和名抄の地名を少し注意深く通覧すると、一つの興味ある現象が浮かんでくる。初めにそれを少し書きだしてみよう。
(1) | 都宇(備中) | (2) | 都宇(安藝・沼田) |
(3) | 紀伊(山城) | (4) | 紀伊(讃岐・苅田) |
(5) | 由宇(周防・玖珂) | (6) | 由宇駅(長門・大津) |
(1)は郡部に〈津〉の注がある。(2)は延喜兵部式・高山寺本駅名にもみえるので、駅家郷と思われる。この二つはともに津に由来する地名であろう。上にはあげなかったが、備後国沼隈(ぬまくま)郡に「津宇郷」があり、対照資料がなくて確言しえないが、後世の「津之郷」に比定される。(3)は郡部に〈支〉の注があるほか、古事記の「木臣」、日本書紀の「紀郡」などが該当する。(5)は延喜八年(九〇八)の戸籍にもみえ、現在も同じ表記で残っている。(6)とともに、温泉に由来する地名だろう。
これについて、奈良時代の官命によって好字二字に改変したのだから当然だ、という人があるかもしれない。確かにその一面はあるだろう。だが、ことはそんなに単純ではない、とわたしは考える。さらに広く拾ってみよう。
(7) | 湯泉(石見・邇摩) | (8) | 温泉(伊予) |
(9) | 斐伊(出雲・大原) | (10) | 肥伊(肥後・八代) |
(11) | 弟翳(備中・下道) | (12) | 宝飫(参河) |
先の(5)と(6)は音仮名地名であったが、(7)と(8)は意字で書かれ、それぞれ〈由〉〈湯〉の訓がある。肥後国山鹿(やまが)郡には「温泉郷」もある。(9)には風土記の「斐伊郷」「斐伊村」「樋社」など多くの傍証が、(10)にも風土記逸文の「火邑」、天平九年(七三七)正税帳の「肥君」などの傍証がある。(11)は高山寺本に貴重な注〈弖 国用手字〉がある。
(12)は郡部に〈穂〉の注があり、奈良時代の資料に「宝飫」「穂」の表記がみられる。この類例に和名抄の野応(紀伊・名草)がある。『日本霊異記』下巻の「能応里」「能応村」「能応寺」によって、本来「野」であった地名が二字化によって「能応」と書かれたもので、和名抄の「野応」は通俗表記の露見と解したい。野里(若狭・遠敷)が、平城宮跡や安堂寺遺跡から出た木簡などに「野郷野里」「野郷」ともみえるが、延喜兵部式・高山寺本駅名には「濃飫駅」とある。平安時代には「濃飫」が正式な表記だったのだろう。ほかに呼唹(和泉・日根)、贈唹(大隅)などもある。そのほかは省略に従う。
上にみたものは全て畿内以西の地名である。ほかに東日本域のものが二つだけある。
(13) | 渭伊(遠江・引佐) 高山寺本に〈為以〉、大東急本に〈井以〉 |
(14) | 都宇(越後・頚城) 高山寺本に〈豆宇〉、郷名は大東急本 |
(14)の郷名は高山寺本に「都有」とあるが、「有」はきわめて稀な仮名で誤写とおぼしい。しかし、この郷名が「ツウ」と読むことを要求していることは動かない。
それにしても、この一音節語らしい地名、それを二字で表記したらしい地名が西日本に偏るのはなぜだろうか。そう考えると、日本語史において、一音節とおぼしい語が二音節らしく書かれた例があるという事実が思い起こされる。それは歌や散文では露見することがほとんどないが、辞書や音義で単語を個別にとりあげるときに現われる。濱田敦(一九五一)によって平安時代の資料から引き、出典を括弧書きしよう。
(15) | 蚊・蚋 | 加安 | (新訳華厳経音義私記) |
(16) | 蚊 | 加阿 | (最勝王経音義) |
(17) | 尨蹄子 | 世衣 | (本草和名) |
(18) | 鉤 | 知伊 | (新撰字鏡) |
(19) | 杼 | 比伊 | (新撰字鏡) |
(20) | 藺 | 為伊 | (延喜内膳式) |
万葉仮名のとおりに読むと、それぞれカア・セエ・チイ・ヒイ・ヰイとなる。しからばこれは二音節語であったかというと、ことはいかにも微妙である。
『類聚名義抄』は平安時代末期の日本語の声調(アクセント)も伝える辞書である。それによると、京都のことばには現在の高低以外の声調もあったことが分かる。一つは、仮名の左下隅より少し高い位置に点を付して下降調を示し、いま一つは仮名の右肩に点を付して上昇調を意味した。同書の諸本と周辺の諸書から声点付きの語を集めた、望月郁子(一九七三)によって一音節語の名詞を拾うと、下降調に「衣(え)」、上昇調に「棲(す)・栖(す)、簀(す)、尨蹄子(せ)、沼(ぬ)、歯(は)、桧(ひ)、杼(ひ)、苧(ひ)、妻(め)、褶(も)、屋(や)、柚(ゆ)、藺(ゐ)、餌(ゑ)、(を)」がある。
先にあげた五語のうち、(17)尨蹄子、(19)杼、(20)藺の三語が、まさにそれに当たる。これは偶然とはいえまい。すなわち畿内以西では、東日本よりも一音節語を長めに発音する傾向が強かった。一音節語と思われるのに、その地域では二字表記される地名が多かったのは、そのような音声特徴を反映したものだったのだと考えたい。その音声特徴が現在にも受け継がれていること、いうまでもない。
