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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第102回 佐草
【さくさ】
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八重垣神社の鎮座地
島根県松江市
2014年04月11日

島根県の県庁所在地松江市は、宍道しんじ湖の東半を取り囲むように市域を展開させる。かつて湖の北側は島根郡・秋鹿あいか郡に属し、南側は意宇おう郡に属していた。縁結びの神として名高い八重垣神社は、松江市街中心部から南へ約五キロ、旧意宇郡域にあたる松江市佐草町に鎮座する。

社名は『古事記』に記載の須佐之男命が詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌にちなむといわれ、現在は素戔嗚命すさのおのみこと(須佐之男命)・奇稲田姫命くしなだひめのみことを祭神とし、合祭神として大己貴命おおなむちのみこと、相殿には青幡佐久佐日古命あおはたさくさひこのみことを祀っている。

佐久佐女さくさめの森とよばれる奥院の森は、奇稲田姫命が八岐大蛇やまたのおろちの難を避けるために八重垣を築いて避難したところといわれ、また、この森の中にあるかがみノ池は奇稲田姫命が避難した際に飲料に用い、姫命はその水面に姿を映して化粧を行ったと伝える。池の中からは古墳時代後期の須恵器の甕や高坏片が発見されており、考古学上は水霊信仰にかかわる祭祀遺跡との指摘がある。

また、かつて本殿の板壁画であった「板絵著色神像」(三面。国指定重要文化財)が境内の宝蔵に収納されている。描かれた六神像のうちの一体は奇稲田姫命で、社伝では寛平五年(八九三)に八重垣神社に参籠した宮廷絵師の巨勢金岡こせのかなおかが描いたものというが、作風からみて室町時代から安土桃山時代の作と考えられている。

このように、八重垣神社は奇稲田姫命との関連を物語るさまざまな伝承を有する神社なのだが、天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』に八重垣の社名がみえないことから、古くから佐草の地に鎮座していたわけではないと推定されている。

八重垣神社鎮座地の佐草町は、古代には『和名抄』記載の意宇郡「大草郷」に含まれていたと考えられる。『出雲国風土記』は大草郷について「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(丁壮命)坐す。故、大草といふ」と記し、同書では意宇郡に「佐久佐社」が、『延喜式』神名帳では意宇郡四八座のうちに「佐久佐神社」がみえる。

「佐久佐」の訓みは「さくさ」であったと思われ、この社名は前出の須佐之男命(須佐乎命)の御子神である「青幡佐久佐日古命(丁壮命)」の名に由来すると思われる。その後、仁寿元年(八五一)に佐久佐社は「青幡佐草壮丁命」として従五位下に(『日本文徳天皇実録』)、貞観七年(八五六)には「佐草神」として従五位上、同一三年に正五位下、元慶二年(八七八)には「青幡佐草壮丁神」として正五位上と神階を進めている(『日本三代実録』)。

では八重垣の社名はいつ頃から登場するのだろうか。天文一一年(一五四二)大内氏が出雲に侵攻した際、熊谷信直らが「八重垣」に陣を構えたといい(年未詳「二宮俊実覚書」吉川家文書)、永禄八年(一五六五)九月二三日の毛利元就判物(北島国造家文書)には意宇郡の山代やましろ郷(現松江市)内に「伊弉冊・伊弉諾・八重垣神楽田」が存在したことが記される。このように史料上では戦国期に入ってから八重垣の呼称が登場する。

近世に成立した『出雲国風土記鈔』や『出雲神社巡拝記』などは、八重垣神社はもと出雲国大原おおはら郡(意宇郡の南方に続く郡)の海潮うしお郷にあった須我すが社で、のち佐草の地に進出して佐久佐社(佐草社)を吸収、これを末社のごとき小社としたと説いている。

この経緯が事実かは未詳だが、八重垣の社名は戦国期から近世にかけて佐久佐社に代わって使用されており(慶安五年「八重垣社領検地帳」佐草家文書など)、八重垣神社が他の地域から移転してきた可能性は充分に想定される。現在の祭神が『古事記』の出雲神話にちなんだ素戔嗚命・奇稲田姫命で、『出雲国風土記』に登場する青幡佐久佐日古命(丁壮命)が相殿となっていることも、社名・社格の変遷を物語っているかもしれない。

なお、古代の大原郡海潮郷の地、現在の大原郡大東だいとう須賀すが(江戸時代には「諏訪村」と称した)の地に鎮座する須我神社は、須佐之男命が八岐大蛇退治後に稲田姫(奇稲田姫命)と結ばれて宮作りしたのが神社の草創と伝え、「日本初之宮」の称もある。

享保二年(一七一七)成立の『雲陽誌』は須我神社について「天正年中此地回禄せり、故に社なし、須我の神宝錦の戸帳今纔に残り諏訪明神の社内に納といふ」と記し、近世には諏訪明神に合祀されていたようだが、この頃に奇稲田姫命は佐草に遷座し、須佐之男命が須賀に留まったという所伝もある。

佐草の八重垣神社は明治維新の神社制度改正にあたって本社・末社の関係を旧に復している。そして明治五年(一八七二)には青幡佐久佐日古命を祭神とする佐久佐神社として郷社に列した。

これに際して、佐草町の東に接する松江市大草おおくさ町(佐草町と同様に、古代には意宇郡大草郷の郷域であった)に鎮座し、中世には「出雲国惣社」と称された六所ろくしょ神社が、八重垣神社と同様に『出雲国風土記』の佐久佐社、『延喜式』の佐久佐神社は同社の前身であると主張して八重垣神社と争ったが、八重垣神社の勝利に終わった。

ところが、『出雲国風土記』『延喜式』にちなんで古名の佐久佐神社に改称した旧八重垣神社は、大正一一年(一九二二)になると、久しくなじんできた八重垣の社名は伏せ難いとの理由で八重垣神社に復称し、現在に至ったのである。

神々の故郷といわれる出雲には、『出雲国風土記』ないしは『延喜式』神名帳にその名がみえる数多くの神社が鎮座している。そして、これらの書々に記載される神社について、複数の神社がそれぞれに、当社が『出雲国風土記』『延喜式』記載の神社であると主張する場合も数多くみられる。出雲の神々をめぐる争奪戦はいまだに継続中であり、佐草もそんな歴史が刻まれた地名の一つといえるのだろう。

八重垣神社が鎮座する松江市佐草地区付近

(A・K)

初出:『月刊百科』1995年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである