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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第36回 筑摩江
【つくまえ】
29

湖の民の原郷
滋賀県坂田郡米原町
2010年01月22日

西へ向う新幹線列車が米原まいばら駅を過ぎると、右手車窓に豊かな農村風景が広がり、目をこらすと、点在する建物や木立の間に琵琶湖を垣間みることができる。昭和十八年(一九四三)、戦時下の食糧増産を目的に干拓が開始され、同二十二年に工事が完了するまで、ここに琵琶湖第二の内湖筑摩江があった。現在、米原町入江いりえとよばれる地区である。干拓前の筑摩江の規模は、東西約一・九六キロメートル、南北約三キロメートル、面積約三三〇ヘクタールで、造成された農地は約三〇五ヘクタールにおよぶ。
筑摩江の名は平安時代から都人に知られて歌に詠まれ、のちには歌枕となった。良暹の次の歌(『後拾遺和歌集』)などが伝えられている。

つくまえの底のふかさをよそながら
ひけるあやめのねにてしるかな

筑摩江は、近世から近代にかけてはいそ内湖(入江)・入江内湖などともよばれ、南に続く松原まつばら内湖(これも干拓された。現在の彦根市松原町一帯)につながっていた。正応四年(一二九一)に書かれ、文明六年(一四七四)に再写したものを承応二年(一六五三)に写したという絵図(「南都興福寺派下近江国坂田郡筑摩社並七ヶ寺之絵図」米原小学校蔵)は、中央に筑摩神社(神社は現在チクマとよぶ)を配し、筑摩江の広がりと周辺一帯の郷村を描いていて古態をうかがわせる。この絵図によると朝妻あさづま・筑摩の集落の南方に位置する筑摩神社とその南の磯集落の間に、琵琶湖と筑摩江を結ぶ水路がある。近世には、筑摩江の北から東に筑摩村・中多良なかたら村・下多良村・米原村・うめはら村などが位置し、磯村が琵琶湖と筑摩江に挟まれた砂洲上に立地していた。

かつての湖辺一帯には縄文時代から平安時代後期にかけての集落遺跡が点在し、多種多様な遺物が検出されている。とくに注目されるのは木製品で、昭和六十年の調査ではスキ・クワなどの農耕具をはじめ弓・カイ・紡績具などが出土し、翌年の調査では出土木製品の数は三千点を超えた。その中には祭祀具も多量にみられる。砂洲上からは平安時代初期の遺跡がみつかっており、筑摩御厨つくまのみくりやに関連する官衙跡ではないかと推定されている。ここからは「月足」「郡」と書かれた墨書土器や硯も出土した。

筑摩御厨は、筑摩江周辺一帯を生活の場とする漁労民が、贄人にえびととして供御くごの魚類を貢進した宮内省内膳司(延暦十九年以前は大膳職に属す)の料所で、その起源は天智天皇の時代にさかのぼるといわれている。『延喜式』内膳司条によれば、近江国は年料として煮塩年魚二石・鮒・鱒・阿米魚・氷魚を納め、「醤鮒・鮨鮒各十石、味塩鮒三石四斗」を筑摩御厨が造進した。そして近江・和泉・紀伊・淡路・若狭の五ヵ国の御厨が結番して、決められた日に貢進することになっていたが、近江国御厨は卯の日に御贄を担当している。なお、近江国内には筑摩御厨のほか勢多せた和邇わにの両御厨があり、田上網代たなかみあじろも設定されていた。

筑摩御厨の供御の貢進は、延久の新制まで長く続いたが、延久二年(一〇七〇)二月、制度の改変により停止され(『扶桑略記』)、その役割を終えた。しかし贄人の流れをくむ漁労民は、中世には坂本日吉ひよし社の神人となって同社に魚類を貢進しており、彼らの居住地や免田は日吉社領筑摩十六条郷とよばれるようになった(『日吉社領注進記』『伺事記録』)。彼らは同郷を流れる多良川(天野川)にやなをかける特権を保証されており、この特権は近世にも多良の人々に継承された。また磯の人々も近世には、彦根藩から筑摩江の漁業や舟運の特権を認められていた。こうした藩の保護は、磯村の前代以来の特権に対する承認と考えられ、磯の人々も御厨の贄人の系譜につながるものと考えられる。

筑摩神社は御食津みけつ神を主祭神とし、大歳おおとし神・倉稲魂うかのみたま神・大市姫おおいちひめ神を配神するという。おそらく贄人たちによって祀られたものであり、祭神もそれにふさわしい。前述した遺跡出土の祭祀具も何らかの関連をもつものと推定される。筑摩神は、仁寿二年(八五二)三月従五位下の神階を与えられた(『文徳実録』)。しかし『延喜式』神名帳には登載されていない。『興福寺官務牒疏』には承和八年(八四一)奈良興福寺の別所となったとあり、「筑摩神 在坂田郡筑摩浜、号今江寺、神主弐人、神人五人、社僧一人、(中略)二十五邑土産神也」と記されている。神仏習合が進み別当今江こんごう寺と一体化している姿がみられるが、もし承和八年の別所化が事実なら、『延喜式』成立時には既に魚味を供さない社となっており、そのために神名帳から除外されたのかもしれない。
同社の鍋冠り祭は平安時代から著名で、『伊勢物語』や『後拾遺和歌集』に詠歌がある。源俊頼の『雑和集』に「(筑摩明神の)御誓にて女の男したる数に随ひて、鍋を作りてその祭の日たてまつるなり」と記される奇祭であったが、戦国時代に衰退、一基の神輿と少女が鍋形の張り笠を頂いて、形ばかりの渡御を四月八日に行うようになったという(現在は五月三日に行われている)。

(H・M)


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初出:『月刊百科』1991年4月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである