てて偵察を行なっていた。天正一四年正月三日、島津義久は軍議のため実弟の義弘・家久はじめ老臣等を鹿児島に召集、二二日の護摩所での占いによる神意に従い、豊後への侵入路は肥後・日向の両口からと確定した(『薩藩旧記雑録』など)。『上井覚兼日記』同年六月八日条によると、出陣は六月中は一六・一七の両日が大吉日、七月は一日のみが吉日との神意が告げられた。しかし両口とも遠方のため、六月の出陣には時間的余裕がないとして、調伏の矢を一六日中に豊後国内に射込んで侵入にかえることになった。
 島津氏は九州最強の軍団を誇る大友氏と事を構えるには極めて慎重で、重大な局面では神意に従う場合が多かった。神意は三之山今宮(現宮崎県えびの市)と霧島神社から出されたようである。六月二四日には調伏の矢の射手が帰り、(じょう)(こし)(現宇目町)辺りに射込んだ旨の報告があったが、豊後侵入は前と異なる今宮の託宣で変更された。八月二二日、義久は日向口進発にあたり、宇目口朝日(あさひ)岳および豊後内端に調伏の針を伏せることとし、軍師川田義朗に祈念させるとともに、覚兼に然るべき仁に針を伏せさせるよう命じた。覚兼は朝日岳には容易に伏せられるが、敵領内への伏せ込みは困難であると答えている(『上井覚兼日記』)。
 天正一四年一一月家久軍は梓峠越えで宇目に侵入、まず朝日岳城の柴田紹安を裏切らせて土持親信(親成の子)を入れた(『大友家文書録』)。北進した家久軍は一二月一三日に豊後府中に入ったが、翌一五年豊臣秀吉の九州出馬が噂されたこともあって、三月一五日撤退を決定、同日夜半府中を出立して翌日松尾(まつお)城(現大野郡三重町)に入り、一七日早朝宇目の嶮難を越えた。高動野(こうどの)で大友軍を撃退してハゼカウ()(以上宇目町)で野営し、一八日大友軍との戦闘を繰り返して梓峠越えで日向に入ったという(『薩藩旧記雑録』など)。一五日夜府中を発って二泊で日向に入る強行軍であった。
 天正一五年五月の豊臣秀吉九州平定により両者の攻防も終りを告げる。明治六年(一八七三)峠を通るルートは廃された。

(K・T)


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初出:『月刊百科』1995年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。