宇目町は南西から北東に延びる九州山地の東端、旧豊後・日向の国境地帯に位置し、南から西を一四〇〇‐一六〇〇メートル級の
地名宇目は南北朝期から史料にみえ、ほぼ現在の宇目町域を指す地名であったとみられる。応安六年(一三七三)四月四日の今川義範感状(『薩藩旧記雑録』所収)に「宇目長峯」とみえるのをはじめとして、地名の表記は宇目が多いが、梅と記したものもある。ただしこれは土地には不案内な島津家臣上井覚兼の日記なので、宇目が古くからの表記であったようだ。めずらしい地名で、他に例を知らない。
国境の、しかも要路の通る土地であるため、九州にあって、ともに勢力を拡大しつつあった大友氏と島津氏の勢力が直接的にぶつかり合う場として宇目はあった。
天正六年(一五七八)春、大友宗麟は嫡子義統を総大将として日向へ侵入するよう命じた。名目は、島津氏に接近した土持親成を討ち、姻族である日向伊東氏の旧領を回復するためというものであった。大友方の佐伯宗天(惟教)は三月九日に宇目表まで出陣することになり(三月二日「佐伯宗天書状」薬師寺文書)、同月二八日には義統はじめ諸軍が宇目村に結集した(「大友義統書状案」伊東文書)。義統の本営は宇目村
宗麟は同じ年の秋に二度目の日向遠征を試みる。目的は、日向にキリスト教的理想国を建設することにあったという。大友軍の出陣は、天正六年九月四日(一五七八年一〇月四日)のサン・フランシスコの祭日であった。宗麟は夫人ジュリア、イエズス会宣教師と二人の修道士を随行させ、
同じ頃豊後攻略を目指す島津氏は、肥後口と日向口からの侵入を企てて偵察を行なっていた。天正一四年正月三日、島津義久は軍議のため実弟の義弘・家久はじめ老臣等を鹿児島に召集、二二日の護摩所での占いによる神意に従い、豊後への侵入路は肥後・日向の両口からと確定した(『薩藩旧記雑録』など)。『上井覚兼日記』同年六月八日条によると、出陣は六月中は一六・一七の両日が大吉日、七月は一日のみが吉日との神意が告げられた。しかし両口とも遠方のため、六月の出陣には時間的余裕がないとして、調伏の矢を一六日中に豊後国内に射込んで侵入にかえることになった。
島津氏は九州最強の軍団を誇る大友氏と事を構えるには極めて慎重で、重大な局面では神意に従う場合が多かった。神意は三之山今宮(現宮崎県えびの市)と霧島神社から出されたようである。六月二四日には調伏の矢の射手が帰り、
天正一四年一一月家久軍は梓峠越えで宇目に侵入、まず朝日岳城の柴田紹安を裏切らせて土持親信(親成の子)を入れた(『大友家文書録』)。北進した家久軍は一二月一三日に豊後府中に入ったが、翌一五年豊臣秀吉の九州出馬が噂されたこともあって、三月一五日撤退を決定、同日夜半府中を出立して翌日
天正一五年五月の豊臣秀吉九州平定により両者の攻防も終りを告げる。明治六年(一八七三)峠を通るルートは廃された。
(K・T)
初出:『月刊百科』1995年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。