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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第21回 保美 
【ほび】
14

渥美半島の先端近く、芭蕉・杜国再会の地
愛知県渥美郡渥美町保美
2008年10月03日

芭蕉の有名な句に

鷹一つ見付てうれしいらご崎

がある。弟子の杜国が坪井庄兵衛という米屋でなかったら、あるいはこの句も生まれなかったかもしれない。

一七世紀のはじめ、尾張国の中心地は清須(きよす)(現西春日井郡清洲町)から名古屋へ移った。人・家・町ごとの大移動で、清須越(きよすごし)とよばれている。「清須越の町名」といえば、清須から名古屋に移転してきた町名を意味する。正万寺(しょうまんじ)町(現名古屋市中区丸の内一丁目)も清須越の町名である。清須時代は勝鬘寺(しょうまんじ)町と記され、額田(ぬかた)針崎(はりさき)村(現岡崎市)の勝鬘寺と関わりがあった。
芭蕉が深く愛した杜国は、この名古屋城下正万寺町で米穀商を営んでいた。彼は手形を以て帳簿上の米を売るという空米売却の罪を問われて死罪の判決をうけたが、尾張藩主徳川光友により減刑され、貞享二年(一六八五)名古屋から渥美半島の(はた)ヶ村(現渥美郡渥美町福江)へ送られた。畑ヶ村は畠村とも書き、元禄元年(一六八八)には、家数一四二、人数八六一という大村であった。一六〇~二〇〇石積の平田船が一六艘、四〇石積のいさば船が三艘あり、畠港を基地に尾張・伊勢との交流が行なわれ、漁業も盛んであった。
「三河国名所図絵」に畑ヶ村は「諸国舟揖の便利能て、朝に運送の纜をとくあれば暮に入津の帆を下すあり。殊に近郷当所に来りて諸品を求め、且海藻及び木綿を織て当所にひさぐ。其人群集して市の如く、故に商人軒を並べ店をかざりて恰も都会の地に似り。其繁昌なる事奥郡(おくこおり)に冠たり」と記されている。江戸時代、渥美半島の中央部から先端にかけての地域は奥郡と呼ばれていた。
旧郷社の畠神社には「お白石」の伝承がある。むかし人々は、九月二九日の大祭の前日に海岸で白い石を一二個(閏年は一三個)拾い、神酒・賽銭と共に神前に供え、一年の無事を祈った。これに対して神社は礼として白酒を振舞ったという。

杜国はやがて、畑ヶ村の西に接する保美村に隠棲した。芭蕉は貞享四年一〇月江戸を発って東海道を上る。いわゆる「笈の小文」の旅である。一一月一〇日鳴海(なるみ)(現名古屋市緑区)を発ち、杜国を見舞うため後戻りして、弟子の越人と共に吉田(よしだ)(現豊橋市)に泊った。そして越人の案内で保美を訪れた。
保美には、現在は大部分が消滅したが、貝塚があった。昭和三九~四〇年の調査によれば、上層は縄文晩期後葉、下層は晩期中葉の貝層であった。下層貝層下からは成人人骨六体分などが検出されている。中世、伊勢神宮外宮の神領地である伊良胡(いらご)御厨が成立したが、これは現渥美町西半の広い地域を占めていたと考えられている。保美村の西の亀山(かめやま)村や前述の畑ヶ村などは後世、御厨七郷(みくりやしちごう)と呼ばれており、保美もまた伊良胡御厨のうちに含まれていたであろう。
保美という地名はこの時、芭蕉の心をひき、次のように記している。

此里をほびといふ事、むかし院のみかどのほめさせ給ふ地なるによりて、ほう美といふよし、里人のかたり侍るを、いづれの文に書きとどめたるともしらず侍れども、かしこく覚え侍るままに、
 梅つばき早咲(はやざき)ほめん保美の里
いらご崎ほど近ければ、見に行き侍りて、
 いらご崎似る物もなし鷹の声

伊良古崎(いらごさき)(伊良湖岬)に関しても芭蕉は、「三河の国の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入(えらびいれ)られたり」と記している。たしかに、「万葉集」巻一に「伊勢国伊良虞嶋」とある。これは、伊勢の神島から眺めると、伊良湖岬は、あたかも近くの島のごとくに見え、それによって生じた誤解であろう。
保美や伊良湖岬に対した時の芭蕉は、地名というものを、歴史をたどって自分なりにしっかり握りしめようとしている。お役所仕事による、地名の歴史を無視した改変の非が指摘されている現在、芭蕉の態度に学びたい。
芭蕉は杜国と再会した。杜国は、

此頃の氷ふみわる名残哉

という句を師に送り、師は、

白けしに羽もぐ蝶のかたみかな

と吟じた。「鷹一つ見付て」の句もこの時のもので、杜国とあえた喜びがこめられている。

近世の保美村は、はじめ幕府領、寛永二年(一六二五)旗本清水氏領、享保一〇年(一七二五)再び幕府領、安永元年(一七七二)遠江相良藩田沼意次領、天明二年(一七八二)三たび幕府領となるなど複雑な変遷をたどって明治に至った。
杜国は元禄三年保美村で死んだ。正万寺町から畑ヶ村に送られてから五年後であった。翌年の四月二八日、芭蕉は「嵯峨日記」のなかで、「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」と心情をのべている。現在、保美の畑のなかに石柱が立ち、「杜国屋敷跡」と刻まれている。

(T・I)


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初出:『月刊百科』1982年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。