地名は人類が言語を使用するようになってから今日まで、特定の地表面を明示するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきた。特定の地表面の明示は、生産活動や相互交流など、人間が社会的生活を営む上で必要不可欠なものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより多彩なものとなって、地表面の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。その意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の隙間を埋める重要な存在である。
『大和地名大辞典』(大和地名研究所編)と『大和地名大辞典 続編』(日本地名学研究所編)
平城京は廃都後まもなく荒廃して田地と化し、宮跡は幕末まで確認されていなかったが、伊勢津藩士北浦定政の調査で京内の条坊と宮跡の位置が復原された。明治時代、この業績を継承し進展させたのが建築史家の関野貞で、関野は宮跡内に残る「大黒(だいこく)の芝」とよばれる大土壇を「大極殿」の転訛と考え、これをもとに大極殿・朝堂院などを推定し、のちの本格的発掘調査への道を開いた。地名が遺跡解明の手がかりとなった好例であり、地名をうまく解きほぐすことで極めて重要な情報が得られることを示すものであった。近年、寺院跡発掘や条里復原などにおいては、地名(特に小字)が提供する情報が重要視されている。しかしながら歴史学研究において、地名は決して正当な評価を与えられてきたとは言えない。地名考証が科学的方向性を持たず、偏狭な語源論や起源論に陥りがちで説得力に欠けるものであったためである。そのことに早くから気付いていたのが昭和一七年(一九四二)に大和地名研究所(のち日本地名学研究所)を創設した中野文彦と所員の池田末則で、一〇年をかけて奈良県全域の小字調査を実施、一二万余の小字を収集・索引化して『大和地名大辞典』(大和地名研究所/昭和二七年)、同書続篇(同上/同三四年)を刊行した。
ナラは朝鮮語で「大いなる国」の意味で、壮大な都城が造営されたことによってナラ(奈良)と名づけられたという説や、渡来人が安住の地を得たことから、安らかに宿る意の安宿──アンシュクがアンスク→アスク→アスカとなり飛鳥の地名ができたとする説は、奈良県下にナラの大字・小字が約七〇カ所、アスカが約一〇カ所も点在することからすると、とうてい納得できるものではなくなっている。『和名抄』にみえる百済(くだら)(河内・摂津)、新羅(しらぎ)(陸奥)、高麗(こま)(山城・武蔵)、村主(すぐり)(伊勢)などの郷名については、『日本書紀』などから渡来系の人びとが多く居住していたことが裏付けられており、外来語に起因する地名を否定するものではないが、それを認めさせるには確かな根拠が必要であろう。近年、小字の重要性が見直され、奈良県においては県立橿原考古学研究所が奈良盆地の条里復原を企図して県北部の小字図を完成させ、復原条里図に史料にみえる固有坪名を記入した『大和国条里復原図』(吉川弘文館/昭和五六年)を刊行、これを利用して中世荘園や集落研究のみならず、多くの分野での研究成果が期待されている。
土地の命名には地理・歴史・民俗・政治・経済・文化など様々な要因があり、それゆえに地名の研究は複雑・多面的で、非常に困難な作業を伴う。同じような地形であっても呼称が違ったり、同じ呼称でも地形が違ったりする。発生時期・境域・命名集団等の問題もある。なにより伝承過程で原形を失う場合が多いことである。地名の語義を考証するためには、伝承過程を明らかにすることが重要と主張したのが前記の池田末則で(『日本地名伝承論』平凡社/昭和五二年)、これは地道な小字の収集・分類作業と、史料の整理・検討から導き出された結論であった。以下、日本の地名の問題を文字文化という面からみてゆきたい。
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