芭蕉の有名な句に
がある。弟子の杜国が坪井庄兵衛という米屋でなかったら、あるいはこの句も生まれなかったかもしれない。
一七世紀のはじめ、尾張国の中心地は
芭蕉が深く愛した杜国は、この名古屋城下正万寺町で米穀商を営んでいた。彼は手形を以て帳簿上の米を売るという空米売却の罪を問われて死罪の判決をうけたが、尾張藩主徳川光友により減刑され、貞享二年(一六八五)名古屋から渥美半島の
「三河国名所図絵」に畑ヶ村は「諸国舟揖の便利能て、朝に運送の纜をとくあれば暮に入津の帆を下すあり。殊に近郷当所に来りて諸品を求め、且海藻及び木綿を織て当所にひさぐ。其人群集して市の如く、故に商人軒を並べ店をかざりて恰も都会の地に似り。其繁昌なる事
旧郷社の畠神社には「お白石」の伝承がある。むかし人々は、九月二九日の大祭の前日に海岸で白い石を一二個(閏年は一三個)拾い、神酒・賽銭と共に神前に供え、一年の無事を祈った。これに対して神社は礼として白酒を振舞ったという。
杜国はやがて、畑ヶ村の西に接する保美村に隠棲した。芭蕉は貞享四年一〇月江戸を発って東海道を上る。いわゆる「笈の小文」の旅である。一一月一〇日
保美には、現在は大部分が消滅したが、貝塚があった。昭和三九~四〇年の調査によれば、上層は縄文晩期後葉、下層は晩期中葉の貝層であった。下層貝層下からは成人人骨六体分などが検出されている。中世、伊勢神宮外宮の神領地である
保美という地名はこの時、芭蕉の心をひき、次のように記している。
保美や伊良湖岬に対した時の芭蕉は、地名というものを、歴史をたどって自分なりにしっかり握りしめようとしている。お役所仕事による、地名の歴史を無視した改変の非が指摘されている現在、芭蕉の態度に学びたい。
芭蕉は杜国と再会した。杜国は、
という句を師に送り、師は、
と吟じた。「鷹一つ見付て」の句もこの時のもので、杜国とあえた喜びがこめられている。
近世の保美村は、はじめ幕府領、寛永二年(一六二五)旗本清水氏領、享保一〇年(一七二五)再び幕府領、安永元年(一七七二)遠江相良藩田沼意次領、天明二年(一七八二)三たび幕府領となるなど複雑な変遷をたどって明治に至った。
杜国は元禄三年保美村で死んだ。正万寺町から畑ヶ村に送られてから五年後であった。翌年の四月二八日、芭蕉は「嵯峨日記」のなかで、「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」と心情をのべている。現在、保美の畑のなかに石柱が立ち、「杜国屋敷跡」と刻まれている。
(T・I)
初出:『月刊百科』1982年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。