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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第4回 琉球史像構築の思念から

     ── 「沖縄イニシアティブ」の前提 ──(1)

高良倉吉(たから・くらよし)
琉球史/『沖縄県の地名』編集委員代表
2007年05月11日

安良城盛昭の問題提起

 琉球・沖縄がたどったすべての歴史過程を見据えつつ、その総体を現在の地平に立ってどのようにシェーマ化できるかという問題について言えば、一九七○年代前半までの琉球史研究は未だ明快な所見を持てずにいたと思う。この状況に一石を投じたのが安良城盛昭(一九二七‐九三年)であり、沖縄在住時代の諸論をあつめた『新・沖縄史論』(一九八○年、沖縄タイムス社)などにおいて、旧来の琉球史認識を厳しく問う議論を随所で展開していた。彼が提示した論点を、あえて私なりの言葉で要約的に説明すると次のようになる。

首里城

首里城

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 安良城は、琉球・沖縄地域の文化的な基層が日本=ヤマトとのあいだに深い親縁性を持つことを認定したうえで、琉球史の特質の一つとして、古琉球(中世)期における独自の国家(琉球王国)形成の問題を強調した。つまり、琉球と日本=ヤマトが文化的な基層で結ばれていたとしても、琉球王国が形成されたという冷厳な事実によって、両者のあいだに歴史的な差が横たわる点を積極的に評価しようとしたのである。
 特質の二つは、日本=ヤマトに対し独自の存在となった琉球だが、日本=ヤマト主導による二つの事件、すなわち薩摩軍の侵攻(一六○九年)と琉球処分(一八七九年)を契機とするその後の歴史的展開を通じて、段階的に日本の国家体制に編成・編入されたことである。「琉球の日本化」ともいうべきこのプロセスを考える場合、琉球処分を契機とする近現代史の文脈に限定して語るのではなく、近世史をも視野に入れた認識の場で論議する必要性を彼は提示したのであった。
 三点目の特質として安良城が挙げたのは、沖縄戦(一九四五年)とその後に続くアメリカ統治下において、沖縄住民の圧倒的多数が日本に帰属する道を主体的な運動(祖国復帰運動)を通じて政治的に選択したことである。同時にまた、日本への復帰は一九七二年(昭和四七年)五月一五日で達成されたのではなく、日本のあり方を問うべき矛盾が沖縄をめぐって内包され続けるがゆえに、沖縄にとって日本復帰は果てしない過程として存在し続ける、と指摘することを彼は忘れてはいなかった。

歓会門

歓会門

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 このような歴史的特質を持つがために、日本社会の内にありながらも、沖縄は日本という国家の枠組みを自明視しない独自の立場を堅持するのであり、それゆえにこそ、沖縄を深く認識する作業は日本を深く捉える営為に通底する、と安良城は強調したのであった。彼の言葉で言えば、沖縄からは「日本がよくみえる」が、しかし、「日本がよくみえるためには、沖縄を深くとらえることが必須の前提」となるのである(『新・沖縄史論』)。
 安良城盛昭が沖縄に居を構え自在な活動を展開したのは一九七五年から八○年にかけてのことであったが、その行動や議論は革新的であり、かつ新鮮であった。感情移入型の沖縄論を徹底的に排し、根拠を備えた論を構築する必要性を一貫して説き続けるなど、当時の琉球史研究・沖縄研究に大きな影響を与えた。そのような彼と最も深く交流した一人がおそらく私だったと思うが、あの当時から二十余年の歳月が過ぎた今は、歴史研究者の一部が安良城の著書・論文に言及することはあっても、彼の仕事の意義を全体として話題にすることは稀な状況になりつつある。
 だが、私にとって安良城の問題提起は決定的な位置を占めており、今なお彼のそれを引きずっている。そのことを改めて確かめるために、沖縄をめぐる歴史的な総括の問題に関して、安良城が提示した論点を私がどのように引き受け、自分なりの問題意識において展開を図ったかについて述べてみたい。

琉球の五つの時代

 安良城ショックの洗礼を受け始めていた頃、それと並行して私はささやかながらアジア経験を開始していた。一九七四年(昭和四九年)と翌七五年の二度、ホンコン・タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシアを訪ね、琉球と東南アジアの交流史に関する痕跡や情報を探し求めた。この旅は単なる痕跡探しにとどまらず、私にとって、東南アジアという存在を意識した琉球史像をどのように描くべきか、という問題を考える端緒でもあった。
 安良城ショックとアジア経験をふまえながら、彼が独自の国家(琉球王国)形成段階として積極的に評価した古琉球(中世)期をおもな対象に据え、琉球史像に関する私なりの総括的な見通しを述べる目的で執筆したのが拙著『琉球の時代──大いなる歴史像を求めて』(一九八○年、筑摩書房)であった。
 『琉球の時代』は安良城盛昭と東南アジアに学んだ私なりの成果である。そのなかで琉球史の総過程を先史時代・古琉球・近世琉球・近代沖縄・戦後沖縄という五つの時代に区分し、この五つの段階=時代を継起的に経たうえで現在の沖縄が成立している、と規定した。そして、「日本文化の一環に属する文化をもち、日本語と同系統の言語を話す人々が沖縄の島々に住みついて独自の歴史を営んだ」過程が琉球史だと規定し、そのなかでとりわけ重大な問題は、「古琉球の時代に日本とは別個に独自の国家『琉球王国』をつくりあげた」点にあると強調した。
 さらに、そのように独自的な存在となった地域が二つの事件(薩摩軍の侵攻と琉球処分)を契機に段階的に日本社会に編成されたこと、戦後のアメリカ統治体制下において大多数の住民の要求・選択の結果として日本に復帰した、と指摘した。したがって、そのような特質を持つ琉球史を安易に日本史の一環として取り扱うべきではなく、少なくとも古琉球については現行の日本史像に回収されない独自の世界、いうなれば「外国史」と評価すべきだと述べた。
 安良城盛昭の提示を私のレベルで引き受けて敷衍したこの認識は、琉球・沖縄の文化的な基層が日本=ヤマトと共通することのほうをもっぱら重視し、琉球史の具体的な展開を軽視する旧来の状況を批判したものであった。同時にまた、琉球史の総過程を見据えたうえで、その特質を正面から規定する作業を曖昧にしてきた従来の研究状況を克服したいとの思念に支えられたものでもあった。
 例えば、「沖縄はなぜ日本の一部なのか」という問いが発せられた場合、基層文化の共通性を重視する論に立てば答えは次のようにしかならない。すなわち、琉球・沖縄と日本=ヤマトはそもそも文化的基層が同じであり、その後の歴史的展開はいろいろあったにせよ、収まるべき状態に収まったのだと。ここでいう「文化」がどのような実態を持ち、いかなる内容のものとして定義されているかは別として、少なくとも沖縄が日本であり続ける十分な理由や根拠になりうる概念として扱われている。
 そのような考え方に対し、「沖縄はなぜ日本の一部なのか」という問いに対する私の説明は異なる。結論から先に言えば、日本の一部であることを沖縄の住民が受け入れているがゆえに、沖縄は日本の一部なのである。
 古琉球に成立した琉球王国体制は沖縄の島々を組織化した成果であり、同時にまた、中国をはじめとするアジア諸国との交流を通じて独自の存在になりえた。その『琉球の時代』こそが「沖縄の地域的独自性をつくりあげた原点」であり、琉球あるいは沖縄と称される地域概念を成立させた時代だと指摘した。

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