昭和五五年(一九八〇)全国で一一番目の政令指定都市となった広島市も、現在中心とされる中区・南区・西区付近の大部分が、近世初期まではまだ海中であったことを知る人は少ない。
北方中国山地より流れ出した諸流を集めて流れる太田川は、安佐北区可部町付近でさらに三篠川・根谷川・南原川などの水を加えて一気に南流する。現在ではこの南下の流路は、広い氾濫原の東端を通り、下流で猿猴川・京橋川・元安川・本川・天満川・太田川放水路に分かれて広島湾に流れ込むが、古くは氾濫原の西側を流れ、広島湾もはるかに深く湾入していたという。
平安時代末期、厳島神社の荘園は太田川上流の山県郡一帯にもひろがったが、その物資は太田川を下って河口近くにあった倉敷に集められた。仁安元年(一一六六)一一月一七日の伊都岐島社領安芸国志道原庄倉敷畠代立券文(新出厳島文書)によれば、佐東郡桑原郷内の地が、現在の山県郡豊平町にあった厳島社領志道原庄の倉敷地とされている。また嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領壬生庄立券文(同文書)にも桑原郷内の地が山県郡千代田町にあった壬生庄の倉敷地とされたことが記される。この桑原郷はすでに『和名抄』にその名がみえ、現在の安佐南区園町東山本・西山本・長束あたりに比定され、さらに志道原庄倉敷の地に伊福郷堀立の地が含まれたとされるから(同文書)、現在の園町南下安の帆立付近も厳島神社倉敷であったことが知られる。当時太田川は、現在でははるか内陸部になっている国鉄可部線付近を流れ、下園・安芸長束の両駅付近が河口で、太田川舟運と内海航路の接点として重要な位置を占めたものと思われる。
天正一七年(一五八九)毛利輝元は先祖伝来の地である高田郡吉田の郡山城を捨て、交通便利な太田川河口に新しい城を築く決心をした。輝元の目には豊臣秀吉の大坂城など、平地に築いた城の繁栄が焼きついていたといわれる。
その頃の太田川河口はデルタ地帯に島が点在し、五つの寒村があって五ヶ庄と呼ばれていたという。近世の地誌『知新集』は「秘記曰」として
抑此広島之地昔ハ入海にて、東ハ海田より府中或ハ畑賀村
江越、温品通り大内越牛田山を越し、夫より戸坂
江出、爰に渉し舟ありて
園山本へ渡り、夫より佐東楠村己斐草津
江通る、是西国への通路なり、其後星霜遥に経て人家所々に出来、農業事足りしより、分て五ヶの庄といへり、所謂五ヶ庄ハ鍛冶塚庄・平塚庄・在間庄・広瀬庄・白島庄
亦筥島是なり
と記している。古くから湾内にあった比治島・仁保島・江波島などの奥に、河口に堆積した土砂が中洲をつくり、さらに人が住むようになっていた様子がわかる。
天正一七年正月、輝元がのちに普請奉行となる二宮就辰に出した書状に「島普請せひとも可仕立存候、世上之おもハく嘲にて候条、かい分可申付候」と記しており、この地を城地と定めた輝元の決意と、世間の反応が知られる。
城は当時筥島(白島とも)と呼ばれた中洲の南にあった河口最大の洲(島)に建設され、広島城と命名された。この命名は城主輝元の祖先大江広元の広と、城地選定に功のあった家臣福島元長の島によるとされる(瑞川寺縁起など)が、当時太田川三角洲中最大の広さをもつ洲であった故の名とするのが一般的である。また、輝元が郡山城から広島城に移ったとき、吉田と広島を結ぶ豊島道の峠に領民が一列に並び、荷物を手渡しで運んだという伝えもある。
天正一九年この城に入った輝元も、わずか十数年にして防長に減封。代って福島正則が入城した。城下町はこの正則によって整ったとされるが、その最大の功績は、山陽道を城下に通したことである。東の猿猴橋を渡って京橋町、京橋を渡って橋本町、南折して石見屋町・山口町・銀山町、途中西に折れて鈄屋町・堀川町・平田屋町・播磨屋町・革屋町・横町、元安橋を渡って中島本町、猫屋橋(現本川橋)を渡って塚本町・堺町一‐四丁目と、西国街道(山陽道)沿いに並ぶ町人町は、そのまま現在の繁華街につながる。特に平田屋町より横町にかけてが広島の中心本通りで、近代的なアーケード街の敷石には、埃っぽい西国街道の面影は微塵もない。
繁華街の北、広島城との間の地には現在県庁などの官公庁や、美術館・図書館などの文化施設がゆったりと建てられ、公園などもひろがるが、そこはもと家老など上級武士の屋敷地であった。天明年間(一七八一‐八九)の広島城下絵図によれば、現在の県庁あたりは家老上田主水の屋敷、広島カープの本拠地広島市民球場付近には家老三原浅野家の屋敷が描かれている。
(K・Y)
初出:『月刊百科』1982年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。