いくつかの言語事象に注目して本州を東西に分ける等語線を引くと、北端の親不知(おやしらず)付近を要にして、南端は桑名(くわな)から富士川辺までの扇の形ができる。先に東日本域における例外とした(14)の頚城(くびき)は親不知に近く、(13)の引佐(いなさ)は浜名湖を通る線に近い。これはきわめて興味ぶかい。すなわち、西国的特徴がわずかに東に流れ出したものと解釈できるからである。
以上の節では大局的な考察によって、古代地名の地域性、とくに西と東の差異を考えてみた。残る紙幅では、日本列島の北辺と南辺の地名をみてみよう。
和名抄郡部の陸奥国の「気仙」に〈介世〉の訓がある。郷名部では高山寺本にだけ〈気ゝ如結〉の注がある。大東急本には「気仙」「大嶋」に続けて「気前」の郷名をあげている。これは「気仙」に付せられた訓を郷名と誤認したものだろう。
さて、「気仙」は郡部の訓によるとケセと読まれたことになるが、これは奇妙な日本語地名である。固有の日本語でエ列音が続くことはきわめて稀なことだからである。その稀なばあいも、蔑視語(ペジョラティブ)に傾く節がある。すなわち、記号的な語には「似而非」の漢字が当てられる「えせ」があり、秘語「ヘへ」「めめ」、幼児語「べべ」「めめ」であり、その他は下品な笑い声「えへへ」、悪しきさまの擬態語「へべれけ」「でれでれ」である。
母音の排列だけではない。〈気ゝ如結〉の「ゝ」は「音」の省画「亠」の草書体に拠る、とわたしはみている。すると、この注は、「気」を「結」のように、すなわち「ケッ」のように読めという指示だと解釈できる。また、下字にあえて鼻音字「仙」を用いたのは、やはりセンとよばれていたからだろう。つまりこの郡名「気仙」は平安時代中期の畿内語らしからぬ促音と撥音をもつ地名「ケッセン」だったということになる。これが蝦夷の言語の反映かいなかは軽々には断じえないが、日本列島の北辺の地名ということを十分に考えておかなくてはなるまい。
和名抄の地名を巻頭から読んできて終わりに近くなると、急に読み方が難しくなる。それはとくに大隅・薩摩に著しい。この二国はクマとソの住んだ地域とされるのだが、大隅国では、謂刈(謂列)・姶臈・祢覆・姶羅・肝属・馭謨、薩摩国では納薩・利納・葛例・頴娃・揖宿・給黎などがそうである。誤写も重複もあるようだし、他の文献に参照しうる用例の少ないゆえもあるが、それにしても読みにくい。その原因の一つが、謂、姶、臈、肝、属、馭、謨、頴、娃、給、黎など、稀用字の多いことである。たとえば姶羅は、古事記中巻の「阿比良比売」、神武即位前紀の「吾平津媛」によってアヒラと読むことができ、『続日本紀』にも「姶」とみえる。だが、漢土でも稀用の「姶」をここに用いた意図をわたしははかりかねている。
これは文字の問題であって、地名そのものに関わることではないが、かかる文字はなにびとによって選ばれたのだろうか。この地方の住民が敢えて選んだのだとすると、中央政権に対して己れの異質性を主張する意図の顕現だろうか。中央政権が用いたとすると、恭順の意を示さなかった者どもに、権威を印象づけるためだったかもしれない。いずれにせよ、そのように特異であることも地域性の一つである。
最後に大隅国の馭謨郡。郡部に〈五牟〉の訓がある。平安時代の用例もあって、ゴムと読むことを否定する材料はないので、語頭に濁音を有する唯一の古代地名となる。これこそ、地域性からみた古代地名の、東の横綱「気仙」に対する西の横綱なのである。
東西に大きく二分できる日本語が、古代にはどうであったかということを、地名から考えた本稿で、次のようなことを述べた。
一 東国では崖を意味する「まま」という語が用いられた。「渓谷」を意味する現代語が、西日本で「たに」、東日本で「や」とおよそ分かれるが、古代地名にもその傾向が確かめられる。
二 近畿地方では現在も、一音節語を少し伸ばしぎみに発音する傾向がある。古代にも、西日本には、港に由来する地名「津」、温泉に由来する地名「湯」が、それぞれツウ、ユウと読める表記や訓をもつことが多い。現在の言語の特徴が古代にもあったことを思わせる。
三 陸奥国の「気仙」郡は、和名抄の注と訓によると、ケセあるいはケッセンと読まれる。大隅国の「馭謨」郡に和名抄はゴムの訓をつけている。ともに古代の畿内日本語としては特異な、あるいは珍しい語形である。それが当時の日本の北辺と南端にみえるのである。
以上、数少ない「地名」という窓から古代の日本語を垣間見てきた。今後、古代の文献が新たに発見されることはほとんど望めないだろう。しかし、全国各地で進む古代遺跡の発掘によって、木簡、墨書・刻字土器、漆紙文書などの出土が報告されている。それらによって、地方の物産や地名の判明することが多い。木簡類の出土はなお続く可能性が大きいので、古代日本人の生活の諸相も少しずつ明らかになるだろう。そのための思索を、わたしもたゆまずに続けようと思う。
初出:『歴史地名通信』<月報>50号(2005年・平凡社)
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